三草山への平家軍進出考察

義経が三草山の平家軍を破り一の谷に間に合ったスケジュールについては前回までのムックで宜しいかと思います。今日のお題は何故に三草山に平家軍がいたかのムックです。とりあえず2/5の吾妻鏡には、

平家この事を聞き、新三位中将資盛卿・小松少将有盛朝臣・備中の守師盛・平内兵衛の尉清家・恵美の次郎盛方已下七千余騎、当国三草山の西に着す。源氏また同山の東に陣す。三里の行程を隔て、源平東西に在り。爰に九郎主、信綱・實平が如き評定を加え、暁天を待たず、夜半に及び三品羽林を襲う。仍って平家周章分散しをはんぬ。

この記事は昆陽野で範頼と義経が会った記述の後にあるため、2/5に昆陽野に源氏軍が集結した事に対する平家軍の反応に読めますが、義経軍の動きを考えると疑問が出ます。私の解釈では2/5未明に義経は平家軍を三草山で撃破した後に昆陽野に駆けつけたとなるからです。そうでないと距離と日付に矛盾が生じます。それと一の谷から三草山まで行程として2日ほどかかります。これはどうももっと以前から平家軍は播磨から丹波に軍勢を展開させていたと見るべきと思います。


玉葉吾妻鏡の記録

吾妻鏡を読むと寿永2年の10月頃から義仲軍は播磨を経由して備前に進出を行っています。吾妻鏡の寿永2年10月の末尾に

平家は讃岐国八島にありながら、山陽道をぞ打取ける。木曽左馬頭只今是を聞いて、信濃国住人矢田判官代、海野矢平四郎行廣を大将軍として、五百余騎の勢を差遣しけり。平家は讃岐国屋島にあり、源氏は備中国水島がみちにひかへたり。

この結果が閏10月1日の水島合戦になります。義仲軍はこれに敗れ義仲も援軍に駆けつけたりしたようですが、閏10月15日には義仲は今日に戻っています。当然のように平家勢力が東に伸びてくる訳です。播磨は忠盛・清盛以来の平家の地盤と見て良く、戦略的に一の谷に進出するためにも是非押さえたい国です。吾妻鏡より、

11月2日

十郎蔵人、三千余騎にて丹波国へかかりて、播磨国へぞ下りける。平家は門脇の中納言教盛・本三位中将重衡を大将軍にして、其勢一万余騎、はりまの国室の津につく。十郎蔵人三千余騎の勢皆討とめられて、わづかに五十よきになりにけり。播磨の方は平家に恐る。都は木曽に恐れて、和泉国へぞ落ちにける。

行家が平家討伐に向ったようですが、これまた惨敗しています。これで備前・播磨は平家の勢力下に置かれたと見て良いかと思われます。以後は玉葉の記録を読む限り、義仲は東進する平家軍との和睦・連携を模索する伝聞記事が何回か出て来ます。あくまでも推測ですが平家軍はこの勝利により福原への再上陸を決断したとも考えています。福原は播磨の確保無しに進出は無理だと考えられるからです。福原に構築した陣地の北と西の守りは播磨が平家軍の勢力圏にあるとの前提で作られていたと私は考え始めています。そのために

    播磨に平家軍は駐留していた
勢力圏に置くためには当然の方針と思います。


源氏軍の戦略

一の谷攻略を考えた時に源氏軍も播磨を重視したと見たいところです。これは一の谷陣地の北と西の守り弱体化の意味もありますし、源氏軍が主力を生田の森に進めた時に背後の京都を抑えられ、後白河の身柄を拘束される懸念も出て来るからです。そこを考慮すると選択枝は、

  1. 京都の守りを固めた上で一の谷攻撃
  2. 京都の西方の丹波を固めながら一の谷攻撃
  3. 播磨の平家軍を撃破して一の谷攻撃
源氏軍の動きは玉葉より、
寿永3年 内容
1/29 又聞、西国事、被遣追討使一定也、今日已下向(去廿六日出門)云々
2/1 昨今、追討使等、皆悉下向云々、先追落山陽道之後、漸々可有沙汰云々
2/4 官軍等分手之間、一方僅不過一二千騎云々
公式の平家追討令が出たのは1/29ですが、それ以前さらには直後から動いていた傍証として良いでしょう。おそらくと言うか結果的に丹波を固めながら播磨制圧を狙う作戦行動を取ったと私は見ています。こういう源氏軍の動きを見て吾妻鏡にある
    平家この事を聞き
この反応に至ったと見たいところです。播磨駐留の平家軍は丹波に進出してきた源氏軍が播磨に進んで来ると考え、これを迎え撃つべく動いたぐらいです。平家軍にしても播磨は重要地域ですから、ここを単に守るだけではなく逆に丹波に攻め込み、京都を狙う、もしくは脅かす戦略を考えたぐらいでも良いと思います。そうやって源平両軍が激突したのが丹波播磨国境の三草山だったぐらいの考え方です。


平家物語のストーリーは一の谷攻撃が最優先で、これに合わせるために三草山攻撃が行われたと読んでしまいますが、実態は逆だった気がしています。範頼大手軍は昆陽野に進出はしていますが、昆陽野は一の谷攻撃の前進拠点としても有用ですが、丹波への援軍も出しやすい地点です。源氏軍の昆陽野集結の意味は、一の谷を牽制しつつ丹波から播磨への義経搦手軍の進出結果を窺うぐらいの見方も可能かと思っています。もう少し言えば、丹波播磨戦線の戦果が十分上がってから一の谷に進攻する作戦計画だったぐらいの見方です。

史実では三草山の一戦で平家軍が吹き飛んでしまう快勝を義経が一晩であげてしまったために見えにくくなっていますが、本来の作戦計画ではもう少し播磨戦線に時間がかかるというか、播磨で義経軍優勢で展開した時点で範頼大手軍は一の谷に進む予定であったかもしれません。これでもわかりにくいと思いますので話を単純化すると、

    義経軍の本来の役割は播磨制圧戦であり、一の谷攻撃の予定ではなかった!
これが想定以上の大勝利を義経が挙げてしまったために当初の作戦計画の変更が必要になったと考えています。だからわざわざ義経は三草山から昆陽野の範頼の下に、新状況での打ち合わせに向ったんじゃなかろうかです。平家物語のストーリー構成は事実を基にした分として間違いではありませんが、冷静に考えると無理があります。義経は、
  1. 2/4に2/7の矢合わせを決めた上で三草山に出発
  2. 2日分の行程を1日で爆走し2/4夕に三草山に到着し2/5未明に夜襲
  3. 2/7に鵯越
そんな無茶を合戦の前に作戦として決めるのは無理があるだろうです。実際のところは、
  1. 義経は三草山を含む播磨戦が目的
  2. 播磨戦の動きを見ながら大手の範頼軍が動く
こうと考える方が現実的と思います。