一の谷の合戦・大輪田の泊ムック

私の一の谷の合戦の謎の一つに

    なぜ源氏軍は大輪田の泊を攻めなかったのか?
一の谷の合戦は要塞戦というより強固な野戦陣地への源氏軍の攻撃ぐらいに私は感じています。野戦陣地なら退路が必要な訳で、当初は2つあったと見ています。
  1. 海路で屋島に逃げる
  2. 陸路で播磨に逃げる
実際にも両方使われています。少しだけ寄り道ですが、「だから」義経の三草山合戦勝利から播磨に軍勢を進めた意味は大きかったと思っています。平家軍の退路の内、播磨ルートを押さえる意味があったと思っています。三草山合戦の結果で平家軍が退却しなかったのは、陸路は塞がれても海路があったからで良いでしょう。一の谷丸山説から見ても、長柄越で播磨方面への退路があると言えますし、宗盛が決戦時に船に移ったのは播磨ルートが塞がれたから海路の退路に移動したと見る事ができます。

でもって、海路の退路の最重要地点は大輪田の泊です。土肥実平は塩屋から西国街道(山陽道)を西から攻めたのは間違いないと思っていますが、どうせ攻めるのなら西の木戸ではなく大輪田の泊を攻めた方が良かったんじゃないかと考えています。平家側にしてみれば大輪田の泊が落とされたら退路が塞がれ袋のネズミになってしまいます。しかし実際には大輪田の泊が落ちたのは、それこそ合戦の最終段階になってからとしか読めません。一の谷の合戦では、平家軍の多くの武将が討死していますが、これが壊滅にならなかったのは最後の最後まで大輪田の泊が平家軍に保持され、そこから何とか屋島に退却できたからと考えるのが妥当かと思います。そうなると大輪田の泊は、

    塩屋から攻め寄せた実平軍では近づく事さえ出来なかった!
こういう地形的特徴があったことになります。私もそういう前提で考えていますが、もう少し具体的な推測情報が欲しいところです。


絵図と湊川

現在兵庫津(大輪田の泊)とその周囲を描いた最古の詳しい絵図は元禄9年(1696年)のもののようです。

この絵図の正確さは兵庫津遺跡第62次調査

江戸時代初期(17世紀初頭)から江戸時代後期(18世紀後半)にかけての主要な街路などは、江戸時代中期の『摂州八部郡福原庄兵庫津絵図』とよく合致していて、ほとんど同じ位置に同じ規模でくり返し造り替えられていることがわかりました。

ここで問題としたいのは旧湊川の流路です。兵庫津の東側に流れており、そこに砂洲を形成している様子がわかり、この位置は明治期に新湊川に付け替えられるまで続きます。どうもなんですが、湊川の流路については、源平時代でも、この元禄9年の絵図を前提として考えられているものが殆どでした。それはそれで根拠としては十分なんですが、そうであるなら大輪田の泊の西側や南側が海ないし、湿地帯であったとの説明が苦しくなります。氾濫を起こせばその辺りまで被害を及ぼしたぐらいにしておいても良いのですが、イマイチ説得力に欠けるぐらいの感触と言う所です。とはいう物の調べても、調べても当時の湊川はそこにあるの前提でしか推測図は存在しません。

この図でも兵庫津の周囲は川で囲まれ、川が外堀的な要害として機能しているとは感じますが、一方で兵庫津の周囲は乾いた陸地が多かったようにも見えます。つまり源氏軍が西側から攻め寄せても兵庫津の外堀までは近づく事は可能なように見えます。ここも源平合戦当時はもっと川が広くて湿地帯が広がっていたぐらいにしても良いのですが、なぜに川の幅が広くて湿地帯が多かったの理由が欲しいところです。まあ元禄9年の絵図でも500年後の世界ですから、これ以上の情報の入手は難しいとあきらめかけていた時に新しい資料が掘り起こせました。関西地図の会の第219回行事・アーカイヴス(2012年3月)

平安時代の「古湊川」の流路は明確ではありませんが、清盛が南流を東南流の旧流路に付替えた説があります。

でもって推測図を引用します。

これは有り難かったです。湊川はもともとは南流、つまり旧湊川よりもっと西側、大輪田の泊の西側内陸部を流れていたとなっています。関西地図の会が古湊川の流路が旧湊川の位置に変更されたとした根拠は遺憾ながら不明ですが、古湊川がその位置にあったのなら様々な事の説明が可能になります。元禄9年の絵図の兵庫津周辺の図を再掲しますが、

元禄9年当時でも兵庫津の南側に佐比江、北側に須佐之入江があるのが確認できます。とくに南側の須佐之入江は大きく船着き場と思しき構造もあります。これは古湊川の河口部の名残ではなかろうかと考えます。つまり古湊川大輪田の泊の北側を単純に和田宮方面に流れていたのではなく、大輪田の泊の東西両側に河口部をもっていたんじゃなかろうかです。でもって兵庫津は湊川の中州として形成されていたぐらいの見方です。古湊川が旧湊川に流路変更されても、川床は容易に水が引かず、一の谷当時も兵庫津の北側に大きな湖を形成していた可能性です。勝手な想像の様ですが兵庫歴史研究会(リンクが切れてました)に一遍上人縁起にある兵庫津の情景があります。

鎌倉仏教の開祖一遍の『一遍上人縁起』には、正安四年(1302)津の国兵庫島へ着いた時の兵庫の情景が記され、そこには「銭塘(銭塘江と西湖)三千の宿、眼の前に見る如く、范麗五湖(太湖)の泊、心の中におもい知らる」と語り

一遍上人縁起が書かれたのは一の谷の合戦から120年後ぐらいになりますが、それでも兵庫津は「兵庫嶋」であり、情景として兵庫津の周囲に広大な湖が広がっていた傍証になります。もう一つ傍証があります。清盛の福原遷都は有名ですが、清盛は福原に遷都するのではなく福原の西側に和田京を建設する意図があったとされます。和田京の建設予定地についても様々な説がありますが、一番妥当とされているのが足利健亮氏の推測です。

和田京建設がペーパープランに終わったのは関東での源氏の台頭による内戦状態もありますが、それ以外に清盛の思惑通りに和田京建設予定地の低湿地状態の解消が進んでいなかった気がしています。低湿地状態と言うより、流路を変えても旧湊川の氾濫問題が解決しなかったからと考えた方が良いかもしれません。


山陽道と大和田の泊

山田邦和氏の平安期の条坊制より、

これは福原京の建設推測図ですが、まず元禄9年の絵図との違いは旧湊川河口部の岬の形成が行われていないのを見て欲しいところです。もう一つ注目点として大輪田泊道の存在です。そりゃ大輪田の泊に行く道があっても不思議はないのですが、明治期の地図と見比べると

赤線で示したのが山陽道ですが、大輪田の泊近辺で不自然に曲がっている感じがします。古代の官道(駅路)は可能な限り直線で建設されていたのは良く知られていますので、本来の山陽道は黄色の破線の部分にあった可能性が高いと考えます。山田氏もまたそう考えて山陽道から大輪田泊道が東西から伸びる道を推測図として描かれています。そうなると明治期の山陽道の曲りは大輪田泊道の名残じゃないだろうかです。つまりは明治期の山陽道の屈曲部に一の谷当時の大輪田の泊があった可能性も出て来ます。つうか大輪田の泊の内陸部に広がる湖の西岸がそのあたりにあった可能性です。

大胆に推測を広げますが、大輪田の泊は和田岬に抱かれた湾になりますが、旧湊川はその湾に注ぎこむ川であったとまず考えます。もともとの湾は現在から想像するのも難しいですが、源平時代でさえ明治期の山陽道の屈曲部あたりまで広がっていたと想像します。でもってもともとはそのあたりに原初大輪田の泊があったと推理します。ところが旧湊川が運び込む土砂によって湾は浅くなり、同時に湾の入り口あたりに砂洲が形成されたと考えます。浅くなった湾は砂洲の形成のために湖状に変化しただけでなく、浅くなり大型船の停泊が難しくなった可能性があります。そのために清盛は水深が確保できる砂洲のあたりに、新たな船着き場として伝説の経が島を建設したんじゃなかろうかです。

清盛時代の大輪田の泊は二段構造で、大型船は湾の入り口にある経が島に停泊し、そこで下された荷物は小型船で西岸の大輪田の泊に運ばれていた可能性です。逆も同じです。だから兵庫津は一遍上人の時代であっても兵庫「島」と呼ばれていたぐらいです。だから源氏軍は西から攻めても西岸にある大輪田の泊まで近寄れても、経が島の船着き場には容易に近寄れなかったと考えます。後世になると湾がさらに浅くなっていき、西岸の大輪田の泊は自然消滅し、経が島の船着き場が大輪田の泊、さらには兵庫津として残り繁栄したぐらいを考えます。ちょっと粗いですが推測図を出しておくと、

義経の奇襲により敗走を余儀なくされた平家軍が目指したのは大輪田の泊ですが、もっと具体的には西岸の船着き場を東西から目指して来たのではないかと想像しています。それなら平家物語の描写にも適合する部分が多くなります。背後から源氏軍が攻め寄せてくる状態で争って限りある小舟の奪い合いをせざるを得なかったぐらいです。


蛇足の合戦模様

これまでのムックから源平武者の主武器は弓矢であり、さらに騎射に特化していたらしいのは確認されています。単純化すれば、

  1. 矢に対する防御力を高めるために鎧が重量化した(20〜30kg)
  2. 重い鎧を着用しながら機動力を確保するために騎馬となった(徒歩戦は苦手)
こういう戦術が効果を発揮するのは野戦になります。さらにがあって防御力が高まった鎧を貫くには近接戦が必要でした。遠矢では胴体に当たっても貫くのは難しく、それこそ眉庇でも射抜かないと相手を倒せません。遠矢でも相手の鎧を貫く強弓としては為朝が有名ですが、あそこまでの強弓を扱える者は例外的で、弓矢の有効射程距離は10mもなかったと推測しています。もちろんこれは武者相手の話であって、下人の鎧であればもう少し遠くても効果はあったかもしれませんが、当時の手柄として下人をいくら討ち取っても評価は低かった気がします。

騎射特化、野戦特化の影響として攻城戦は苦手としたと考えても良いと思っています。一例しかないのですが、保元の乱の時に白河北殿に籠った崇徳院側は小兵力でした。実数はともかく後白河側は数倍の兵力で攻め寄せたと考えています。崇徳院側には伝説的な為朝の強弓があったにせよ、昼間の戦いでは後白河側は白河北殿を攻略できていません。白河北殿といっても城でも砦でもなくタダの御殿です。あえて想像すれば現在の京都御所程度のものだったと思っています。そう、別に大坂城を攻めていたわけではないのです。城攻めは兵糧攻めを別にすれば

  1. 門を破って侵入する
  2. 柵や塀を乗り越える、または破壊して侵入する
これは古来から同じですが、相手も防御に務める中でこれをやれば大きな損害が出ます。戦国期では城攻めはごく普通に行われるようになっていますが、それでも力攻めは愚策として、これを回避するために様々な術策を弄することになります。それでも無理なら力攻めを行いますが、その時は多方面戦術を取ります。城攻めは寄せ手の方が優勢ですから、複数個所から同時に門を攻めたり、塀をよじ登ったりします。ココロは防御側の戦力を分散させて少しでも被害を少なくするぐらいです。

しかし源平武者及びその軍団は戦国期の力攻めという戦術がなかった気がしています。とりあえず塀なりを攀じ登るには武者の鎧は重すぎたぐらいでしょうか。つうか源平武者は馬から下りての戦闘は「想定外」ぐらいです。では戦国期の足軽部隊に該当する下人部隊はどうだったかです。源平期の下人部隊は小領主である武者にのみ指揮権があり、戦国期の足軽部隊の様な独立部隊ではありません。目的は小領主を守り、手助けする事にあって、軍団全体の戦術目標(この場合は城への力攻め)で動く事はないと見ています。

それと源平武者が合戦場で目標とするのは相手の有名武者を討ち取る事です。これは戦国期も変わらないとは言えますが、戦国期では軍団全体の戦術目標の達成も高く評価されます。城攻めなら一番乗りでしょうか。源平期にも先陣と言う戦術評価はありますが、城砦攻めの一番乗りはどうだったかです。もう少し補足すると仮に一の谷で力攻め(柵越え)に近い事を行い、一番乗りをするのは武者ではなく下人です。下人の手柄がこの時代に評価されたかどうかは微妙すぎる問題になります。源平合戦に於いて手柄として評価されるのはあくまでも武者が挙げたものに限定されると考えて良い気がします。

損害が多いのに手柄としてランクの低い城攻めは源平武者は忌避したと考えています。武者が率いる下人は農民であり、重要な生産手段ですから力攻めで被害を出しても割に合わないぐらいです。命を懸けるのなら一騎打ち(つまりは騎という小隊同士の戦い)であり、そこで手柄を挙げたら下人部隊の損害以上の褒美を代償として期待できるぐらいの見方です。


そうなると一の谷の東の木戸、西の木戸で行われた合戦とはどんな様子であったかです。とにもかくにも木戸に源氏軍は押し寄せます。そこから木戸や柵を打ち破るのではなく、木戸から打って出て来る平家軍との合戦に終始していた気がしています。城攻め手法としては、

    付け入り
打って出て来た平家軍を粉砕し、退却する平家軍が木戸に逃げ込むところに一緒に乱入するぐらいでしょうか。ではそれが出来たかというと、出来なかったとして良さそうです。出来なかったからこそ、東の木戸の御大将である知盛はなんとか大輪田の泊まで逃げられたと見る事ができるからです。もう少し言えば、義経鵯越をやる以前は木戸前で互角の勝負を展開していたと見て良い気がします。義経の奇襲によって平家軍が瞬時に大混乱に陥ったのは、この意識が平家軍全体に共有されたからかもしれません。最後に一の谷陣地の西側推測図を示しておきます。

一の谷は地元と言う事もあって、執念深くムックしていますが、平家軍の戦略構想の基本は源氏軍は東から攻め寄せて来るであった様な気がしています。京都から直進すればそうなります。東側の生田の森を決戦場と想定し、西側や北側は攻めてこないの考え方です。なぜに攻めてこないかですが、播磨を平家が押さえているからです。いや播磨を押さえたから一の谷に陣地を築いたぐらいに見る方が良さそうです。丸山一の谷は東から見れば平家陣地の一番奥なんですが退路として

  1. 山陽道を西に逃げる
  2. 長柄越で塩屋方面に逃げる
  3. 大輪田の泊から海路で屋島に逃げる
平家は海に強いのですが、海路の利用は天候による制約が出て来ます。いざという時に海路が利用できない事態も考えて複数の陸路の退却路がある一の谷を本営にしていたぐらいに考えています。冒頭でも書きましたが、三草山で敗れ、播磨の安全が脅かされたので総帥の宗盛は一の谷をあきらめ、経が島に本営を移動したぐらいを考えています。安徳天皇が一の谷まで来ていたかどうかについては異説もありますが、もし来ていたら安徳天皇の安全は至上課題ですから、合戦前に経が島に移動するのは当然の策のように思います。