第1部一の谷編:神戸ハイボールと寿永二年一〇月宣旨

    「カランカラン」
カウベルが鳴って彼女が登場。ハイボールも一時は消えそうでしたが最近人気です。ハイボールも幾つかスタイルがあるのですが、神戸ハイボールってのがあります。普通のハイボールはグラスに氷とウイスキーを入れて炭酸でステアするのですが、神戸ハイボールはグラスとウイスキーを予め冷やしておいて氷無しで作るのが特徴です。ウイスキーはなんでも良いのですがオリジナルはサントリーホワイトだったそうです。たださすがに今の時代にホワイトは使いにくいので、今時はサントリーの角が本家みたいに使われています。マスター曰く、オリジナルはホワイトでも美味しかったとしていますが付け加えて、
    「当時は美味しいウイスキーがあんまりなかったのもあるのですけどね」
今日は角でも良かったのですがマスターお勧めのデュワーズで。マスターがデュワーズが好きだったのも通い始めてかなり経ってから初めて知ったのですが、それまでお任せでスコッチ頼んでも一度も出してくれなかったのはちょっと不思議です。

彼女が誰だったか思い出せない状態が続いていますが、とりあえずスタイルはスリムです。スリムといってもガリではなく、見事に引き締まって贅肉がないぐらいと言えば良いでしょうか。元運動部だからなのもあるかもしれませんが、聞くとランニングに凝っているそうで、近々フル・マラソンにも挑戦したいなんて言ってましたから納得です。道理で鉄拐山のハイキングでもスタスタ私についてこれたのが良くわかりました。というか、体力的には彼女の方がどう考えても上なので私に合わせてくれたのかな。

    「高校の時からスタイル変わってないなぁ」
誰かを思い出していないのであくまでも偵察射撃です。
    「ちょっと太った時期もあったんやけど、走り始めてマシになってん」
そうか、体型的には高校の時と一緒か。と言うのも、高校の時はポッチャリ型だったのが変わった可能性を考えていたのです。ポッチャリ型がスリムに変わってしまえばわからなくても仕方がないぐらいですが、そうではなかったようです。てか運動部にポッチャリ型は少ないか、無駄な質問やったと後悔しています。
    「山本君だって変わってないやん」
    「そうかなぁ」
これはあんまり言いたくないので口を濁して逃げようとしましたが、逃がしてくれずに白状させられました。実はかなりどころでないぐらい太っていた時期がありまして、それこそ腹なんて三段が融合して巨大な太鼓腹てなザマでした。あまりの太り具合になんとかつまかえていた当時の彼女に逃げられそうになり、必死のダイエットとシェープアップで今に至るです。
    「彼女いるんだ」
    「いないよ。とうの昔に逃げられた」
    「じゃ、今は空いてるの」
    「今どころかずっと空室ありって看板かけてるよ」
    「独りで飲んでたもんね」
『あんたもやろが』と言いかけてやめたのは、微妙な問答の真意が気になったからです。恋人の有無なんて時候の挨拶みたいなものですが、そうじゃない時も世の中にはあります。ここはこの流れに乗って彼女に彼氏がいるかどうかを聞きたかったのですが、そこにマスターが
    「お待たせしました」
出来上がった神戸ハイボールを持ってきたので聞きそびれてしまいました。話題がなぜにマスターがデュワーズを好きなのかに転がってしまったからです。
    源平合戦の背景に食い物があったん知ってる」
    「養和の飢饉やね」
    「あれは一一八〇年の日照りのために一一八一年に凄いことになったんやけど、一一八〇年は頼朝と義仲が挙兵した年なんや」
    「石橋山ね」
    「養和の飢饉は西国に重く、東国が比較的軽かったとなってるんやけど、一一八〇年中に大雑把には関東は頼朝、北陸は義仲が押さえてしまうんよ」
    「押さえたらどうなるの」
    「頼朝と義仲は朝敵になるから税金が入って来なくなる。さらに税金だけではなく食糧も入って来なくなり京都は飢えることになるんだ」
    「税金は貴族の給料でもあるもんね、荘園からも入らなくなるし。そんなところに富士川の合戦と倶利伽羅峠の合戦のための兵糧調達が行われたらさらに飢えるよね」
    「義仲が上洛するんやけど、これで状況がさらに悪化するんだ」
    「そっかぁ、今度は平家が西国を押さえて朝敵になっちゃうんだ」
    「義仲が都で不評だった原因は他にもあるやろけど、税金問題を解決できなかったからやと思てるねん。義仲が京都にいると頼朝も平家も朝敵になるからね」
    「そこで後白河法皇が寿永二年一〇月宣旨をだすわけね」
    「義仲も上洛してから順調に平家を西国から駆逐していたら良かったんやけど、そうならへんかったから後白河法皇は頼朝か平家の選択を迫られたわけね」
    「迫られたというか、最初から選択は頼朝しかなかったと思うわ。だって後白河法皇は平家を毛嫌いしてたもん」
 
彼女が寿永二年一〇月の宣旨を知っていたのにはちょっと驚きました。これは頼朝が鎌倉幕府を開く原動力になったともされていますが、頼朝はともかく後白河法皇にはそんな気はなかったぐらいに解釈しています。後白河法皇の狙いとしては、
  1. 頼朝から東国の税収を確保する
  2. 義仲を追っ払って北陸の税収を確保する
  3. 平家を追っ払い西国の税収を確保する
この役割を義仲が果たせなかったので頼朝に乗り換えただけぐらいと見ています。まあこれを幕府創設にもっていった頼朝の政治手腕が凄かったぐらいでしょうか。それはともかく彼女が寿永二年一〇月の宣旨を知っているのは驚かされました。歴女ならそれぐらい知っていても不思議ないといえばそれまでですが、
    「寿永二年一〇月宣旨なんてよく知ってたねぇ」
    「それぐらい常識やん、って言いたいけど勉強してん。山本君と歴史の話するんやったら、これぐらいはやっとかないとアカンもん」
    「そうかな」
    「そうよ、覚えてるもん」
はて? なにを『覚えてるもん』なんだろう。なにか彼女との間にあったんだろうか。あったから彼女は言っているのだけはわかるのですが、謎は深まるばかりです。私は間違っても硬派ではなく人並みに女性に関心はあります。高校時代ももちろんそうです。残念ながら高校時代は、いや今もなお『もてない』のは遺憾ですが、いわゆる綺麗どころであれば覚えているはずなのに、どうにも彼女と結びつけられるような女性が思い浮かびません。

しかしも、まさか向こうが覚えていて、こっちが覚えていない状況でこんな関係が始まるなんて夢にも思いませんでした。それでも、まあいいか。こんな素敵な女性と一緒にお酒を飲めて、そのうえ歴史談義を楽しめるなんて夢のような時間です。下手に突っついて終ったらもったいなさすぎます。楽しければ今は満足です。焦らない、焦らない。