兵庫津ムック

いつもの一の谷関連のムックですがおつきあい下さい。

一の谷合戦を考えるときに大和田の泊は結構なポイントなのですが、実は今まで現地に行ったことはありませんでした。あの辺りに行ったことさえ少なくて、現在のウイングスタジアム(今はノエビアスタジアムだったっけ?)の前身の神戸中央球技場時代に一度きりです。あの時はまだ小学生時代で、サッカー好きの叔父に連れられて「全日本対ミドルセックスワンダラーズ」の試合だったと思います。当時の日本のサッカーは低迷期も良いところで、相手のミドルセックスワンダラーズは英国のアマチュア選抜チームで、これを相手に1-0で敗れています。ちなみにミドルセックスワンダラーズは現在も来日を重ねているようで、現在の相手は学生チームや社会人二部チームぐらいになっています。日本のサッカーも強くなったものです。

大和田の泊にフィールドワークに行ってなかった大きな理由に「無精」ってのもありますが、大和田の泊は神戸港が出来上がるまで兵庫津として栄えただけでなく、栄えたぶん周辺の開発が進み、清盛時代を偲ぶのが非常に難しくなっているのもあります。近世になってからは三菱や川崎の造船所が出来たこともあり、行ったところで「どうなんだ!」って感じが強かったからです。でも行ってきました。感想はやはり面白かったってところです。行ってみると変わっていても地図や地形が格段に読みやすくなります。


江戸期の兵庫津

豊臣期の兵庫津の復元図を見て欲しいと思います。これは豊臣期の兵庫津地図からのものですが、

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もっと前の絵図があれば良かったのですが、江戸前期より前の絵図はどうもないようです。ですから引用した地図も元禄9年の攝州八部郡福原庄兵庫津絵図を基に豊臣期の検地帳から推測したものとなっています。江戸期の兵庫津は町の中に西国街道が通っています。ここから現在の地理を特定していきますが、

  1. 佐比江の入江の西側に湊町がありますが、ここには湊口惣門があり現在の湊八幡神社あたりと考えて良いかと思います。
  2. 湊口惣門から南下した西国街道は北中町から小広町に曲がります。ここには高札場があり、札の辻跡となっています。
  3. 札の辻の少し東側に来迎寺がありますが、これが松王丸悲話にも関連する築島寺になります。
  4. 札の辻から西に曲がった西国街道はやがて福海寺の南側を通りますが、福海寺も現存し、その向かいには柳原えびす神社が現在はあります。
これらを現在の地図に落としてみると、

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大和田の泊の改修は清盛が手掛け重源が完成させたとなっていますが、江戸期の兵庫津は重源が完成させたものが基本となって受け継がれたものと考えて良いかと思います。


古代の大和田の泊

これは現地に行って良かったとしみじみ思っているのですが、来迎寺(築島寺)の近くに大和田の泊の石椋なるものが展示されています。

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大きな石なんですがにっしんのココロノカテ様より

こういう感じで積まれていたことが判っています。そこにあった案内板の記述より、

 この花崗岩の巨石は、昭和27年の新川橋西方の新川運河浚渫工事の際に、重量4トンの巨石20数個と一定間隔で打込まれた松杭とともに発見された一石です。当時は平清盛が築いた経ヶ島の遺材ではないかと考えられていました。

 その後、この石材が発見された場所から北西約250mの芦原通1丁目で、平成15年確認調査が行われ、古代の港湾施設と考えられる奈良時代から平安時代の中頃の大溝と建物の一部が発見されました。このことより石材が発見された場所は、当時海中であったと考えられ、出土した石材は、古代大輪田の泊の石椋の石材であったと推定されます。石椋とは、石を積み上げた防波堤(波消し)や突堤の基礎などの港湾施設であったと考えられます。その構造は出土状況から、港の入口にこのような巨石を3〜4段程度積上げ、松杭で補強し、堤を構築していたものと推定されます。

読めばわかる通り、清盛時代より前の大和田の泊の改修の遺構として良さそうです。ここに嬉しいことに2つの地点が書き込まれています。

  1. 石椋は新川橋付近にあった
  2. 古代の港湾施設が芦原通1丁目付近(清盛橋あたりかな)にあった
これを先ほどの地図に書き加えてみます。

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清盛塚十三重塔は大正期の市電敷設の時に東に11m動かしたとなっていますが、地図的には変わらないでしょう。この古代の大和田の泊の港湾施設の遺構の位置を見ながら当たり前すぎることに今さらハタと気が付きました。大和田の泊の「和田」とは和田岬の「和田」じゃないかと。ここで和田京の推測図を出してみます。

注目して欲しいのは古湊川和田岬方面に流れ込んでいたとして良さそうです。つまり古代の大和田の泊は古湊川の河口部に近いところに設けられ、和田岬に抱え込まれるように存在していたんだろうです。和田岬も現在より短くなっていますが、潮流の作用と古湊川の堆積作用により、古代大和田の泊の水深は浅くなり、そのための改修作業が断続的に行われていたぐらいも推測できます。それと和田岬の長さからして、大和田の泊の弱点であったとされる南東方向からの風と波への対策が必要で、和田岬から北に向かって防波堤(石椋)が構築されていたとも推測可能です。


清盛と古代大和田の泊

大和田の泊を古代としましたが、清盛時代は基本的に現役だったはずです。現役だったからこそ供養塔としての清盛塚が大和田の泊の近くに鎌倉期に建立されたと見るのが自然でしょう。清盛は大和田の泊の改修事業を行ったのは間違りありませんが、奈良期から平安期にかけて行われた改修事業とは根本的に異なっていた可能性を考えています。つうか小手先の改修事業では追いつかないぐらい大和田の泊の状態は良くなかったぐらいを想像します。清盛が従来の大和田の泊の改修を行わなかったのは、それこそ発掘された石椋や港湾施設に見て良い気がするからです。

清盛が行った改修事業とは今ある港の改修ではなく、港の移転事業ではなかったかと考えています。その傍証として経が島の規模をあげたいところです。経が島の規模も伝説になってしまい、平家物語ぐらいしかないのですが、wikipediaより、

その広さは『平家物語』に「一里三十六町」とあることから、37ヘクタールと推定されている。

ここも若干修正が必要で現在では「1町 ≒ 1ヘクタール」ですが、これは太閤検地の時に1反が360歩であったのを300歩にしたためです。つまりは1.2倍になり43ヘクタール(= 43万平米)になります。今回作った地図にウイングスタジアム(ノエビアスタジアム)がありますが、このスタジアムの建築面積が約3万1000平米ですから実に約14個分です。ポートアイランド関西空港の1期工事の1/10ぐらいの規模になり、正直なところ途方もなく巨大です。

経が島を石椋と同様に防波堤の一種と考える見方もありますが、防波堤にしては巨大すぎる事業規模と素直に思います。経が島は港を守る単なる防波堤ではなく、人工島に港湾施設ごと移転する計画であったと私は思い始めています。だから途轍もない難工事であったとすれば話が通ります。石椋よりも遥かに高い構造物が必要になるからです。

古代の兵庫津のあたりを想像するのは難しいのですが、あそこはもともと海だったんじゃないかと考えています。古兵庫湾というべきものがあり、そこに巨大な経が島を築造したのが清盛の大和田の泊改修計画であった可能性は十分あると思います。大和田の泊と兵庫津は位置も違いますが、呼び名も変わっています。呼び名がなぜに兵庫となったのかは調べてもはっきりしませんでしたが、重源が完成させた港は大和田の泊とは呼ばれず、兵庫津・兵庫湊・兵庫島と呼ばれるようになっています。理由は想像するしかありませんが、ある時期まで旧来の大和田の泊と兵庫津が併用された時期があったのかもしれません。だから別の港として呼ばれたぐらいです。

ここで一つの謎が残ります。清盛が海上交易を重視したのは間違いありませんが、話半分としてもそこまで壮大な事業をなぜに行ったのかです。海上交易のためだけなら、他に天然の良港、たとえば明石や西宮を選ぶ選択もあったと思うからです。傍証として和田京計画が頓挫した後に出てきた候補地が印南野と昆陽野です。印南野なら外港は明石になるでしょうし、昆陽野なら西宮でしょうか。そういう案も持ちながら大和田の泊の大改修事業を続行していたことになります。

あくまでも想像というより憶測ですが、遷都案はあくまでも和田京が本命で、印南野や昆陽野は平家の首脳部から案として出はしましたが、清盛には全然その気がなかったと考えています。ごく単純には福原へのこだわりです。福原は大和田の泊があってこその福原であり、大和田の泊を兵庫津に移転させ機能させることが福原百年の計(つうか平家百年の計)と判断していたぐらいを想像します。


兵庫島

兵庫津を兵庫島と表現していたとしましたが、とりあえず私が知る限り梅松論と一遍上人縁起がまず挙げられます。一遍上人は兵庫島に上陸し真光寺に晩年は住んでいたとなっています。その時の兵庫島の描写ですが、

銭塘三千の宿、眼の前に見る如く、范麗五湖の泊、心の中におもい知らる

この真光寺は現存します。場所も変わっていないとして良さそうで、境内には清盛ゆかりで伝承される井戸とか弁財天がありました。実は変わっているかどうかは一つのポイントでして、上の江戸期の推測図の位置に真光寺は現存していますが、一遍上人が住んだ真光寺がその位置なら、そこまで兵庫島があった事になります。かなり広いことになりますが、経が島が36町歩もあればそこまであった可能性はあります。もちろん清盛とそれを受け継いだ重源の改修後にも兵庫島の拡張が行われた可能性はあります。

そういう傍証もあるのですが、そもそも兵庫津を「島」と呼んだ時点で海上にあった最大の証拠となる気がしています。つうか島でないものを島とは呼ばないぐらいの単純な考え方です。一遍上人時代でも島であれば一の谷合戦当時も当然のように島であったとも考えられます。

話を経が島にしますが、これが特定まで行かずともその一片を知る機会はありました。明治になり兵庫津の繁栄に翳りが射した時に行われた起死回生の事業に兵庫運河の掘削があります。兵庫運河の結果は置いとくとして、あれだけの規模での掘削ですから、どこかで清盛の経が島の一端にぶち当たっている気がしています。惜しまれるのは明治の事業であったため、そのまま調査もされずに壊されたんだろうと想像します。今だって遺跡が出てくれば厄介なので黙って壊してしまうケースはあると聞きますが、明治期なら「なおさら」ってところです。こればっかりはどうしようもありません。


蛭子の森

大和田の泊をムックしてみて私の仮説にチイと無理が出ています。兵庫島(≒ 経が島)は海上にあったとしても良さそうなのですが、和田京推測図にもあるように「それでも」陸地部分は相当広そうです。長田神社に一の谷本営があったとしたら防御ラインが相当長くなります。東の木戸と比べても長いとしか言いようがありません。もっとも和田京予定地が乾燥した大地であったかどうかは疑問で、古湊川による湿地帯があったと見ても良いのですが、それでも山陽道を東に進んでくる源氏軍に対する防御ラインは長くなります。

なにかうまい説明というか防御ラインの短縮が出来ないかと考えていたのですが、とりあえず摂州八部郡福原庄兵庫津絵図をご覧ください。

いうまでもなく江戸期の絵図ですが、和田岬辺りに広い森林地帯が存在しています。江戸期にもあったのなら源平期はなおさら広大な森があったと想像したいところです。歴史的には蛭子の森と呼ぶ(西宮戎の発祥地)ようですが、古兵庫湾の西側には広大な森が広がっていた可能性はありそうです。古代山陽道は会下山の南側ぐらいを通っていますが、源平期は蛭子の森と山の間に通っている状態だったのかもしれません。蛭子の森は生田の森と同様に騎射特化の源平武者は通れない天然の要害であったぐらいの見方です。もちろん山陽道と大和田の泊を結ぶ道は開かれていたでしょうが、これは森の東側ないしは内側になり、平家の防衛線の内側になります。平家物語通本より、

その前年(寿永二年)の冬の頃から、平家は讃岐の国八島の磯を出て、摂津の国難波潟に押し渡り、西は一の谷に砦を構え、東は生田の森を正面の木戸口と定めていた。

難波潟は大和田の泊と受け取れば、大和田の泊を防御の最終拠点とし、東側を生田の森、西側を蛭子の森にしたと読むのは不可能ではありません。長田神社一の谷は西の木戸を守るための一大拠点であったぐらいの解釈です。ちょっと拠点として西に寄り過ぎ、さらに西の木戸の最前線に見えますが、平家の戦略では西からも北からも攻められることは余り想定していなかった考えます。平家が一の谷に進出したのは宇治川の合戦の影響もありますが、しれより陸上の勢力圏を播磨まで広げた点の方が大きい気がしています。

海の平家とはいえ、海だけでは覇権を唱えられません。陸地を制してこそのものになります。水島で義仲軍が敗れた後に、平家軍は播磨に進みます。行家が播磨に再進攻していますが、これはコテンパンに叩きのめされています。そうやって播磨の安全を確保できたので平家は一の谷に進む決断がなされたぐらいです。播磨を制している状態であれば、西や北からの攻撃の危険性は薄らぎます。源氏軍が攻め寄せるにしても東の山陽道に限定され、西側はもし敗れた時の退路の意味合いが濃くなります。海路は天候によっては使いないときがありますからね。