一の谷の合戦 義経軍多井畑宿営説の補強

延慶本を読み直す

まずは熊谷直実義経陣から抜け駆けするシーンを順番に読んでいきます。

くまがえのじらうは、子息小次郎なほいへに申けるは、「このおほぜいに具して山をおとさむにはかうみやうふかくもあるまじ。そのうへあすのいくさはうちこみにてたがさきと云事あるまじ。今度の合戦にいつぱうのさきをかけたりと、ひやうゑのすけどのにきかれたてまつらむとおもふぞ。そのゆゑは、兵衛佐殿しかるべきものをばひとまなる所によびいれて、『今度のいくさにはなんぢひとりをたのむぞ。親にも子にもいふべからず。いくさにをいてはちゆうをつくして頼朝をうらみよ』とぞのたまひける。なほざねにもかくおほせられし事を承て、いつぱうのさきをば心にかく。

読みにくにのは私も同じですから我慢してください。ここは直実が息子の直家に、頼朝から「頼りにしている」といわれ先陣を心掛けていたのに、一の谷の合戦では大勢での山攻めになりそうなので、先陣が成立しないだろうとボヤいたぐらいに受け取っても良いかと思います。ここで「おほぜい」とは延慶本平家物語では義経の搦手軍は、

  • 義経隊 7000騎
  • 実平隊 3000騎
こういう風に分割されたとしているので、7000騎での山攻めでの功名を得るのは難しいとも直実はボヤいています。

いざうれ小次郎、にしのかたよりはりまぢへをりて、いちのたにのさきせむ。うのときのやあはせなれば、只今はとらのはじめにてぞ有らむ」とて、うちいでむとしけるが、「あわれひらやまは先を心にかけたるとみるものを。平山は先にやこの山をいでぬらむ」と思て、人をつかはして平山がざいしよを見せけるに、つかひかへりて申けるは、「ひらやまどののおんかたには、只今馬のはみ物して、たひげに候ふも、おんぬしはまいりてさうらひげにて、おんもののぐめしさうらふかとおぼえて、おんよろひのくさずりのおとのかすかにきこへ候。おんのりむまとおぼしくて、鞍置てくつばみばかりはづして、とねりひかへて候。もののぐめし候が、平山殿のおんこゑとおぼしくて、『はちまんだいぼさつも御覧ぜよ。けふのいくさのまつ先せむずる物を』とのたまふ」と申ければ、くまがえさればこそとおもひて、小二郎直家、はたさしともに三騎あひぐして、はりまぢのなぎさに心をかけてうちいでむとする所に、むしやこそ五六騎いできたれ。

直家が寅の刻になっているので西の播磨路へ下りて、抜け駆けの一の谷の先陣をやろうと提案しています。これに対し直実は平山季重の様子を従者に見にいかせ、季重も先陣をやる気満々と知り同道することにします。そうなると抜け駆けを行動に移したのは3時30分ぐらいだったかもしれません。そんな時に5〜6騎馬の武者がやってきます。

「只今ここにいできたるはなむ者ぞ。名乗り候へ」と云けるこへを聞て、くらうおんざうしのおんこゑと聞て、直実申けるは、「是は直実にて候。君のぎよしゆつとうけたまはりさうらひて、おんともに参り候わむとて候」とぞ申ける。のちに申けるは、「御曹司のおんこゑをそのときききたりしは、百千のほこさきを身にあてられたらむも、是にはすぎじと、おそろしかりし」とぞ申ける。義経は「それがしより先にかくる者やある。又かたきやおそひきたるらむ」と思て、よまはりしけるなり。「いしう参たり」とのたまひて、ひきかへすところに、ともするやうにて、ぬきあしにこそあゆませたれ。

出会ったのは義経率いる夜回り隊です。先陣は武士の栄誉ですが抜け駆けは禁止になります。禁止と言っても見つからずにやれば先陣の栄誉を与えられるという矛盾したところがあるのですが、そこは置いといて、ここで義経に悟られて制止されたら、抜け駆けプランが水の泡になるので直実は「義経のお供をするつもりだった」の苦しい言い訳をして、義経にまず同道し、次第に遅れて義経から離れます。

「そもなぎさへいづる道の案内をしらぬをばいかがすべき。なましゐにいでば、いでぬ山にまよひてわらはれて、恥がましかるべし」と申ければ、小二郎申けるは、「むさしにて人のまうしさうらひしは、『山に迷はぬ事は安き事にて候なり。やまさはを下にだにまかり候へば、いかさまにも人里へまかる』とこそまうしさうらひしか。そのぢやうに山沢をたづねてくだらせ給へ」と申ければ、「さもありなむ」とて、山沢の有けるをしるべにてくだりけるほどに、おもひのごとくにはりまぢのなぎさにうちいでて、七日のうのこくばかりに、いちのたにの西のきどぐちへよせてみれば、じやうくわくのかまへやう、誠におびたたし。くがには山のふもとまでたいぼくをきりふせて、そのかげにすまんぎのせいなみゐたり。

義経の夜回り隊をなんとか誤魔化した後に、直実は渚に出る道がわからなければ道に迷って抜け駆けしたのに先陣出来ない恥をかくんじゃないかと心配します。これに対し直家は山沢を下れば人里に出るはずだとし、その通りに動いたら播磨路の渚に出ることができ、卯の刻に西の木戸に先陣を切る事が出来たとなっています。そこから先は平家軍の描写と熊谷親子、平山季重の奮戦の描写が続きますがこれは省略して、

源氏のからめで一万余騎なりけるが、七千余騎は九郎義経につきてみくさのやまにむかひぬ、三千余騎ははりまぢのなぎさにそうていちのたにへぞよせたりける。

義経軍の分割の話は上でしたので置いといて、先陣の熊谷・平山に続いて押し寄せたのは実平隊なのですが、これも播磨路から一の谷に攻め込んだとなっています。延慶本とて間違いじゃないかと思える個所は幾つかありますが、私が拾いたいポイントは

  1. 義経陣地から熊谷・平山が目指したのは西に向かう道であった
  2. その道を播磨路と呼んでいる
  3. さらにその道には山沢、すなわち小川が流れていた
  4. 義経陣地から播磨路を下ったところに播磨の海があった
熊谷・平山の抜け駆けの先陣は史実であり、熊谷・平山はこの時の話を何度もしていたと考えられるので、これらの地形描写は正しいと前提します。前回出した関連地図ですが、

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多井畑には古代に須磨の関があり、この関の東側を畿内と定めています。つまりは多井畑までは摂津であり、多井畑から西に進むと播磨になります。多井畑から古道越は塩屋に至る道と須磨に至る道がありますが、塩屋に至る道は播磨国内の道ですから播磨路と表現するのはアリだと思います。それと明治期の多井畑の地図見て下さい。

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多井畑厄神は南に向いて建ち、一の鳥居の前に東西に進む道があります。これを東に向かえば多井畑峠を越えて須磨に至り、西に向かえば塩屋に向かいます。でもって塩屋に向かう道には谷川が流れています。あくまでも読んだ感触ですが、熊谷・平山は義経の夜回り隊との応接にこそ困惑させられたものの、義経陣地から西の木戸へはさほどの問題なく駆け抜けたとして良さそうです。そうなんです、塩屋に実平陣地があれば、ここを通り抜ける描写があっても良さそうなものです。実平軍も寅の刻なら西の木戸への出発準備に追われているいる頃ですから、少しぐらいのトラブルがあったり、これを通り抜ける苦労譚が出てきそうなものです。塩屋は

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西側は鉢伏山が海に迫る狭い地形です。ここは古代では山陽道を通せなかったぐらい狭く今もかなり狭いところです。実平軍が宿営していたのならこの狭い地形を利用して、一の谷陣地からの夜襲警戒ポイントを設けていたとするのが自然です。そこをなんのトラブルもなく通り抜けたとするのは不自然ってところです。つうか、もし実平軍が塩屋にいる事を知っていたのなら、熊谷・平山はそもそも塩屋に抜けるルートを取らず、険しくとも多井畑峠を抜け、須磨に出るルートを選んだんじゃないだろうかです。

それと実平軍も播磨路を通ってきたと描写されています。塩屋から西の木戸までの山陽道を果たして播磨路と表現するだろうかです。これは実平軍も塩屋ではなく多井畑に宿営しており、多井畑から塩屋経由で西の木戸に向かった事を示唆している気もします。


ちょっとした連想

卯の刻に熊谷・平山の先陣があったのは事実と考えていますし、熊谷・平山の先陣に引き続いて実平隊が駆けつけたのも事実と考えています。ですから義経軍が卯の刻に矢合わせをする予定だったとは思いますが、範頼軍と打ち合わせの上だったかはチト疑問です。そもそも三草山で一晩で勝つとは予想できない訳であり、平家物語にあるように京都で2/7卯の刻に矢合わせの日時を決定するのは無理です。吾妻鏡では2/5夕に矢合わせの日時を決めたとしていますが、これが事実としてもその決定を義経軍に届られるかとなるとここにも疑問符が付きます。

義経軍は三草山の後も急行軍を重ねています。何回もシミュレーションしましたが、かなりの速度で進まないと2/7卯の刻の決戦に間に合いません。そんな義経軍を範頼からの使者は見つけることが出来るだろうかです。強いて言えば三草山勝利の使者を義経が昆陽野の範頼に送った時に義経が矢合わせ日時を決定し報告させたはありますが、義経も地理には昏いわけです。現代の様に精密な地図があるわけじゃありませんから、三草山から一の谷に進む道さえ漠然とした情報ぐらいしかなかったとするのが自然の気がします。無理やり考えれば、もっと早く着ける算段だったのがギリギリになったぐらいはありますが、2/7の矢合わせに関しては範頼軍も義経軍も独自に決め、それがたまたま一致した可能性も十分にありえると思っています。

さて熊谷・平山の二人は先陣に意欲を燃やしていたのですが、抜け駆けの最終決断の理由が延慶本にあるように、

    このおほぜいに具して山をおとさむにはかうみやうふかくもあるまじ。そのうへあすのいくさはうちこみにてたがさきと云事あるまじ
これだけだったのだろうかがあります。先陣とは合戦の白兵戦の火ぶたを切る役割で、宇治川ならわかりやすくて、両軍が対峙して矢戦の真っ最中に全軍注目の中で突撃する事を指します。しかし一の谷では源氏軍は大手の範頼軍と搦手の義経軍に2分割されています。それならば大手の先陣と搦手の先陣の二つがあるんじゃないだろうかです。義経軍はさらに別動隊で「山を攻む」となっていますから、ここの先陣もあるんじゃないかと思ったりします。それでも3つの戦線のうちで一番早い先陣がもっとも価値が高いと見るのは十分にアリです。平家物語にも、吾妻鏡にも一の谷の先陣は熊谷・平山の二人となっているからです。

そうならば熊谷・平山はせめて当面の目標として義経軍の先陣を狙ったと見るのが妥当と考えます。義経軍は義経隊と実平隊に分割され、義経隊は鵯越の逆落としをやるのですが、義経隊の戦闘開始は少々遅かった感触があります。玉葉より、

次いで加羽の冠者案内を申す(大手、浜地より福原に寄すと)。辰の刻より巳の刻に至るまで、猶一時に及ばず、程無く責め落とされをはんぬ。

巳の刻とは10時頃になりますが、大手で接戦を行っていた範頼軍が福原を占領できたのは義経の一の谷奇襲により平家軍が動揺を来したためとするのが妥当です。その奇襲が卯の刻から戦闘開始になっていたとは到底思えません。延慶本の描写でも熊谷直実が平山季重の様子を見に行かせると、出陣支度であったので抜け駆けをする気と判断したシーンがあり、さらに義経本人が夜回りをしているシーンが出てきます。つまり義経隊は寅の刻に出発する予定がなかったと見れます。

つまり熊谷・平山はこのまま義経隊に属していたら先陣が時刻的に不可能と判断したから抜け駆けをしたと見たいところです。多井畑宿営説を前提にしていますが、寅の刻は実平隊の出陣準備が終わる頃になると思われます。実平隊は卯の刻に西の木戸に攻めかかりますから、実平隊に所属している者に先陣の栄誉が与えられることになり、熊谷・平山だけでなく他の義経隊の武者にも「先陣が出来なくなる」の動揺があったと想像できます。だからこそ義経自身が抜け駆けが出ないように夜回りをしていたとすれば、それなりに辻褄が合う気がします。


塩屋宿営説の否定の補強

チト薄弱なのですが、一の谷は1日で落ちてしまったので見えにくくなっていますが、源氏軍とて必ずしも最初から1日で落ちるとは考えていなかったはずです。落ちなければ2/8以降の事も想定しておく必要があります。大手の範頼軍はその行軍速度からして生田の森攻撃に際し、拠点としての野戦陣地を築く時間はあったと考えられます。2/5に昆陽野を出て2/7に生田の森に移動しているだけですからね。では義経軍はどうかです。仮に塩屋に実平軍が宿営していたら後方拠点として最低限の整備をやらなかっただろうかです。塩屋は海岸沿いの細い道しか東から臨めませんから、そこに防衛拠点を作れば2/8以降に備えられます。しかし塩屋に源氏軍のその手の拠点はなかったとしか平家物語を読んでも、吾妻鏡を読んでも窺えません。たとえば吾妻鏡には、

本三位中將〔重衡〕於明石浦。爲景時。家國等被生虜。

重衡は一の谷から明石まで逃げたところを大手の軍監である梶原景時に生け捕りにされています。つまり塩屋にはなにもなかったとするのが妥当です。当時の合戦作法はそんなものだったのかもしれませんが、実平隊が多井畑から出発していれば塩屋は単なる通過点ですから、なんにもないのが当然と見ることもまた可能ぐらいです。


義経軍の兵糧の謎

最後に素朴な疑問なのですが、範頼軍はともかく義経軍の兵糧はどうしていたのだろうかがあります。義経軍の移動速度を考えると小荷駄隊みたいなものを引き連れて動く余裕はなさそうに思います。腰兵糧的なものを5日分ぐらい持って動いていたと見てもよいのですが、それなら長期戦はそもそも無理になります。現地調達は誰でも思いつきますが、これは平家・義仲が行って散々の不評を買っていますから、源氏軍としては避けたいところじゃないかと推測されます。この辺は戦国時代と少々違うところで無鉄砲に現地調達を行うと、そこが有力寺社や有力貴族の荘園だったりするわけです。

義経が三草山から山田荘を目指したのは、そこに行綱がいたからだけではなく、行綱に兵糧を融通してもらう意図もあったんじゃないかと考えています。行綱は不確かなところもありますが摂津国惣追捕使に任じられていたともされ、摂津での兵糧調達に少しは無理が利いたんじゃないかの想像です。ここで行綱に協力してもらえれば、藍那から多井畑に順次兵糧を補給してもらうのも不可能とは言えません。つまり義経軍は多井畑を補給拠点として一の谷合戦を行う算段であったかもしれないぐらいです。しかし、これらのプランは1日で一の谷が落ちたのですべて水面下で消滅してしまったぐらいを想像します。そうそう三草山の義経軍の兵糧問題は・・・わかんないです。短期でケリがつかなければ京都に帰る予定だったのでしょうか。


とりあえずの結論

2/7夜に義経全軍が多井畑に宿営していても、平家物語の記述にも吾妻鏡の記述にも「だいたい」辻褄は合うぐらいは言えそうです。また多井畑厄神には義経の必勝祈願伝承までありますから、必勝祈願を行うぐらいの時間があったなら宿営もしていたかもしれないは言えます。それに神社であれば屋根付きの宿営施設が期待できますから吾妻鏡

壽永三年(1184)二月大七日丙寅。雪降。

2/7は雪まで降っていたようですから、野宿より神社宿営を選んでも不思議ないと思います。地理的には塩屋まで4km弱ですから可能性は十分にあるんじゃないでしょうか。