日曜閑話80-7

JSJ様の

寺沢薫氏の言うところの纒向型前方後円墳ですねぇ。http://ja.wikipedia.org/wiki/纒向型前方後円墳
氏の主張が正しければ、これらの墳墓の築造時に
墳墓を可視化装置とした地域首長の序列化=原大和朝廷体制
が成立していたことになり、
神武東征説にとっては相変わらず3世紀前半の呪縛から逃れられないことになります。
一言でいえば、いままでの議論における箸墓古墳の位置に纏向石塚古墳が来るということです。

寺沢説は定説までにはなっていませんが、纏向式前方後円墳の築造年代と全国的な広がりは無視しにくいところです。ピンポイントで箸墓古墳の築造年代を4世紀初頭まで動かしたら、ぞろっと纏向式前方後円墳が出て来たってところでしょうか。私の目指している仮説は「神武は卑弥呼と同時代ないしは後の人」ですから、これへの突破口を模索してみます。


饒速日命の東征

wikipediaより、

日本書紀』によると、甲寅の歳、45歳のとき日向国の地高千穂宮にあった磐余彦は、兄弟や皇子を集めて「天孫降臨以来、一百七十九萬二千四百七十餘歲(179万2470余年。神道五部書のうち『倭姫命世紀』、『神祇譜伝図記』ではニニギは31万8543年、ホオリは63万7892年、ウガヤフキアエズは83万6042年の治世とされ、計は179万2477年となる。)が経ったが、未だに西辺にあり、全土を王化していない。

ここの神武紀の原文は非常に読みにくいので堪忍して下さい。意訳すれば西は征したが東は未だ征していないぐらいでしょうか。これに対して

抑又聞於鹽土老翁、曰『東有美地、逭山四周、其中亦有乘天磐船而飛降者。』余謂、彼地必當足以恢弘大業・光宅天下、蓋六合之中心乎。厥飛降者、謂是饒速日歟。何不就而都之乎。」諸皇子對曰「理實灼然、我亦恆以爲念。宜早行之。」是年也、太歳甲寅。

塩土老翁から意見を聞くと言うスタイルを取っています。名前からして年老いた見聞の広い知恵者みたいな感じでしょうか。塩土老翁が東に向かい都にするべき場所として、

    東有美地、逭山四周
青山四周と言うからには河内でなく大和を指しているのは明瞭と受け取ります。ただしそこは無住の地ではなく、饒速日命ニギハヤヒノミコト)が先に住んでいるとなっています。この饒速日命wikipediaからですが、

日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国奈良県)に移ったとされている。

この饒速日命古事記では邇藝速日命と書かれています。ここでのポイントは記紀

    神武より先に東征を行った者がおり、その名を饒速日命と云う
こう書かれている事です。神武神話はまったくの作り話ではないと見ています。何がしらかの実話をベースに構成されたものと見ています。仮に作り話なら饒速日命の存在は余計なもので、それこそ先住民を景気よく蹴散らせば良いはずです。あえて饒速日命のエピソードが含まれる点から、神武より前に畿内に東征を行ったと取ります。


饒速日命の東征時期

饒速日命もまた北九州から来たと考えるのが妥当です。北九州については古代ギリシャ的な都市国家間抗争が慢性的に続く状態を想定しています。つまりは安易に畿内に遠征軍を送れる状態ではない事になります。都市国家と言っても吉野ヶ里で5000人程度と推定されていますから、たとえ100人でも遠征軍を繰り出せば近隣諸国とのパワーバランスが崩れるからです。もし北九州から遠征軍を送れるとすれば、覇者の登場による一時的な平穏時代になるかと考えます。ここで漢書地理誌・倭人条には、

樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來献見云

倭国大乱の時期の様子の描写と解釈していますが、それでもその中の有力国家は定期的に使節を送っていたと読みたいところです。これが曲がりなりにも一本化したのはやはり卑弥呼の時代となります。魏志倭人伝には倭の代表として女王卑弥呼を扱っているのは、北九州の抗争状態を収め、使節を一本化した点を評価していると考えます。ではその即位時期ですが「以歳時來献見云」に注目します。「歳時」の解釈は分かれているようですが、私は節目と取りたいところです。もう一度魏志倭人伝で年代がわかる卑弥呼と魏の外交記録を再掲します。

西暦 魏年号 魏志倭人伝
238年 景初2年6月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝献
景初2年12月 詔書報倭女王
240年 正始元年 太守弓遵遺建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國
243年 正始4年 倭王復遺使
245年 正始6年 詔賜倭難升米黄幢
247年 正始8年 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黄幢
最初の景初2年は卑弥呼の即位を魏帝に報告するためと読めないでしょうか。2回目の正始元年の魏の使節ですが、明帝(曹叡)が死に曹芳が即位した節目に読めます。その次の正始4年はその答礼です。まあ無理もあるのですが、最初の卑弥呼使節卑弥呼の即位ないし卑弥呼が倭を代表する勢力と魏が認定した時期と取れそうな気がします。卑弥呼の覇権は238年頃から確立したの見方です。覇権が確立すれば何をするかです。類型的に多いのは内部抗争に向けられていたパワーを外に向ける政策が取られると思います。つまり畿内遠征が可能になる時期が生じるです。

ここも幅を取りたいところで、2つの可能性は念頭に置きたいところです。

  1. 238年が卑弥呼即位の年ではなく、卑弥呼の覇権が完全に成立した年とすれば、230年ぐらいから外征の余力が生じた可能性
  2. 卑弥呼の覇業が卑弥呼一代ではなく、先代からのものとすれば、これまた230年ぐらいから外征の余力が生じた可能性
230年ぐらいに「ほぼ」の覇権が確立していたが、残存勢力のゲリラ的な抵抗が散発的に残っていた時期ぐらいの解釈です。実はもう一つ可能性があります。魏志倭人伝には倭国大乱が70〜80年続いていたと記しています。これを額面通りに受け取ると、150年以前にも覇権を確立していた勢力があった事になります。それこそ後漢書倭国伝にある

安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升らに奴隷百六十人を献上させ、朝見(天子に拝謁する)を請い願う。

この時の覇者の時代です。つまり北九州から畿内に遠征軍を送れる時期は、

  1. 倭国大乱前の100〜150年
  2. 倭国大乱後の230〜257年(卑弥呼の時代)
この2つが候補に絞られてきます。個人的には饒速日命がアマテラスから十種の神宝を授かっている点を重視して「卑弥呼 = アマテラス」としたいのですが、纏向式前方後円墳の寺沢説を考慮に入れると、時間的にアウトになります。そうなれば饒速日命の東征は100〜150年の間の倭国大乱前が有力になると考えます。纏向式前方後円墳の築造年代は3世紀初頭まで遡れる可能性がある事は前に調べましたが、50年以上あれば可能と見れます。


ヤマト政権の原型

饒速日命の子孫が物部氏になりますが、これも基本的に謎の古代氏族です。物部氏の特徴としてwikipediaより、

物部氏の特徴のひとつに広範な地方分布が挙げられ、無姓の物部氏も含めるとその例は枚挙にいとまがない。長門守護の厚東氏、物部神社神主家の長田氏・金子氏(石見国造)、廣瀬大社神主家の曾禰氏の他、穂積氏、采女氏をはじめ、同族枝族が非常に多いことが特徴である。

これもwikipeaiaからですが

先代旧事本紀巻十「国造本紀」には、以下の物部氏族国造があったという。上述の石見国造のように、古代史料には見えないが国造を私称するものも存在する。

  • 参河国造
  • 遠淡海国造
  • 久努国造
  • 珠流河国造
  • 伊豆国
  • 久自国造
  • 三野後国造
  • 小市国造
  • 風速国造
  • 松津国造
  • 末羅国造
  • 野国

先代旧事本紀自体は偽書とされていますが、大同年間(806年〜810年)以後、延喜書紀講筵(904年〜906年)以前に成立したものとされています。特徴としては記紀のつまみ食いが多いのとは別に物部氏の記述が詳しいそうです。ですので一説として物部氏に伝わっていた書物を参考にしたのではないかと言われ、資料的価値を認められています。たしかに物部氏饒速日命に関する事は詳しく書かれているようで(全部は読めてません)、たとえば饒速日命が豊葦原の千秋長五百秋長の瑞穂の国に天下った時に従った随行衆の名前まで書かれています。名前を書いてたらキリがないので概略だけにしておきますが、

  1. 防衛32神・・・「ふせぎまもり」と読むようですが親衛隊でしょうか?
  2. 五分人・・・5人です。側近衆かな?
  3. 供領・・・どうも天物部衆を率いる5人の大将みたいです
  4. 天物部25部・・・供領に率いられる主力軍団みたい
  5. 船長・舵取り・・・6人
ついでですからアマテラスからもらった十種の神宝ですが、
  • 瀛都鏡
  • 辺都鏡
  • 八握の剣
  • 生玉
  • 死反の玉
  • 足玉
  • 道反の玉
  • 蛇の比礼
  • 蜂の比礼
  • 品物の比礼
先代旧事本紀を読みながら思い浮かべたものがあります。記紀にもありますが、出雲などの国譲り神話や征服神話は二つの時代の話が混ぜ合わさっている気がしました。一つは神武以後の畿内王権によるもの、もう一つは倭国大乱前の北九州覇権政府のものです。倭国大乱前の北九州覇権政府は畿内だけではなく出雲を始め広範囲に勢力を広げたんじゃなかろうかです。そのうちの一つが饒速日命の河内・大和征服です。そして、この全国展開事業はかなりの成果を収めかけていた可能性です。しかし肝心の北九州覇権政府が瓦解し混乱状態に陥ってしまったです。この時に本国に代わって勢力を伸ばしたのが饒速日命とその子孫の畿内勢力です。ちょうど代替する形で各地の勢力を取り込んでいったぐらいでしょうか。これが結果としてヤマト政権の原型となっていったぐらいの推測です。

こういう仮説にすれば冒頭の寺沢説ともなんとか整合性が取れる気がします。