兵庫津を訪れた日は快晴。兵庫津は街の散策なので彼女は山ガールでなくて街歩きスタイルです。もっとも少々歩くと言ってあるのでスカートじゃなくてデニムの白のパンツですが、白のブラウスの上のシースルーの薄い黄色の上着が決まっていて、どうやって褒めようか悩むぐらいです。考えなくとも昼間はハイキングには行ってますけど、街中で会うのは初めてでワクワクしています。
私は気分的には半分以上、いや九分九厘デート気分なんですが、相変わらず彼女がどう考えているのかはっきりしません。期待を込めて「Love」としたいところですが、熱中しているのは歴史談義で甘い恋人同士のささやきとは縁遠いところがあります。ほんじゃ純粋に「Like」かといえば、どうにも微妙なところがあるように感じてなりません。とにかくコトリちゃんの前で冷静な状況判断が出来ないってところです。そんな彼女なんですがなぜかちょっと不機嫌、
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「ねぇ、ちょっと聞いてくれる」
「なに?」
「あのねぇ・・・」
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「コトリちゃんでも愚痴ることがあるんだ」
「あたりまえやん、でもちょっとスッキリした。愚痴聞いてくれてありがとう」
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「でも昔から優しいよね。物知りだし、憧れとったんよ」
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「変な女やと思わんといてね」
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「・・・うわぁ、立派な石橋と綺麗な運河」
「兵庫運河だよ、もっとも前は貯木場になっていて汚かったそうやけど、今はすっかり綺麗になってるんや」
「あれが清盛塚?」
「そう、市電の工事の時に二〇メートルぐらい動かしたそうやけど、ほぼあそこぐらいにあったと見て良いみたい」
「へぇ、そうなんだ。えっと、こっちのお寺が真光寺で時宗のお寺なんや」
「ここが一つランドマークになるんや。ここには清盛時代は八棟寺ってドでかい寺があったんやけど、一遍上人が晩年に訪れた時に観音堂に住んで、そこで亡くなってん」
「踊り念仏の一遍上人ね」
「一遍上人は時宗の教祖やから、時宗にとっては聖地の一つみたいになって、やがて八棟寺から真光寺が独立してしまうんや。具体的には八棟寺を二つにわけて、西が真光寺、東が八棟寺って感じ」
「なんか庇を貸して母屋を取られるみたいな話やけど、八棟寺はどうなったん」
「戦国末期に兵庫城が作られた時に、兵庫城の南側にあった須佐の入江を広げたんやけど、広げた部分がモロ八棟寺の敷地で、またまた小さくなっちゃたんだ。その前に火事で焼けていたって話もあった気がする」
「えらいこっちゃやねぇ。ほんじゃ八棟寺は跡形もなくなったん」
「うんにゃ、色々あったんやけど、江戸期には別の場所に再興されて名前も能福寺になってる」
「能福寺って、兵庫大仏のあるとこ?」
「そう」
「今日は見に行くよね」
「その予定だよ」
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「あそこでボート漕いでる」
「兵庫運河は最近ではボートのメッカになってるらしいよ」
「気持ちよさそう」
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「・・・ここが築島寺」
「これはまた小さいというか、ビルとビルの間で狭苦しいというか」
「うん、でも位置は昔から変わってないと思うよ」
「だからランドマークやねんね。それにしても兵庫津って歴史は古いはずなのに、古い建物はあんまりないね。この寺だってコンクリートでちょっと愛想ないし」
「しゃぁないと思うよ。空襲で焼けた上に阪神大震災でもやらてるから」
「丹生山でも被害があったんやから、兵庫津はもっとひどかったやろなぁ」
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「築島寺の位置が変わってへんねんやったら、ここら辺に経が島があったん」
「そうなるはず」
「ほんじゃここが経が島の一部でもあるんやね」
「そうじゃないんだ・・・」
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「調査はされてないの?」
「兵庫津遺跡自体は六〇回以上も発掘調査が行われてるんやけど、清盛時代から延々と同じ場所で栄えていた湊やから、どうも掘っても掘っても清盛時代の地層に当たらへんみたい」
「そっかぁ、まあ発掘調査やから室町とか戦国時代の遺跡が出たら、そこの調査をやらんといかんし、それをやったら、それ以上は掘りにくいだろうし」
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「このでっかい岩も経が島と関係ないの」
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「・・・それと目の前の運河やけど、あれも清盛時代、いや江戸時代の兵庫津を想像するのに邪魔になる」
「え〜、綺麗な運河やのに」
「別に綺麗、汚いの話やないけど、兵庫運河を掘る時に兵庫城も潰しちゃったし、築島船入江も埋め立てちゃったんだ。だから高田屋嘉兵衛が活躍した湊も面影も残ってないぐらいかな。」
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「でもどうせ経が島の位置も考えてるんでしょ」
「よくお察しで。兵庫津は手強かったけど、一の谷を考える時に清盛時代の大輪田の泊を再現しておく必要があるからね」
「やっぱり」
「まずやけど、清盛より前の古代の大輪田の泊がどこにあったかや」
「清盛の時と違うの?」
「これは発掘調査で見つかっていて、清盛塚があったやん。あのもうちょっと奥ぐらいに古代の港湾施設の遺跡が発見されてるんだ。当時で言う須佐の入江の奥ぐらいかな。さっきの岩椋もそん時に見つかったんや」
「ほんじゃ築島寺がこの辺やから、えらい移動したんやね」
「そうなんだ、清盛が行ったのは改修事業って表現されるけど、むしろまったく新しい湊を作ったとした方が良い気がする」
「それにしても、そんな大事業が必要やったん」
「大輪田の泊は古墳時代から、いや神功皇后の時代から使われていた湊やけど、いくつか弱点があったんだ・・・」
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「ほんじゃ清盛時代は違ったの?」
「川の名前見ただけでわかるやん。湊川は湊に流れ込む川やから湊川やん。これを古湊川としとくね」
「そっか。どこを流れてたの?」
「明治の地名を見て欲しいけど
湊川遊園と書かれているところが旧湊川。でもって、上沢通、下沢通、永沢町、三川口ってあるけど、すべて古湊川に関連した地名になるんだ」
「へぇ」
「さらに南に下った柳原も川辺に柳が生えていたのに由来するとされてるんや。羽阪のあたりは微高地であったともされてて、経が島や築島の埋め立てに使われた塩槌山だったんじゃないかとも言われてる。ここには清盛の雪見の御所があったともされてるけど、湊の改修事業の指揮所みたいなもんやったかもしれへん」
「ほぉ」
「この羽阪やけどかつては岬になっていて渡船場なんかがあったそうやけど、この辺で古湊川と逆瀬川にわかれたみたいやねん」
「逆瀬川町って地名もあるね」
「清盛塚のあった八棟寺は清盛の改修事業前に建ってるから、多分あの辺は微高地で湊川と逆瀬川が挟むように流れていたと思うんや。ほんでもって古湊川は八棟寺の西側を流れて須佐の入江にあった大輪田の泊に注ぎ込んでたぐらいかな」
「ほんじゃ古代の大輪田の泊は湊川の氾濫の直撃受けるやん」
「そうなんだ、だから段々使いにくくなって清盛の改修事業が必要になったんや」
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「むちゃくちゃ大工事やん」
「そして難工事やった。松王丸伝説もホントにあったかもしれへん。そこまで清盛も追い詰められていたんやと思うねん」
「わかるわ」
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「大きいけど、ちょっと」
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「大仏はアレやけど、こっちの本堂は凄いね」
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「これって英語の石碑」
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「でさぁ、清盛時代の大輪田の泊はどうやったん」
「ボクの作った推測地図やけど、
だいたいこんな感じ」
「今とだいぶ違うんやねぇ。見ながら思てんけど、古湊川も、逆瀬川もこんな1本の線やったんやろか」
「推測図はイメージやから1本にしてるけど、実際は網の目のようになっとった思てる」
「川崎は旧湊川になって三百年ぐらいで出来たんでしょ」
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「そやったら、古湊川はもっと広いところを陸地化したんちゃう」
「そうなるよね」
「そやったら古代大輪田の泊のあった須佐の入江も、もっと大きかったんちゃうかな。地名で入江通ってあったけど、あんな内側に入江があるわけあらへんから、そこまで入江やったんちゃう」
「かもしれへん。須佐野通は入江通が陸地化されて名づけられたんかもしれへん」
「芦原通とか松原通も水を連想させる地名やし」
「この辺の地名の由緒は山田村郷土史を書いた福原潜次郎氏が調べてはったけど、どれも由緒があるそうなんや。この辺はいっぱい渡船場があって、その船頭が住んでいたのが平野の方の宇治やって話も残ってる」
「平野に船頭が住んでたんやったら、宇治から兵庫津まで水路で普通に行けたんちゃう」
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「たぶん古湊川は永沢町とか三川口町のあたりまで広がっていた須佐の入江に流れ込んでいたんじゃないかと思わへん」
「たしかにそうかもしれへん。一遍上人は一の谷の合戦から百年後ぐらいに亡くなってるけど、兵庫津に来た時の風景描写が一遍上人縁起に残されてるんや、
銭塘(銭塘江と西湖)三千の宿、眼の前に見る如く、范麗五湖(太湖)の泊、心の中におもい知らる
これを素直に読んだら兵庫津は水に浮かぶ島みたいやったことになる」
「後世の兵庫津のあたりとか八棟寺のあたりは陸地やったと思うけど、一の谷の合戦の頃でも、この西側をぐるっと須佐の入江が回り込んでいたんじゃない」
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「参りました。最後に一の谷にも関係する絵図を見て欲しいんやけど、
これは摂州八部郡福原庄兵庫津絵図ってやつで元禄絵図と呼ばれてるやつやねん。これが非常に正確で江戸時代の兵庫津の様子がよくわかるんやけど、和田岬の陸地側に広大な松林が広がってるのがわかると思うねん」
「うん、あるある。だから松原通ってあるんだ」
「これは元禄時代のものやけど、一の谷の時はもっと広かった可能性が高いと思てる」
「十分あり得ると思う。今じゃさっぱり想像するのも難しいけどね。でも松林はもっと後に出来た可能性はないの」
「湊川の合戦の時に兵庫津に上陸した尊氏が松林の中の丘に陣を取った話が残ってる」
「ほんじゃ一の谷の時も絶対あるね」