JSJ様の
寺沢薫氏の言うところの纒向型前方後円墳ですねぇ。http://ja.wikipedia.org/wiki/纒向型前方後円墳
氏の主張が正しければ、これらの墳墓の築造時に
墳墓を可視化装置とした地域首長の序列化=原大和朝廷体制
が成立していたことになり、
神武東征説にとっては相変わらず3世紀前半の呪縛から逃れられないことになります。
一言でいえば、いままでの議論における箸墓古墳の位置に纏向石塚古墳が来るということです。
寺沢説は定説までにはなっていませんが、纏向式前方後円墳の築造年代と全国的な広がりは無視しにくいところです。ピンポイントで箸墓古墳の築造年代を4世紀初頭まで動かしたら、ぞろっと纏向式前方後円墳が出て来たってところでしょうか。私の目指している仮説は「神武は卑弥呼と同時代ないしは後の人」ですから、これへの突破口を模索してみます。
wikipediaより、
『日本書紀』によると、甲寅の歳、45歳のとき日向国の地高千穂宮にあった磐余彦は、兄弟や皇子を集めて「天孫降臨以来、一百七十九萬二千四百七十餘歲(179万2470余年。神道五部書のうち『倭姫命世紀』、『神祇譜伝図記』ではニニギは31万8543年、ホオリは63万7892年、ウガヤフキアエズは83万6042年の治世とされ、計は179万2477年となる。)が経ったが、未だに西辺にあり、全土を王化していない。
ここの神武紀の原文は非常に読みにくいので堪忍して下さい。意訳すれば西は征したが東は未だ征していないぐらいでしょうか。これに対して
抑又聞於鹽土老翁、曰『東有美地、逭山四周、其中亦有乘天磐船而飛降者。』余謂、彼地必當足以恢弘大業・光宅天下、蓋六合之中心乎。厥飛降者、謂是饒速日歟。何不就而都之乎。」諸皇子對曰「理實灼然、我亦恆以爲念。宜早行之。」是年也、太歳甲寅。
塩土老翁から意見を聞くと言うスタイルを取っています。名前からして年老いた見聞の広い知恵者みたいな感じでしょうか。塩土老翁が東に向かい都にするべき場所として、
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東有美地、逭山四周
『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。
この饒速日命は古事記では邇藝速日命と書かれています。ここでのポイントは記紀に
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神武より先に東征を行った者がおり、その名を饒速日命と云う
饒速日命もまた北九州から来たと考えるのが妥当です。北九州については古代ギリシャ的な都市国家間抗争が慢性的に続く状態を想定しています。つまりは安易に畿内に遠征軍を送れる状態ではない事になります。都市国家と言っても吉野ヶ里で5000人程度と推定されていますから、たとえ100人でも遠征軍を繰り出せば近隣諸国とのパワーバランスが崩れるからです。もし北九州から遠征軍を送れるとすれば、覇者の登場による一時的な平穏時代になるかと考えます。ここで漢書地理誌・倭人条には、
樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來献見云
倭国大乱の時期の様子の描写と解釈していますが、それでもその中の有力国家は定期的に使節を送っていたと読みたいところです。これが曲がりなりにも一本化したのはやはり卑弥呼の時代となります。魏志倭人伝には倭の代表として女王卑弥呼を扱っているのは、北九州の抗争状態を収め、使節を一本化した点を評価していると考えます。ではその即位時期ですが「以歳時來献見云」に注目します。「歳時」の解釈は分かれているようですが、私は節目と取りたいところです。もう一度魏志倭人伝で年代がわかる卑弥呼と魏の外交記録を再掲します。
西暦 | 魏年号 | 魏志倭人伝 |
238年 | 景初2年6月 | 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝献 |
景初2年12月 | 詔書報倭女王 | |
240年 | 正始元年 | 太守弓遵遺建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 |
243年 | 正始4年 | 倭王復遺使 |
245年 | 正始6年 | 詔賜倭難升米黄幢 |
247年 | 正始8年 | 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黄幢 |
ここも幅を取りたいところで、2つの可能性は念頭に置きたいところです。
- 238年が卑弥呼即位の年ではなく、卑弥呼の覇権が完全に成立した年とすれば、230年ぐらいから外征の余力が生じた可能性
- 卑弥呼の覇業が卑弥呼一代ではなく、先代からのものとすれば、これまた230年ぐらいから外征の余力が生じた可能性
この時の覇者の時代です。つまり北九州から畿内に遠征軍を送れる時期は、
この2つが候補に絞られてきます。個人的には饒速日命がアマテラスから十種の神宝を授かっている点を重視して「卑弥呼 = アマテラス」としたいのですが、纏向式前方後円墳の寺沢説を考慮に入れると、時間的にアウトになります。そうなれば饒速日命の東征は100〜150年の間の倭国大乱前が有力になると考えます。纏向式前方後円墳の築造年代は3世紀初頭まで遡れる可能性がある事は前に調べましたが、50年以上あれば可能と見れます。饒速日命の子孫が物部氏になりますが、これも基本的に謎の古代氏族です。物部氏の特徴としてwikipediaより、
物部氏の特徴のひとつに広範な地方分布が挙げられ、無姓の物部氏も含めるとその例は枚挙にいとまがない。長門守護の厚東氏、物部神社神主家の長田氏・金子氏(石見国造)、廣瀬大社神主家の曾禰氏の他、穂積氏、采女氏をはじめ、同族枝族が非常に多いことが特徴である。
これもwikipeaiaからですが
先代旧事本紀巻十「国造本紀」には、以下の物部氏族国造があったという。上述の石見国造のように、古代史料には見えないが国造を私称するものも存在する。
先代旧事本紀自体は偽書とされていますが、大同年間(806年〜810年)以後、延喜書紀講筵(904年〜906年)以前に成立したものとされています。特徴としては記紀のつまみ食いが多いのとは別に物部氏の記述が詳しいそうです。ですので一説として物部氏に伝わっていた書物を参考にしたのではないかと言われ、資料的価値を認められています。たしかに物部氏と饒速日命に関する事は詳しく書かれているようで(全部は読めてません)、たとえば饒速日命が豊葦原の千秋長五百秋長の瑞穂の国に天下った時に従った随行衆の名前まで書かれています。名前を書いてたらキリがないので概略だけにしておきますが、
- 防衛32神・・・「ふせぎまもり」と読むようですが親衛隊でしょうか?
- 五分人・・・5人です。側近衆かな?
- 供領・・・どうも天物部衆を率いる5人の大将みたいです
- 天物部25部・・・供領に率いられる主力軍団みたい
- 船長・舵取り・・・6人
- 瀛都鏡
- 辺都鏡
- 八握の剣
- 生玉
- 死反の玉
- 足玉
- 道反の玉
- 蛇の比礼
- 蜂の比礼
- 品物の比礼
こういう仮説にすれば冒頭の寺沢説ともなんとか整合性が取れる気がします。