第1部一の谷編:兵庫津でランチ

兵庫津を訪れた日は快晴。兵庫津は街の散策なので彼女は山ガールでなくて街歩きスタイルです。もっとも少々歩くと言ってあるのでスカートじゃなくてデニムの白のパンツですが、白のブラウスの上のシースルーの薄い黄色の上着が決まっていて、どうやって褒めようか悩むぐらいです。考えなくとも昼間はハイキングには行ってますけど、街中で会うのは初めてでワクワクしています。

私は気分的には半分以上、いや九分九厘デート気分なんですが、相変わらず彼女がどう考えているのかはっきりしません。期待を込めて「Love」としたいところですが、熱中しているのは歴史談義で甘い恋人同士のささやきとは縁遠いところがあります。ほんじゃ純粋に「Like」かといえば、どうにも微妙なところがあるように感じてなりません。とにかくコトリちゃんの前で冷静な状況判断が出来ないってところです。そんな彼女なんですがなぜかちょっと不機嫌、

    「ねぇ、ちょっと聞いてくれる」
    「なに?」
    「あのねぇ・・・」
彼女には男も女も友達が多いのですが、聞かされたのはそんな友達の愚痴。人間ですから愚痴の一つぐらいこぼしても不思議ないのですが、私はかなり驚かされました。だって彼女は天使なんですよ。まあ天使の呼び名は男連中が陰で勝手に付けたものですが、天使が愚痴をこぼすなんて想像すら出来なかったってところでしょうか。でもちょっとホッとしました。彼女が完全無欠の天使じゃ、近寄るのも畏れ多い(実際には近づいてるのは置いときます)のですが、愚痴もこぼすなら人間に近いところもあるのだろうってところです。
    「コトリちゃんでも愚痴ることがあるんだ」
    「あたりまえやん、でもちょっとスッキリした。愚痴聞いてくれてありがとう」
いえいえこれぐらいだったらナンボでもOKです。
    「でも昔から優しいよね。物知りだし、憧れとったんよ」
なんと返答したらエエかわかりませんでした。
    「変な女やと思わんといてね」
思う訳もないのですがなんか妙だな。地下鉄の和田岬駅からまず和田神社を参拝。ここは三菱重工が出来た時に移転していますが、清盛時代にもあった由緒ある神社です。そこから清盛塚の方に向かいます。
    「・・・うわぁ、立派な石橋と綺麗な運河」
    「兵庫運河だよ、もっとも前は貯木場になっていて汚かったそうやけど、今はすっかり綺麗になってるんや」
    「あれが清盛塚?」
    「そう、市電の工事の時に二〇メートルぐらい動かしたそうやけど、ほぼあそこぐらいにあったと見て良いみたい」
    「へぇ、そうなんだ。えっと、こっちのお寺が真光寺で時宗のお寺なんや」
    「ここが一つランドマークになるんや。ここには清盛時代は八棟寺ってドでかい寺があったんやけど、一遍上人が晩年に訪れた時に観音堂に住んで、そこで亡くなってん」
    「踊り念仏の一遍上人ね」
    一遍上人時宗の教祖やから、時宗にとっては聖地の一つみたいになって、やがて八棟寺から真光寺が独立してしまうんや。具体的には八棟寺を二つにわけて、西が真光寺、東が八棟寺って感じ」
    「なんか庇を貸して母屋を取られるみたいな話やけど、八棟寺はどうなったん」
    「戦国末期に兵庫城が作られた時に、兵庫城の南側にあった須佐の入江を広げたんやけど、広げた部分がモロ八棟寺の敷地で、またまた小さくなっちゃたんだ。その前に火事で焼けていたって話もあった気がする」
    「えらいこっちゃやねぇ。ほんじゃ八棟寺は跡形もなくなったん」
    「うんにゃ、色々あったんやけど、江戸期には別の場所に再興されて名前も能福寺になってる」
    能福寺って、兵庫大仏のあるとこ?」
    「そう」
    「今日は見に行くよね」
    「その予定だよ」
どうも奥須磨遊園のリフトが飛ばされたのが気になっているようで、これなら行っとけば良かった。運河沿いには立派な遊歩道が整備されていて気持ちよく歩けます。
    「あそこでボート漕いでる」
    「兵庫運河は最近ではボートのメッカになってるらしいよ」
    「気持ちよさそう」
きらきらした目でボートを見つめる彼女の横顔に見惚れてしまいした。昼間に見るコトリちゃんもホントに素敵だ。
    「・・・ここが築島寺」
    「これはまた小さいというか、ビルとビルの間で狭苦しいというか」
    「うん、でも位置は昔から変わってないと思うよ」
    「だからランドマークやねんね。それにしても兵庫津って歴史は古いはずなのに、古い建物はあんまりないね。この寺だってコンクリートでちょっと愛想ないし」
    「しゃぁないと思うよ。空襲で焼けた上に阪神大震災でもやらてるから」
    「丹生山でも被害があったんやから、兵庫津はもっとひどかったやろなぁ」
兵庫津は清盛の時代から始まり、神戸が開港するまで延々と栄えていますが、空襲と地震で由緒ある建物がほとんど残っていないのが残念です。
    「築島寺の位置が変わってへんねんやったら、ここら辺に経が島があったん」
    「そうなるはず」
    「ほんじゃここが経が島の一部でもあるんやね」
    「そうじゃないんだ・・・」
経が島と築島は別の人工島になります。先に経が島が築かれ、それから築島ができたと考えています。
    「調査はされてないの?」
    「兵庫津遺跡自体は六〇回以上も発掘調査が行われてるんやけど、清盛時代から延々と同じ場所で栄えていた湊やから、どうも掘っても掘っても清盛時代の地層に当たらへんみたい」
    「そっかぁ、まあ発掘調査やから室町とか戦国時代の遺跡が出たら、そこの調査をやらんといかんし、それをやったら、それ以上は掘りにくいだろうし」
兵庫城の遺構を見つけ出すだけでも大変だったようで、それだけ調査しても経が島の確実な遺構は未だに確認されていません。
    「このでっかい岩も経が島と関係ないの」
岩椋は古墳時代に遡る大輪田の泊の港湾整備の遺跡です。こんなに大きな岩を積み上げて港を作っていたと思うと驚かされます。彼女も感心しながら岩の回りを観察していました。
    「・・・それと目の前の運河やけど、あれも清盛時代、いや江戸時代の兵庫津を想像するのに邪魔になる」
    「え〜、綺麗な運河やのに」
    「別に綺麗、汚いの話やないけど、兵庫運河を掘る時に兵庫城も潰しちゃったし、築島船入江も埋め立てちゃったんだ。だから高田屋嘉兵衛が活躍した湊も面影も残ってないぐらいかな。」
明治に兵庫津繁栄を狙って作られた兵庫運河ですが、壮挙も空しく港湾機能は新設の神戸港に奪われてしまいます。それでもこれだけの運河を作る力が当時の兵庫津にあった証拠ともいえます。
    「でもどうせ経が島の位置も考えてるんでしょ」
    「よくお察しで。兵庫津は手強かったけど、一の谷を考える時に清盛時代の大輪田の泊を再現しておく必要があるからね」
    「やっぱり」
    「まずやけど、清盛より前の古代の大輪田の泊がどこにあったかや」
    「清盛の時と違うの?」
    「これは発掘調査で見つかっていて、清盛塚があったやん。あのもうちょっと奥ぐらいに古代の港湾施設の遺跡が発見されてるんだ。当時で言う須佐の入江の奥ぐらいかな。さっきの岩椋もそん時に見つかったんや」
    「ほんじゃ築島寺がこの辺やから、えらい移動したんやね」
    「そうなんだ、清盛が行ったのは改修事業って表現されるけど、むしろまったく新しい湊を作ったとした方が良い気がする」
    「それにしても、そんな大事業が必要やったん」
    大輪田の泊は古墳時代から、いや神功皇后の時代から使われていた湊やけど、いくつか弱点があったんだ・・・」
大輪田の泊の代表的な弱点は湊川になります。神戸の川はどれも規模の小さなもので、普段はチョロチョロぐらいのものが多いですが、大雨が降れば大洪水を起します。谷崎潤一郎細雪の時代背景になった阪神大風水害なんかが有名です。湊川もまたそうで、治水が進んだ現在でも新湊川の洪水を二年連続で起しています。この湊川ですが人工的に流れを二回変えています。現在のものは明治期に会下山にトンネルを通し苅藻川に合流させたもので、これが新湊川になります。その前は兵庫築城の時に川崎に流れを変えたもので、これが旧湊川になります。
    「ほんじゃ清盛時代は違ったの?」
    「川の名前見ただけでわかるやん。湊川は湊に流れ込む川やから湊川やん。これを古湊川としとくね」
    「そっか。どこを流れてたの?」
    「明治の地名を見て欲しいけど

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    湊川遊園と書かれているところが旧湊川。でもって、上沢通、下沢通、永沢町、三川口ってあるけど、すべて古湊川に関連した地名になるんだ」
    「へぇ」
    「さらに南に下った柳原も川辺に柳が生えていたのに由来するとされてるんや。羽阪のあたりは微高地であったともされてて、経が島や築島の埋め立てに使われた塩槌山だったんじゃないかとも言われてる。ここには清盛の雪見の御所があったともされてるけど、湊の改修事業の指揮所みたいなもんやったかもしれへん」
    「ほぉ」
    「この羽阪やけどかつては岬になっていて渡船場なんかがあったそうやけど、この辺で古湊川逆瀬川にわかれたみたいやねん」
    逆瀬川町って地名もあるね」
    「清盛塚のあった八棟寺は清盛の改修事業前に建ってるから、多分あの辺は微高地で湊川逆瀬川が挟むように流れていたと思うんや。ほんでもって古湊川は八棟寺の西側を流れて須佐の入江にあった大輪田の泊に注ぎ込んでたぐらいかな」
    「ほんじゃ古代の大輪田の泊は湊川の氾濫の直撃受けるやん」
    「そうなんだ、だから段々使いにくくなって清盛の改修事業が必要になったんや」
清盛の改修事業は壮大なもので、古湊川逆瀬川の水害を受けないところに港ごと移転してしまう計画と理解して良さそうな気がします。大輪田の泊の弱点に南東風に弱いと言うのがあり、古代大輪田の泊は和田岬が天然の防波堤の役割を果たしていましたが、清盛はこれを人工の防波堤にまず置き換えようとしたと見て良いと思います。これが経が島です。
    「むちゃくちゃ大工事やん」
    「そして難工事やった。松王丸伝説もホントにあったかもしれへん。そこまで清盛も追い詰められていたんやと思うねん」
    「わかるわ」
清盛がこれだけの事業が出来たのはそれだけの財力と権力があったからですが、そういう事業をやろうとするのが先進的だった気がします。他の清盛の事業として有名なのに音戸の瀬戸の開鑿もありますが、他にも瀬戸内の港湾整備も行っています。これは平家一門の繁栄を狙っていたとすればそれまでですが、瀬戸内海運の発展は平家一門だけではなく、他の者にも大きな利益を与えてと見て良いかと思います。
    「だから平家は強かったのね」
    「そう思う。だって源平合戦も普通やったら義仲に都落ちさせらた時点で平家は終るやん」
    「でも終わらずに盛り返した。盛り返すためには西国の豪族の支持が必要やもんね」
後はのんびり兵庫津巡り。高札場のあった札の辻を見て能福寺に。彼女は兵庫大仏を見るのは初めてだそうで
    「大きいけど、ちょっと」
関西の人間なら誰でも奈良の大仏を知ってるわけで、較べると可哀想な気がします。
    「大仏はアレやけど、こっちの本堂は凄いね」
月輪影殿は京都の泉涌寺の月輪御陵にあったものを移築したものです。この建物も地震で大破し修理というよりほぼ再建されたものです。
    「これって英語の石碑」
彼女の好奇心を満たすだけの知識があって良かったと思います。これはジョセフ・ヒコが日本で最初に建てた英文の石碑になります。そこから柳原ゑびすに参詣して、ふたたび札の辻に戻り旧西国街道を北に向かいます。そういう想像が出来るのもが歴史好きには大切で、なんの変哲もない街並みからかつての繁栄を偲ぶ楽しみが出来ます。兵庫津の北側に湊八幡神社がありますが、ここはかつての北の大門にもなっていたそうです。兵庫津では目ぼしい食べ物屋さんが見つからなかったので、ランチのために神戸駅に向かいます。それにしても良い天気で、彼女がいかに晴れ女かを思い返しています。この辺が周囲を幸せにする天使なのかもしれません。ランチを食べながら、
    「でさぁ、清盛時代の大輪田の泊はどうやったん」
    「ボクの作った推測地図やけど、

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    だいたいこんな感じ」
    「今とだいぶ違うんやねぇ。見ながら思てんけど、古湊川も、逆瀬川もこんな1本の線やったんやろか」
    「推測図はイメージやから1本にしてるけど、実際は網の目のようになっとった思てる」
    「川崎は旧湊川になって三百年ぐらいで出来たんでしょ」
うん、コトリちゃんがなにか閃いたみたい。
    「そやったら、古湊川はもっと広いところを陸地化したんちゃう」
    「そうなるよね」
    「そやったら古代大輪田の泊のあった須佐の入江も、もっと大きかったんちゃうかな。地名で入江通ってあったけど、あんな内側に入江があるわけあらへんから、そこまで入江やったんちゃう」
    「かもしれへん。須佐野通は入江通が陸地化されて名づけられたんかもしれへん」
    「芦原通とか松原通も水を連想させる地名やし」
    「この辺の地名の由緒は山田村郷土史を書いた福原潜次郎氏が調べてはったけど、どれも由緒があるそうなんや。この辺はいっぱい渡船場があって、その船頭が住んでいたのが平野の方の宇治やって話も残ってる」
    「平野に船頭が住んでたんやったら、宇治から兵庫津まで水路で普通に行けたんちゃう」
たしかにそうでなければ船頭が宇治に住んだりしないのはもっともな指摘です。こりゃ、1本取られた。
    「たぶん古湊川は永沢町とか三川口町のあたりまで広がっていた須佐の入江に流れ込んでいたんじゃないかと思わへん」
    「たしかにそうかもしれへん。一遍上人は一の谷の合戦から百年後ぐらいに亡くなってるけど、兵庫津に来た時の風景描写が一遍上人縁起に残されてるんや、

    銭塘(銭塘江と西湖)三千の宿、眼の前に見る如く、范麗五湖(太湖)の泊、心の中におもい知らる

    これを素直に読んだら兵庫津は水に浮かぶ島みたいやったことになる」

    「後世の兵庫津のあたりとか八棟寺のあたりは陸地やったと思うけど、一の谷の合戦の頃でも、この西側をぐるっと須佐の入江が回り込んでいたんじゃない」

兵庫津は一遍上人縁起でも『兵庫島』と書かれています。兵庫島はかなり長く使われているので、古湊川が須佐の入江を埋め尽くしたのはもっと後なのかもしれません。
    「参りました。最後に一の谷にも関係する絵図を見て欲しいんやけど、

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    これは摂州八部郡福原庄兵庫津絵図ってやつで元禄絵図と呼ばれてるやつやねん。これが非常に正確で江戸時代の兵庫津の様子がよくわかるんやけど、和田岬の陸地側に広大な松林が広がってるのがわかると思うねん」
    「うん、あるある。だから松原通ってあるんだ」
    「これは元禄時代のものやけど、一の谷の時はもっと広かった可能性が高いと思てる」
    「十分あり得ると思う。今じゃさっぱり想像するのも難しいけどね。でも松林はもっと後に出来た可能性はないの」
    湊川の合戦の時に兵庫津に上陸した尊氏が松林の中の丘に陣を取った話が残ってる」
    「ほんじゃ一の谷の時も絶対あるね」
後はハーバーランドでお買い物したいというコトリちゃんに付き合って今日のお出かけはオシマイ。ほんとにオシマイで、夕食まで一緒したかったのですが、夜はお友達とお約束があるってことなので仕方がありません。相手が誰かが凄く気になったのですが、それを聞くのは嫉妬していると思われるのが嫌ですから笑顔で見送りました。でも、笑顔になってたかどうかはかなり不安です。顔がひきつって笑いにくい、笑いにくい。