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「カランカラン」
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「今日はカンパリ飲みたい」
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「マスター、カンパリで何か作って」
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「一年の時、一緒やったよねぇ」
「違うよ。一緒やったのは二年の時。忘れたん」
あれかなぁ、高校時代はパッとしない地味で目立たないタイプだったのが、社会人になって大変身は良く聞く話です。たしか彼女の勤務先は神戸でも大手のアパレルメーカーと言っていましたから、ファッションセンスは嫌でも磨かれるはずです。思い出せない理由は捻くり出せても肝心の彼女が誰かで壁に当たります。ホント毎度毎度同じところをグルグル回っています。それと、これも失敗の一つなのですが、最初に知っているフリをしたばっかりに名前も聞きそびれました。電話番号は聞いたので連絡は出来るのですが、名前を知らないので少々どころじゃなく不便です。
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「一の谷の前に宇治川があるけど、義経は鎌倉をいつ出発したの」
「これがなかなか難しいというか、とりあえず九条兼実の玉葉が参考になると思うんや
日付 | 内容 |
閏10/22 | また聞く、頼朝の使い伊勢の国に来たりと雖も、謀叛の儀に 非ず。先日宣旨に云く、東海・東山道等の庄土、不服の輩有らば、頼朝に触れ沙汰を致すべしと。仍ってその宣旨を施行せんが為、且つは国中に仰せ知らしめんが為、使者を遣わす所なりと |
11/2 | その替わり九郎御曹司(誰人や、尋ね聞くべし)を出立し、すでに上洛せしむと |
11/4 | 伝聞、頼朝の上洛決定止めをはんぬ。代官入京なり。今朝と。今日布和関に着くと |
11/7 | 頼朝代官今日江州に着くと。その勢僅かに五六百騎と。忽ち合戦の儀を存ぜず、ただ物を院に供さんが為の使と。次官親能(廣季子)並びに頼朝弟(九郎)等上洛すと |
11/10 | 伝聞、頼朝使供物に於いては江州に着きをはんぬ。九郎猶近江に在ると |
12/1 | 伝聞、去る二十一日院の北面に候する下臈二人(公友なり)伊勢の国に到り、乱逆の次第を頼朝代官(九郎、並びに齋院次官親能等なり)に告示す。即ち飛脚を差し頼朝の許に遣わす。彼の帰来を待ち、命に随い入京すべし。当時九郎の勢、僅かに五百騎。その外伊勢の国人等多く相従うと。また和泉の守信兼同じく以て合力すと |
寿永二年は十月と十一月の間に閏一〇月があるんで、ちょっと注意が必要やねんけど、十一月上旬には伊勢から近江に関東源氏軍が来ている感じがするんや」
「これも読みにくいなぁ」
「そうやと思うけど、これの原文は漢文やから我慢して」
「それなら我慢する。えっと、とりあえず義経が出てくるね。あたりまえやけど兼実も『誰やねん』としてるけど。でも十一月四日に布和関って関ヶ原あたりにいるって書いといて、十二月一日に伊勢にいるってどういうこと」
「玉葉の記事は伝聞やからしゃ〜ない部分もあると思てるけど、これは東山道を進む範頼と、東海道を進む義経の動きが混同されている気がするんや」
「な〜るほど、そういう前提で読めばなんとなくわかる気がする」
「だって貢納を集めるにしろ、軍勢を集めるにしろ、二手に分けた方が効率がエエやん。それと運んでいるのは貢納だけやなく、自分たちの兵糧もあると思てる」
「そうよね、京都で兵糧調達をやったら義仲の二の舞ですもんね」
「そういうこと」
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「でもこれと一の谷がどういう関係があるの」
- 一月二〇日に義仲が近江の粟津で討死
- 平家の一の谷進出を聞いた源氏が一月二六日から京都を出陣
「前から疑問やってんけど、宇治川の合戦やるやん」
「義仲が負けるよね」
「そうやねんけど、その後に一の谷になるねん」
「そりゃそうやけど」
「関東源氏軍が宇治川だけやるつもりだったのか、一の谷もセットでやる予定だったのかやねん」
「それは・・・セットなんちゃうん」
「そうは思うけど証拠が欲しいねん。つうのも平家と決戦するんやったら、平家が一の谷にいないと出来ないわけやん」
「源氏に水軍いないから、屋島で決戦なんてやりようもないもんね」
「一の谷がセットなんやったら、宇治川の前に平家が一の谷に進出しているだけじゃなく、平家との決戦の了承を鎌倉にいる頼朝に取っておかないとあかんと思うんや」
「たしかに。現地で独断で戦うには平家は大きすぎる相手やもんね」
「とりあえず延慶本にはこう書いてあるんや、
木曽うたれぬときこえければ、平家さぬきやしまをこぎいでつつ、つのくにとはりまとのさかひなる、なにはいちのたにといふところにぞこもりける。
読める?」
「読みにくい」
「これからは出来るだけ漢字に置き換えるね
木曽討たれぬと聞こえければ、平家讃岐屋島を漕ぎ出でつつ、津の国と播磨の境なる、難波一の谷と云うところにぞ籠りける
こんな感じ」
「義仲が討死したのを聞いたから、平家は屋島から船に乗って摂津と播磨の国境付近にある難波一の谷に入ったぐらいやね」
「そういうこと、義仲が討たれたのが一月二〇日やねんけど、それを聞いて平家が一の谷進出を決めたんやったら、一の谷セットが成立せえへん」
「一の谷セットってどっかの定食屋みたい」
「定食屋は置いといて、宇治川のそれなりに前の時点で平家は一の谷に進出しとかないと話しが合わないんや」
「なにが言いたいかわかった。範頼や義経の上洛が間違いないの情報が入った時点で義仲との決戦は決定事項になるから、それに乗じて平家は一の谷に進出したってストーリーね」
「そういうこと、関東源氏軍もそれを知って鎌倉の頼朝に連絡を取って宇治川後の一の谷戦を決定していたぐらいやねん」
「でも宇治川後に動いた可能性は無いの、たしか一の谷への出陣は二月四日じゃなかったっけ」
「範頼と義経の出陣はそうだと書いてあるけど、源氏軍は違うんや」
「どういうこと」
「まず延慶本からやけど、
廿九日、九郎義経いつしか平家征伐の為に西国へ下向。
一月二九日に義経は一の谷に向かったって書いてある。この辺の経過は吾妻鏡と玉葉の方が面白くて、
まず吾妻鏡の方やけど『悉以今日出京』は一月二九日にそろって京都を出陣したって意味じゃなく、一月二九日に出陣が終わったぐらいの意味になるねん。玉葉はもっとわかりやすくて、一月二六日から出陣が始まって一月二九日に出陣が完了して源氏軍が京都からいなくなったぐらいになるんや。つまりやけど、
こんなに早く情報が伝わった上に、即時に動けるもんやないやろ。インターネットどころかテレビも電話も無い時代やねんから。鎌倉の頼朝との打ち合わせというか書状の往復が1週間で出来るとは思えへん。日程の進み方からして宇治川前からセット定食だったと思う」
「エビフライ定食?」
「いや、本日のサービス定食」
「だったらカニクリームコロッケ定食」
「なんで?」
「今日のお昼」
「なるほど」
「いわれてみればそうやなぁ。宇治川の合戦の六日後に一の谷に動いたんやったら、最初から義仲の次は平家って決めていたんじゃないと動かれへんよねぇ。」
「関東源氏軍の上洛の動きに合わせて平家も動いていて、関東源氏軍も動いていたぐらいで結論しても良いと思てる」
「なかなかの情報戦ね」
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“改札の向こう側、人ごみに消えていく、後姿、目で追った、離れたくなくて”
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「久しぶり」
「いやぁ、ホンと久しぶりやねぇ」
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「・・・って知ってる?」
「そんだけじゃ、わからへんな」
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「思い出した!、三年の時に一緒やったかな」
「どんな子」
「どんなって、コトリちゃんやん」
「えっっっ、コトリちゃんって、あの天使のコトリちゃん?」
「天使って・・・でも男子はそう呼んでたみたいやね」
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「まさかコトリちゃんと付き合ってるの?」
「そんなわけないやろ」