まず年号の整理を少し、
西暦 | 平氏元号 | 源氏元号 | 備考 |
1181 | 養和元年 | 治承5年 | 7月に改元 |
1182 | 養和2年・寿永元年 | 治承6年 | 5月に改元 |
1183 | 寿永2年 | 治承7年 | * |
1184 | 寿永3年 | 治承8年・元暦元年 | 4月に改元 |
1185 | 寿永4年 | 元暦2年・文治元年 | 8月に改元 |
wikipediaより、
前年の1180年が極端に降水量が少ない年であり、旱魃により農産物の収穫量が激減、翌年には京都を含め西日本一帯が飢饉に陥った。大量の餓死者の発生はもちろんのこと、土地を放棄する農民が多数発生した。地域社会が崩壊し、混乱は全国的に波及した。
もう一つwikipediaより、
『方丈記』では京都市中の死者を4万2300人と記し、「築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満ち満ちて、変わりゆくかたち有様、目もあてられぬ事多かり」として、市中に遺体があふれ、各所で異臭を放っていたことが記されている。また、死者のあまりの多さに供養が追いつかず、仁和寺の僧が死者の額に「阿」の字を記して回ったとも伝える。
養和の飢饉の見方に少しだけ注意が必要で、旱魃が起こったのは治承4年で、収穫減から飢饉となったのは養和元年です。治承3年分のストックがなくなった時点で飢饉になったということです。治承4年というのが源平合戦の節目の年で、頼朝が関東で、義仲が北陸で挙兵しています。二人とも挙兵に成功し、頼朝が関東、義仲が北陸に勢力を広げますが、この二人の挙兵は京都から見ると反逆行為になります。簡単には賊軍になるのですが、食糧生産事情からいえば
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養和の飢饉の影響が比較的軽かった関東、北陸は賊軍の支配地になり、そこからの米が京都に入ってこなくなる
平家は官軍ですからまず治承4年に富士川を戦います。この時点は治承3年分の収穫が残っていたでしょうから、兵糧集めはまだマシだったかもしれません。しかし寿永2年の倶利伽羅峠では不足気味の畿内から兵糧をかき集める必要があり、不足気味の京都の食糧事情を悪化させ、そのうえ負けたので食い物の恨みを被ったと推測されます。倶利伽羅峠の平家軍の実害がどれほどであったかは諸説ありますが、畿内での兵糧調達が難しくなった平家は義仲軍に対抗できる軍勢を食べさすことが出来なくなり、都を落ち、西海に浮かんだぐらいのところです。
平家が京都を去った後に義仲が上洛しますが、義仲は畿内の食糧不足に対する認識が薄かったのかもしれません。京都の人々が義仲に期待したのは北陸からの米の搬入による食糧事情の緩和だったと思いますが、義仲は自分の軍勢を食べさすために畿内からまたぞろ兵糧調達を行ったとして良さそうです。そのために平家に代わって義仲が食い物の恨みを背負う結果になったと見て良さそうです。義仲が京都にいる間に情勢は刻々と変わっていきます。西海に逃れていた平家は西国で勢力を盛り返します。端的には瀬戸内海の制海権を握り、山陽道を東に進んで来ます。この時に平家は京都から見て賊軍であり、
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平家の支配する西国からの米が京都に入ってこなくなる
頼朝が鎌倉幕府構想をいつ考え出したかは不明ですが、当初は関東武士に根強くあった東国独立論に乗っかっていたぐらいは推測しても良いかと思っています。ただし上総介広常のような急進的な完全独立思想ではなく、京都朝廷と折り合いを付けながらの東国政府の樹立ぐらいでしょうか。京都を知っている頼朝は広常ほど朝廷を軽視できなかったぐらいです。寿永2年10月宣旨で公式の上洛(年貢輸送)の権限を得た頼朝ですが、京都朝廷及び京都の人々の反感を買う行動は避けたかったとして良いかと思っています。具体的には義仲追討のための遠征軍は送るが、この遠征軍の兵糧は畿内での調達を避け、可能な限り自前で関東から持っていこうです。そうしないと上洛はしたものの義仲の二の舞になって食い物の恨みを買ってしまう懸念です。
関東から京都までの軍勢の移動時間は範頼の記録から片道20日ぐらいと見れそうです。往復なら40日、義仲戦に10日とすると50日分ぐらいの兵糧が必要です。当時の海上輸送能力では関東から畿内に直接行くのは難しく、陸上輸送に頼らざるを得ないと前提します。兵が1日にどれだけ食べるかですが、雑兵物語では1日当たり5合、前橋藩軍役では6合となっています。源平期は朝夕の2食制であったと見てよさそうですから、ここは兵1人当たり5合と計算します。
米は主食ですが、さすがに米だけでは食事が成立しにくいところがあります。端的には塩、味噌ですが、試算の簡略化のために合わせて5合分の重量とします。それに軍馬の飼葉も必要です。駄馬にも飼葉は必要ですが、これは路傍の草でも食べるとさせて頂きますが、軍馬はそうはいかなかったぐらいに考えます。これも前橋藩の軍役では軍馬1頭に大豆2升、糠2升の合わせて4升となっています。
後は軍馬がどれぐらいいたかです。当時の軍制は小領主が馬に乗り、領民から集めた従者を率いるのが基本で、これを1騎と言います。1騎とは小隊みたいなものですが、これまた試算の簡略化のために平均の1騎を騎馬武者1人につき、9人の従者が要る10人の小隊とします。そうなると1騎あたりの1日当たりの必要兵糧は、
- 人の食糧が50合(= 5升)
- 馬の食糧が4升
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1斗 × 50(日)= 50斗
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50(斗)÷ 5.5(斗)=9(頭)
- 騎馬武者1人
- 軍馬1頭
- 従者9人
- 駄馬9頭
- 馬丁9人
騎数 | 将兵 | 馬丁 | 軍馬 | 駄馬 | 将兵+馬丁 |
1 | 10 | 9 | 1 | 9 | 19 |
100 | 1000 | 900 | 100 | 900 | 1900 |
200 | 2000 | 1800 | 200 | 1800 | 3800 |
300 | 3000 | 2700 | 300 | 2700 | 5700 |
400 | 4000 | 3600 | 400 | 3600 | 7600 |
500 | 5000 | 4500 | 500 | 4500 | 9500 |
600 | 6000 | 5400 | 600 | 5400 | 11400 |
700 | 7000 | 6300 | 700 | 6300 | 13300 |
800 | 8000 | 7200 | 800 | 7200 | 15200 |
900 | 9000 | 8100 | 900 | 8100 | 17100 |
1000 | 10000 | 9000 | 1000 | 9000 | 19000 |
1100 | 11000 | 9900 | 1100 | 9900 | 20900 |
1200 | 12000 | 10800 | 1200 | 10800 | 22800 |
1300 | 13000 | 11700 | 1300 | 11700 | 24700 |
1400 | 14000 | 12600 | 1400 | 12600 | 26600 |
1500 | 15000 | 13500 | 1500 | 13500 | 28500 |
-
1(斗)× 30(日)= 30斗
騎数 | 将兵 | 馬丁 | 軍馬 | 駄馬 | 将兵+馬丁 |
1 | 10 | 8 | 1 | 8 | 18 |
100 | 1000 | 800 | 100 | 800 | 1800 |
200 | 2000 | 1600 | 200 | 1600 | 3600 |
300 | 3000 | 2400 | 300 | 2400 | 5400 |
400 | 4000 | 3200 | 400 | 3200 | 7200 |
500 | 5000 | 4000 | 500 | 4000 | 9000 |
600 | 6000 | 4800 | 600 | 4800 | 10800 |
700 | 7000 | 5600 | 700 | 5600 | 12600 |
800 | 8000 | 6400 | 800 | 6400 | 14400 |
900 | 9000 | 7200 | 900 | 7200 | 16200 |
1000 | 10000 | 8000 | 1000 | 8000 | 18000 |
分類 | 30日体制 | 50日体制 |
将 | 1 | 1 |
従者 | 9 | 9 |
軍馬 | 1 | 1 |
馬丁 | 8 | 9 |
駄馬 | 8 | 9 |
はまのてよりは、がまのくわんじやのりよりたいしやうぐんとして三千余騎にておしよせたり。
「3000騎 = 3000人」とはえらい少ない気がします。いや、少ないというより妙にリアリティがある数字です。平家物語も治承物語などの先行本から作られたの説がありますが、ひょっとしたら実数がどこかにあったのを引っ張り込んだ可能性は残ります。つうのも2/4玉葉の、
源納言示し送りて云く、平氏主上を具し奉り福原に着きをはんぬ。九国未だ付かず。四国・紀伊の国等の勢数万と。来十三日一定入洛すべしと。官軍等手を分かつの間、一方僅かに一二千騎に過ぎずと。
玉葉も「騎 = 人」であるのは「僅か」の表現から間違いありません。「官軍等手を分かつ」とは範頼軍と義経軍の分割を指すとするのが順当です。延慶本では義経軍が1万騎もいたとはなっていますが、どう考えても過剰で仮に吾妻鏡の範頼軍5万6000騎、義経軍2万騎の比だけは正しいと仮定すると、義経軍は1000人程度になります。義経軍が1000人ぐらいじゃないと三草山の平家軍は吾妻鏡より、
平家この事を聞き、新三位中将資盛卿・小松少将有盛朝臣・備中の守師盛・平内兵衛の尉清家・恵美の次郎盛方已下七千余騎、当国三草山の西に着す。
義経軍が吾妻鏡にあるように2万騎もいれば、三草山合戦で源氏軍は平家軍の3倍もいた事になり、圧勝して当然の話になります。これが「1000人 vs 700人」なら勝って不思議はないとはいえ、一晩で潰走させたのは義経の手腕になります。ですので1000人の義経軍が延慶本では1万騎に膨れ上がるぐらいは十分にありうるぐらいにしておきます。ほいなら範頼軍が比例して3万騎に膨れ上がらなかったかですが、写本の過程でなぜか残ってしまったぐらいの苦しい理由にさせて頂きます。
さて強引な一致をもう一つ、延慶本では義経隊が7000騎、実平隊が3000騎としています。この義経の7000騎ですが吾妻鏡の
源九郎主先引分殊勇士七十餘騎
これに対応している可能性はないのだろうかです。吾妻鏡の出典も不明なのですが、たとえば延慶本の範頼軍3000騎も義経隊の70騎も軍監の梶原景時の報告書を基に作られていたぐらいの可能性です。景時の報告書は頼朝や朝廷への具体的な戦況報告書なので軍勢の数もかなり正確に把握したうえで書かれていたぐらいです。軍監ですから名簿の管理もしていたでしょうからねぇ。ただ70騎なら700人ぐらいですから、この数でもそれなりにリアリティがありますが、実平軍が300人はちと少ない気がします。
どうしたって力業になってしまいますが延慶本は「7」という数字に注目し、全軍が1万騎なら7000騎を算出し、吾妻鏡は70人を70騎と少し飾ったぐらいは如何でしょうか。ちょっとした傍証に熊谷・平山の抜け駆け先陣のエピソードに義経率いる夜回り隊にでくわす話があります。義経は4〜5騎を引き連れていたとありますが、この騎馬武者は抜け駆けしそうな小領主を引き連れていたと見れないだろうかです。夜回り隊に所属させてしまうのが抜け駆け防止には効果的だからです。
熊谷直実が抜け駆けしようとする寸前に義経の夜回り隊に出くわしたとなっていますが、これは偶然ではなくやらかしそうな直実を目的に訪れたんじゃないかです。だからこそ直実の「お供しようと思ってました」を素直に義経は聞き入れたぐらいの見方です。義経隊は10騎100人ぐらいの規模で、熊谷親子・平山季重が抜け駆けしたので3騎減り70人ぐらいなったとすれば、なんとか辻褄は合います。
はぁ、これぐらいが限界ですねぇ。ホント合戦の軍勢は何人いたかわからないものです。