日曜閑話81-2

今日は軽いのです。卑弥呼の死後に壱与が女王になった事は魏志倭人伝に記されています。壱与が女王になったのは247〜248年ぐらいに特定して良いと考えますが、壱与はいつまで女王だったのだろうです。魏志倭人伝には壱与が女王となり魏使が帰国した時点から後の記述がないのですが、魏の次は西晋ですからなにか書いていないか確認してみました。晋書倭国伝より、

宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見、其後貢聘不絶。及文帝作相、又數至。泰始初、遣使重譯入貢。

これも良く読まないとややこしいのですが、西晋の初代皇帝は武帝司馬炎)なんですが司馬炎

  1. 祖父の司馬懿(仲達)を宣帝
  2. 伯父の司馬師を景帝
  3. 父(司馬師の弟)の司馬昭を文帝
こう諡号を贈っています。つまり晋書にある宣帝とは司馬懿の事になります。この司馬懿による公孫氏攻略は238年の事になります。そうなれば女王は壱与になるはずですが、ここはやや微妙な気がします。卑弥呼時代のものを指している気もします。と言うのもこの前段が、

漢末、倭人亂、攻伐不定、乃立女子為王、名曰卑彌呼

この続きですから文脈上、卑弥呼と受け取れそうな感じもするからです。次に書いてある文帝(司馬昭)の時代は255〜265年になります。壱与女王は21〜31歳になりますから生きていても不思議有りませんし、この時代に「又數至」なら壱与女王の可能性は十分にあります。ここまではまだ良いのですが、泰始は武帝司馬炎)の最初の年号で265〜274年まで使われています。晋書武帝紀には、

(泰始二年)十一月己卯、倭人が来てその産物を献上した

素っ気ないなぁ。泰始二年でも壱与は32歳ですから生きていてもおかしくないのですが・・・どうでしょうか。でもって武帝紀に倭が出てくるのはこの1ヵ所だけです。仕方がないのでキーワードを少し広げて東夷で拾ってみます。

西暦 事柄
咸寧二年二月 276年 東夷八国が帰順した
咸寧二年七月 東夷十七国が服従してきた
咸寧二年十二月 東夷三国・・・服従
咸寧四年三月 278年 東夷六国が来貢した
咸寧四年十二月 東夷九国が服従してきた
太康元年六月 280年 東夷十国が帰順した
太康元年七月 東夷二十国が朝貢した
太康二年三月 281年 東夷五国が朝貢した
太康二年六月 東夷五国が服従してきた
太康三年九月 282年 東夷二十九国が帰順し、その特産品を献上した
太康七年八月 286年 東夷十一国が服属してきた
太康八年八月 287年 東夷二国が服属してきた
太康九年九月 288年 東夷七国が校尉のもとに来て服属した
太康十年五月 289年 東夷十一国が服従してきた
太康十年十二月 東夷で遠方にあるもの三十国あまりと・・・来貢した
太煕元年二月 290年 東夷七国が朝貢した
東夷は日本限定の表現ではありません。wikipediaからなんですが後漢書東夷伝にあがっている国は、

夫餘国,高句麗,東沃沮,北沃沮,肅慎氏(挹婁),濊,韓(三韓),倭人倭国),百済国,加羅国,勿吉国(靺鞨),失韋国(室韋),豆莫婁国,地豆于国,庫莫奚国(奚),契丹国,烏洛侯国,裨離国,養雲国,寇莫汗国,一群国,新羅,琉求国(流求国),日本国,流鬼

日本も入っていますが、現在の半島や中国東北地方の国々の一部も指すようです。あえて注目すれば泰始二年(266年)には素っ気ないですがまだ「倭」と表現されています。以後に倭の記述がない可能性として、

  1. 倭との交渉が絶えていた
  2. 倭を代表する勢力がなくなり、倭からバラバラに使節が来ていた
どちらかをこれだけの情報で決めるのは無理がありますが、個人的には2.に傾いています。壱与女王がどこまで健在であったか、邪馬台国の覇権がどこまで続いていたかはなんとも言えませんが、北九州にあった卑弥呼からの覇権政府は266〜270年の間ぐらいに瓦解したんじゃないかと推測しています。ちなみに次に「倭」が出てくるのは晋書安帝紀

是の歳、高句麗倭国、および西南夷・銅頭大師、並びて方物を献ぜり。

義熙9年(413年)になります。この安帝の時代も大変で、安帝は396年に即位したものの403年に桓玄によって東晋王朝を滅ぼされています。404年に桓玄が殺された事によって復位(東晋復活)したものの劉裕によって418年に殺されています。東晋末のドタバタ状態として良いでしょう。まあ、東晋王朝の力が落ちたので東夷の小国である倭の存在が大きくなって「その他東夷」から格上げされた可能性もあります。

それとこの時の高麗の使節の事は三国史記高句麗本紀の長寿王の条によれば、

元年(413年)、使者・高翼を東晋に派遣し、国書を奉呈し、白馬を献上した。安帝は王を封じて、高句麗王楽安郡公とした

とあります。では日本はどうかですが、書紀応神紀に

廿八年秋九月、高麗王遣使朝貢、因以上表。其表曰「高麗王、教日本國也。」時太子菟道稚郎子讀其表、怒之責高麗之使、以表状無禮、則破其表

これが該当するの意見もありますが、今日の時点ではなんとも言えません。