第1部一の谷編:マンハッタンの微妙な夜

    「カランカラン」
カウベルの音と共に彼女が登場。
    「今日こそ、一の谷やろ」
    「うん」
    「私はマンハッタン」
マンハッタンはライ・ウイスキーにスイートベルモットアンゴスチュラ・ビターズミキシンググラスでステアしたカクテルで通称「カクテルの女王」とも呼ばれています。マンハッタンの由来は諸説あるみたいですが、有名なのはチャーチルの母親がニューヨークのマンハッタンクラブでウイスキーベルモットの組み合わせを提案してできたというものです。マティーニはカクテルの王様と呼ばれるぐらい有名ですが伝説のバーテンダーであるマルティーニ氏が一九一〇年代にニューヨークのニッカボッカー・ホテルで考案したものとされています。レシピはシンプルでジンとベルモットをステアしオリーブを飾るというものです。ただなんですがオリジナルのレシピはジン1に対してベルモット2であったとされ、現在のベルモット1に対してジンが3〜4、もしくはそれ以上とは別種のカクテルになっています。ベルモットも現在のドライではなくスウィート・ベルモットです。つまりは相当甘いカクテルだったことになります。

それが、なぜか時代が下るにつれてベルモットの比率がドンドン低下し、モンゴメリ将軍のレシピでは一五対一、ハンフリー・ボガードベルモットの栓に着いたものをグラスに塗っただけだったのは有名な逸話です。チャーチルに至ってはベルモットの瓶を見ながら飲んでいましたが、そりゃ単にジンを飲んでるだけだろうと突っ込みたくなります。さて今日の取り合わせはカクテルの女王と王様のそろい踏みで、並べるとちょっと乙ですが、彼女はともかく私がどう考えても見劣りするのがなんともってところです。こればっかりは埋めようのない溝どころか谷かな。

    「一の谷の前にちょっと」
    「なに?」
    「わかってきた気がするの」
    「なにが」
    「山本君の考え方」
    「?」
はて何を言いたいのやら、
    「最初の方は大鎧とかの話やったやん。あれ正直なところつまらんと思ってん」
    「そりゃ、悪かった」
    「ちがうねん、あれって大事な話やってんね。源平武者がどんな動きをして、どういう風に動けるか知ってないと後の話に付いていけなくなるところやったわ」
良かった。悪く思われてないみたい。
    「昔からやけど、山本君って基礎からビッシリ積み上げて考えるから凄いと思うわ」
そんなことはなく、タマタマなんですが。
    「そういう風に考えるんだとわかったら、私にも見えてきた気がするの」
    「凄いと思うよ、行綱の話とか、熊谷直実の先陣の話なんか目から鱗やったよ」
    「私は凄くないねん。山本君が積み上げて教えてくれたからわかっただけ」
こんなに褒められて照れくさい、照れくさい。
    「私もちょっとは進歩したかな」
    「十分、十分。凄いと思うよ」
    「ホント、いつかそう言ってもらえる日がきたら嬉しいって思ってたの」
ここがどうにもわからないのが、もどかしい。私とコトリちゃんの間に何があったというのだろう。ここも悔しいのですが、私は覚えていないのですが、コトリちゃんには大きなイベントみたいなものがあったらしいですが、私の記憶回路は見事に目詰まりしています。とりあえず喜んでくれるから良しとしましょう。と言いながら気にはなるので
    「それでもさぁ、ボクと歴史の話をしていて面白い?」
    「山本君は私と話するのは面白くないの」
    「そんなこと絶対ないよ、ムチャクチャ楽しいし面白い」
    「私もそうなの。こうやって歴史の話をしたり、歴史に因んだ場所に行ったりするの大好き。だから鉢伏山や丹生山、兵庫津に連れて行ってもらってホントに楽しかった」
いつもと雰囲気が違います。いつもなら歴史談義に直行するのですが、今日はまるで恋人同士の会話みたいです。これなら、聞きたいことも聞けるかな。
    「今まではどうやったん」
『今までとは』これまでの彼氏の意味を含ませたつもりでしたが、
    「行ったけど、そこまで歴史に興味のある友達は少ないからもう一つオモロなかった」
うっ、『友達』で微妙に交わされてしまった。
    御朱印集めも始めたらババ臭いっていわれてもた」
渋い趣味ですが、絶対にババ臭いと微塵も思わないと心の中で絶叫してます。
    「こうやって歴史の話をおもしろくしてくれる人と話すのが夢やってん。だから感謝してる」
う〜ん、で私はどう思われてるのでしょうか。かつて男友達を自在に操りながら財布君とか、アッシー君として使い分けていた女性がいましたが、私はひょっとして『歴史君』だけではちょっと寂しいところです。今日の話の流れなら思い切って聞けそうと思っていたら、
    「お待たせしました」
マスター、ちょっとタイミング悪いよ。
    「いつもお綺麗ですね」
    「やだ、お上手ばっかり」
    「いえ、私は嘘を申しません。たぶんですけど」
しばらく談笑してマスターは去っていきましたが、今日は歴史談義をやる気になりません。彼女もそうみたいで、
    「山本君ってさぁ、社会とか現国とかすごい得意やったやん」
へぇ、良く知っていたものだと感心しています。成績の話なんて親しい友人以外にはあんまりするものじゃないですからね。
    「だから絶対文系やと思ててん。それが理系って知ってガッカリしたの」
ホンマかなぁ。高校の普通科は当時5クラスで、三年の時に理系と文系に分かれますが、理系が2クラス、文系が3クラスですから、三年も同級生になる確率は文系では三分の一しかありません。この辺は選択教科で変わるのですが、彼女は文系で何を取ってたっけ。
    「数学とかも得意やったん?」
    「いいや、数学・物理は大の苦手で三年の時は欠点スレスレやった」
    「ホンマに、ようそれでお医者さんになれたね」
    「苦手科目で受験やったからたいへんやった」
ここもあんまり触れて欲しくないところで、医学部志望といいながら受験科目がすべて不得意分野と言うありさまでした。当然ですが現役では到底無理で、浪人してなんとか滑り込んだってところです。
    「でも、頑張ったんや」
結果だけ言えばそうですが、苦手科目を克服するのは本当に苦で、あの頃のしんどさを思い出すのも嫌です。
    「今は彼女おらへんって聞いたけど、お医者さんやったら、もてるよね」
一般的にはそのはずなんですが、医者だってもてないのがいる証拠が私です。
    「それがサッパリやねん」
    「ウソやん」
そう言いたくなる気持ちはわかりますが、医者の肩書でも、もてないものはもてません。
    「でもなんとなくわかる」
えっ、何がわかるんやろか。
    「昔からやけど、山本君ってちょっと近寄りにくい雰囲気があるもんね。ここで声をかけた時、物凄い緊張したもん」
私は確かに人見知りが強くて人付き合いは得意じゃありません。まあ、口八丁手八丁の営業関係は絶対向いてないと思ってます。
    「そんなに近寄りにくい?」
    「実際に話したら優しいし、楽しいし、あれこれ親切にしてくれるのわかるけど、下手に話しかけるのが怖いって感じ」
    「そんなに怖そう?」
    「アホなことをウッカリ言えない感じかな。ちゃんとお話しないと冷たく無視されるみたいな」
    「そんなことないって」
    「そうやったよ。イイように言うたらクールかな」
そこまで冷たそうに見えるのかな。思い当たるフシはないこともなくて、興味のある事にはトコトン熱中しますが、そうでない事はかなり無関心なところがあるのは確かです。これが祟って興味がなかった苦手科目の克服に四苦八苦させられています。コトリちゃんのことを忘れていたのもそうです。
    「それと前から聞きたかったんやけど、みいちゃんとはどうやったの?」
あまりの不意打ちに椅子から転び落ちそうになりました。高校の時に好きな子でして、なんとか口説こうと頑張っていた女性です。
    「なんにもなかったよ、手も握らせてくれへんかった。でもなんでそんな事知ってるん」
    「みんな知ってたよ。山本君がみいちゃん見る時の目も態度も全然違ってたもん。それと手を握らせてくれなかったんじゃなくて、手も握ろうともしなかったんじゃないの」
    「違うって、噂に変な尾鰭が付いただけやて」
    「うふ。私、みいちゃんの友達から聞いたんだ。結局なにもしてくれないから、あきらめて結婚したって」
遠い甘酸っぱい記憶が急に甦りました。簡単にいうと当時の私はガキだったって事です。もう一歩踏み出すのが怖くて友達のまま卒業、そのまま自然消滅のありがちなパターンです。
    「でもねぇ、みいちゃんとの話を聞いてちょっと驚いてん」
    「なにを」
    「山本君でも恋をするんだって」
    「するに決まってるやん」
自分がどんな人間かは当たり前ですが良く知っているつもりですが、自分が他人からどう見られているか、とくに女性からどう見られていたかは初めて聞きます。
    「みいちゃん待ってたみたいよ。その話聞いてちょっと羨ましかった」
ホントに椅子から転げ落ちなかったのが不思議なぐらいです。女同士のクチコミ・ネットワークの怖さを思い知らされました。誰にも知られていないと思っていたのは私だけだったようです。コトリちゃんの追い討ちはさらに続きます。
    「木村さんって覚えてる?」
覚えています。非常にサッパリした性格の女の子で、よく話をしていました。
    「みいちゃんとの事を聞いてあきらめたんだって。山本君ってけっこう人気あったんよ」
知らなんだ。知っていれば、もうちょっと違った人生が送れたかもしれません。それにしても参ったな。まさかこんな古い恋愛話が次から次へと出てくるとは恥しいやら、照れくさいやらです。
    「前に彼女のためにダイエットした話しとったやん」
    「うん」
    「今でも続けてるんやろ」
    「うん、惰性やけど、せっかく痩せたんやから維持しようと続けてる」
    「そんなとこも昔と一緒。一度決めたら、なんだかんだでやり抜いちゃうもんね」
    「そうでもないんやけど」
    「お医者さんになったのもそうやん。普通やったら苦手科目で受験しようなんて思わへんやん」
    「まあ、それはムニャムニャ」
どうもコトリちゃんは私のことを良いように勘違いしてくれているみたいです。
    「いつか素敵な彼女が出来たら、きっと山本君は幸せにすると思うねん」
今日の流れなら言えそうな気がします。さっきはマスターにタイミングを外されましたが思い切って
    「じゃ、立候補してくれる」
    「そやなぁ、今は遠慮しとく」
ガーン、これが彼女の真意か。店の中がグルグル回りだしています。
    「でも、そのうち立候補するかもしれへんよ」
回っていた店がピタッと止まりました。
    「今はダメ?」
    「今はね」
絶望の淵に落っこちたかと思いましたが、辛うじて落ちなかったみたいです。いや落ちたのかな。にこやかに話す彼女の表情を一生懸命読み取ろうとしましたが、見えるのは屈託のない笑顔だけです。あの笑顔で最低限言えるのは別れ話みたいな類ではなさそうです。

別れ話と言っても、そもそも付き合ってるわけじゃありませんからアレですが、なぜ彼女はこんな話に持って行ったんだろうってところです。ここから他愛もない話題になってしまい、私の告白じみた発言はサラサラと流されて行きました。なんとも微妙な夜になりましたが、彼女の真意がどこにあるのか結局曖昧なままになってしまっています。それでも『遠慮しとく』はショックだったなぁ。かなりブルーな気分で彼女を改札から見送りました。