一の谷東の木戸

東の木戸が生田の森付近にあったのは確実して良いかと思います。では一の谷合戦当時の地形はどうであったかです。現在の神戸を見て想像するのが難しいのですが、その中でも一番難しいのは当時の海岸線がどのあたりにあったのかです。そのためにまず摂津名所図会を参考にしてみます。まず一の谷合戦当時からあった生田神社です。

現在の生田神社とはかなり変わってはいますが、位置自体は変わっていません。注目して欲しいのは画像右手に伸びる参道です。この参道の先はどうなっているかというと、

参道の始まりのあたりに一の鳥居があります。そういう配置自体は神社ならポピュラーなものなのですが、鳥居の先は程なく海となっています。でもってこの一の鳥居は現在でも存在します。確認しようもありませんが、古来より変わらず同じ位置にあったと見なしても良いと思っています。神戸の人間ならミュンヘンの近くの鳥居と言えば場所はわかると思います。生田神社も海に関連している神社ですから、海岸近くに一の鳥居があったと考えて良さそうです。

問題は山陽道がどこを走っていたかですが、アバウトに言うと「山陽道西国街道」になります。西国街道は西宮から二手に分かれ、浜街道ともう少し山寄りの本街道があります。そこまでは良いのですが、西国街道は生田神社のところで不自然なルートを取ります。西進してきた西国街道は生田神社前で真っ直ぐに南下し、再び西に進みます。道なんてそんなものだと言われればそれまでなんですが、古代の官道は可能な限り直線であるのが原則ですから、これは江戸期に西国街道として成立した時に変更された可能性はあると考えます・・・と字で書いてもイメージ出来ないでしょうから地図を出しておきます。

西国街道はこんな感じです。もう一つポイントですがwikipediaより、

実際の古代山陽道の路線趾が、発掘調査において確認された事例は極めて少なく、高槻市郡家(ぐんげ)川西遺跡(幅8m)、岡山県備中国分尼寺跡(幅7メートル)、兵庫県たつの市小犬丸(こいぬまる)遺跡、上郡町落地(おろち)遺跡など数例を数えるのみである。

なおかつなんですがwikipediaより、

山陽道においては、次第に従来の極端な直線的志向は廃れ、より整備の簡便な自然地形を利用する経路へと路線の変更がなされたようである。すなわち災害からの復旧を含めて、峠の迂回、河川渡河地点の変更、有力集落間の連絡重視などが主な理由となり、路線の付け替えは各所で行われた。沖積平野の出現による海岸線の後退も手伝い、全体としては次第に瀬戸内海の海岸沿いの経路が志向されることになった。

西国街道 = 古代山陽道」とストレートに言えない部分が多々あるぐらいの理解も必要です。


生田神社

古代の山陽道を考える時に生田神社は一つのポイント思っています。wikipediaより、

当初は、現在の新神戸駅の奥にある布引山(砂山(いさごやま))に祀られていた。799年(延暦18年)4月9日の大洪水により砂山の麓が崩れ、山全体が崩壊するおそれがあったため、村人の刀祢七太夫が祠から御神体を持ち帰り、その8日後に現在地にある生田の森に移転したといわれている。

これを信じれば生田神社は山陽道が出来た後に移動した事になります。生田の森が遷座場所に選ばれた理由はともかく、神社を整備する時に何を考えるだろうかです。たいした話ではないのですが、南側に山陽道があるわけですから、そこまで参道を伸ばしての接続を考えたんじゃなかろうかです。生田神社の一の鳥居の位置は参道の始まりになりますが、この位置は遷座後に参道が完成した頃から変わっていない可能性はあり、そう考えると一の鳥居は山陽道に接して作られていたと仮定可能と考えます。

そう考えると一の鳥居から西側に伸びる西国街道は古代山陽道に一致している蓋然性は高くなります。西国街道は生田神社参道を北上しますが、古代山陽道が参道であるのは不自然であり後世に生田神社参拝のために曲げられた部分と考えるのが妥当じゃないかと思います。そう、生田神社参道は東西に走る古代山陽道に直角に交わる形で接続されていて、西国街道の様に曲がらず旧生田川に向って真っ直ぐに東に伸びていた可能性が高いと推測します。


本街道と浜街道

ここまでは推理としては比較的容易なんですが、問題は生田川を渡った後です。西国街道には本街道と浜街道があるのですが、本街道に合流しようとすれば生田川の渡河後に北東に進路を取る必要があります。自然に結びつくのなら浜街道の方が良い気はします。しかし浜街道大名行列が通る本街道を避ける脇街道として成立したとも良く書かれています。まあ江戸期に灘五郷が発展したのでそれを継ぐ道の性格もあったとは思っています。生田神社の近くまで来ると本街道も浜街道も近すぎてなんのために2本もあるかわかりにくいので、もう少し広げた地図で示します。

京都から進んで来た西国街道は打出で本街道と浜街道に分かれます。京都から打出までの西国街道も古代山陽道で良いと思っていますが、道としては本街道の方が直線的で古代の官道のイメージに近いですが、打出までの西国街道の進み方からすると本街道より浜街道の方が直線的につながっている気もしないでもありません。だから浜街道の方が古代山陽道だったとするには強引過ぎるので、怪しげですが傍証を出します。富士川の時に作った地図ですが、

街道として山側に根方街道、浜側に東海道があります。根方街道は古代からの集落を結んだ道で良いと思うのですが、そうであれば古代の集落はまず山裾沿いに発達したと考えて良いかと思います。この地方も浜寄りになるほど浮嶋原と呼ばれる湿地帯が広がっており、山裾から浜に向って開墾が進んでいったぐらいの想像です。田はともかく、住居として湿地帯は望ましくないですからねぇ。一方の官道である東海道は浜寄りと言うより海岸線を走っています。そうなったのは地形的にフラットで直線路を得やすかったのと、道を作るために集落や田畑を潰す必要がより少なかったのもあったと思います。

阪神間も古代は湿地帯が多いところで、同様の事があった可能性ぐらいはあります。京都を出た古代山陽道は真っ直ぐに海岸線を目指し、以後は海岸に沿いながら走っていてもおかしくないんじゃなかろうかです。西国街道が最終的に整備されたのは江戸幕府によるものとされています。あくまでも想像ですが、この時に集落がゴチャゴチャしている古代山陽道を避けて田畑の真ん中に本街道を改めて設置した可能性があるんじゃないかと考えています。これ以上は私の手では難しいので、今日の結論としては「西国浜街道 ≒ 古代山陽道」にさせて頂きます。


東の木戸

ここまでの推測から東の木戸の位置を推測します。

補足説明をしておきますが、平家の防衛線は旧生田川の西岸に設けられていたで良いかと思います。南側は海までで良いのですが、北側は白の破線辺りまでだった可能性が高いと考えています。白の破線は現在の中山手通りと言うか山手幹線なのですが、これより北側は現在で言う北野になります。神戸の地形は六甲山と海に挟まれていますが、海から山に向かうほど坂が急になります。とくに生田神社の北側の山手幹線を越えてからは急になります。新神戸駅を降りた事がある人ならわかると思いますが、西側は完全に山になっています。ですから比較的緩やかになる加納町の交差点あたりから柵を設置し、源氏軍の侵入を防いでいたぐらいの見方です。長さとして700mぐらいになります。

古代山陽道の比定にこだわったのは、古代山陽道が通る個所に木戸を設けていたと考えているからです。これが西国浜街道に近いルートであれば平家物語の記述も、玉葉の記述もかなり理解可能になります。平家物語源平盛衰記だったなぁ?)でも東の木戸で激戦は展開されますが、源氏軍が浜寄りから柵を回りこもうとする描写があったはずです。これが西国本街道に東の木戸があれば、かなり源氏軍は南に展開した事になります。これが浜街道であれば木戸の攻防戦と一体のものであったと見る事が可能になります。

玉葉の記述もポイントで、

次加羽冠者申案内(大手、自浜地寄福原云々)自辰刻至巳刻、猶不及一時無程責落了

範頼大手軍は「浜地より福原に寄せて云々」となっており、この表現も本街道より浜街道の方が相応しい気がします。