一の谷合戦前夜の義経陣地の比定

前にやった熊谷親子・平山季重の先陣から考えるの焼き直しバージョンです。


平家物語延慶本

平家物語の成立は複雑で、大元は治承物語とするのが通説のようです。治承物語は全3巻ととする説と6巻とする説があるようですが、現在は失われて存在しません。治承物語が成立した年代として承久年間とする説もあるようですが、治承物語が次第に膨らんで平家物語になっていったとする説は同意します。平家物語と言えば琵琶法師になりますが、数多い異本があるのは琵琶法師が各地で平家物語を語るうちに新たな情報を取り入れたり、話を膨らませて拡大した部分は少なからずあると思っています。

そういう成立過程がありますから、平家物語に書かれていることでも史実と創作部分がどうしても入り混じります。まあ太閤記とか三国志演義みたいなものですが、数多い平家物語異本でも成立時に近いものほど史実に近いんじゃないかとされています。少なくとも後世の創作部分は無い訳ですが、現在一番古いとされているのが延慶本です。延慶本は1309年夏から翌正月にかけて根来寺で筆写されたものですが、平家物語諸本へのいざないの延慶本より、

  • 表記が生生しさを帯びているとの評があります。それに、各種材料となった記事を膾炙しきれないかたちで纏めているため、文体がころころ変わります。
  • 頼朝挙兵譚の詳細記述があるのですが、この場面では頼朝に付き従った者達の活躍と戦功保証が描かれていることから、この場所が、それぞれの家に伝承されていた「家の物語(戦功譚)」を纏めたものと見られている

他にも特徴があるのですが熊谷父子と平山季重の先陣の記録も「家の物語(戦功譚)」を基にしている可能性は十分にあると見れます。仮に治承物語時点から収載されていたら、熊谷直実・平山季重当人こそ生存していませんが、その子どもなら生存している可能性があり、二人の記憶の比較的新しい部分であるぐらいは言えるかもしれません。私の興味は延慶本全体の研究ではなくあくまでも一の谷ですから、もう一度、熊谷・平山の先陣記録を見直してみたいと思います。


通本バージョン

平家物語多数のバージョンがあるのですが

六日の夜半ばかりまでは、熊谷、平谷搦手にぞ候ひける。熊谷、子息の小次郎を呼うで云ひけるは、「この手は悪所であんなれば、誰先と云ふ事もあるまじきぞ。いざうれ、土肥が請けたまはつて向こうたる西の手へ寄せて、一の谷の真つ先駆けう」ど云ひければ、小次郎、「この儀尤も然るべう候。誰もかくこそ申したう候つれ。さらばとうよせさせたまへ」と申す。熊谷、「誠や平山もこの手にあるぞかし。打ち込みの戦好まぬ者なれば、平山がやう見てまゐれ」とて、下人を見せに遣はす。案の如く平山は、熊谷より先にいでたつて、「人をば知るべからず、季重においては一退ききも退くまじいものを、退くまじいものを」と、独り言をぞしゐたる。下人が馬を飼ふとて、「憎い馬の長喰らひかな」とてうちければ、平山、「さうなせそ。その馬の名残も今宵ばかりぞ」とてうつたちけり。下人わしりかへつて、主にこの由告げければ、さらばこそとて、これもやがてうつたちけり。熊谷がその夜の装束には、褐色の直垂に、赤革縅の鎧きて、紅の母衣をかけ、ごんだくりげといふきこゆるめいばにぞのつたりける。しそくのこじらうなほいへは、おもだかをひとしほすつたるひたたれに、ふしなはめのよろひきて、せいろうといふしらつきげなるむまにぞのつたりける。はたさしはきぢんのひたたれに、こざくらをきにかへいたるよろひきて、きかはらげなるむまにぞのつたりける。主従三騎うち連れ、落とさんずる谷をば弓手になし、馬手へ歩ませゆくほどに、年頃人も通はぬ多井畑といふ古道をへて、一の谷の波打ち際へぞうちいでける。一の谷近う塩屋と云ふところあり。未だ夜深かりければ、土肥の次郎実平、七千四騎で控へたり。熊谷夜に紛れて、波打ち際より、そこをばつと駆せ通り、一の谷の西の木戸口にぞ押し寄せたる。その時も未だ夜深かりければ、城の内には静まり返つて音もせず。

まず時刻関係を拾いたいのですが、話は「夜半」に始まります。夜半がいつかになりますが、熊谷父子が塩屋を通り過ぎる頃も、西の木戸に到着した時も

    未だ夜深かりければ
これはまだ東の空が白んでない頃の表現として良く、白めば寅の刻になりますから、その前の丑の刻以前とするのが妥当です。一の谷の合戦日は卯の刻が6時、酉の刻が18時ぐらいで良いので、熊谷父子は3時(寅の一刻)までには西の木戸に到着していた事になります。熊谷父子の通過ルートではっきりしているのは、
    多井畑 → 塩屋 → 西の木戸
なのですが、これが11kmぐらいになります。道としては塩屋からは山陽道で整備されており、多井畑から塩屋も古道越で、清盛が舞子の別荘から多井畑厄神・妙法寺を参詣して鹿松峠を越えて福原に戻るルートとして使われていた記録もあるようなので、それなりには整備が行われていたと見ています。ただ夜道です。月齢7日はほぼ半月ですが深夜には沈みますし、吾妻鏡に「雪降」ともなっており月明かりも期待できないのがわかります。そうなると真っ暗の中を駆け抜けるってわけにはいかないでしょうから時速4kmぐらいで
  • 多井畑 → 塩屋が3.8kmで約1時間
  • 塩屋 → 西の木戸が7.3kmで約1時間30分
これぐらいはどうしてもかかると推測されます。多井畑から2時間30分なら多井畑通過が0時半頃で西に木戸に3時に到着になります。もちろん通本では義経陣は実平陣と別のどこかですから、義経陣から多井畑までの所要時間が必要ですが、夜半の用法として子の三刻(0時)ないしそれを過ぎた時間帯として用いる用法もありますから30分未満の可能性が出てきます。つまりは多井畑にかなり近い地点に義経陣はあった事になります。もう少し具体的には1〜2km程度がせいぜいって感じです。

ほんじゃ2km圏はどれぐらいになるかですが、現在なら多井畑厄神に隣接する奥須磨公園程度になります。源平期に奥須磨公園も、名谷ニュータウンもないわけで人家も見当たらない林と言うか、森と言うか、山道ですから多井畑厄神をわざわざ避けて義経が陣を置くのは少々不自然です。合戦ですから野宿も避けられないですが、武者であっても野宿より屋根のあるところで宿泊する方が体力の消耗を防ぐうえで望ましい訳であり、吾妻鏡に「雪降」とされているのでかなり寒かったはずで、目の前に多井畑厄神があるのにあえて利用しない理由が思い浮かびません。


もう一つ不自然なのは寅の一刻以前に西の木戸に到着していることで、とりあえず通常の先陣の例を宇治川から考えます。宇治川では川を挟んで義仲軍と義経軍が対峙しています。当時の合戦作法として矢戦が展開されるのですが、その真っ最中に先頭切って宇治川を渡河するのが先陣になります。この時に先陣を争ったのが佐々木高綱梶原景季で勝ったのは佐々木高綱なんですが、先陣とは矢戦の膠着状態から白兵戦に持ち込む役目が一つあるのがわかります。先陣が突撃した後に「あれを討たすな、皆つづけ」って感じでしょうか。

名誉とされるのは先頭であるが故に敵軍の矢の標的になり非常に危険です。先陣を行おうとする者を討ち取るのもまた手柄だからです。さらに敵陣に躍り込んだ時点では孤軍です。包囲されて襲われるリスクも多大と言うわけです。そういう生死に関わるリスクを背負って行うのが先陣なので非常に名誉とされたぐらいでしょうか。ここまでは先陣の必要条件なのですが、実は十分条件も存在します。平家物語より、

  • 『さきをかくるといふは、おほぜいをうしろにあててこそかくる事なれ。只一騎かけいりたらば、ひやくにひとついのちいきたりとも、たれをかしようにんにたつべき。ごぢんのせいをまて』(延慶本)
  • 「いたう、平山殿、先駆けばやりなしと給ひそ。先に駆くるといふは、御方の勢を後ろに置いて駆けたればこそ、高名不覚も人に知らるれ。只一騎大勢の中に駆け入って、討たれたらんは、何の詮かあらんずるんぞ」(通本)

どちらも成田五郎が平山季重に語った言葉ですが、先陣の価値をわかりやすく書いてあります。大胆にまとめると、

  1. 先陣を行った事を他の味方にはっきりと見せること
  2. ちゃんと生き残ること
宇治川と違い熊谷・平山は抜け駆けですから、先陣を行った時点では他に味方がいません。この場合の味方は土肥実平隊になりますが、実平隊は卯の刻(6時)の矢合わせに間に合わせるように西の木戸にやってきます。熊谷・平山が先陣を認めてもらうには、実平隊が二人が先陣を行い戦っている姿を認めてもらう必要があります。実平隊が来るまでに退却したり、討ち取られたりすると先陣ではなく単なる抜け駆け扱いになるとすれば良いでしょうか。実平隊が来るまでの3時間をフルマッチで戦っても熊谷・平山は歴史に名を刻む源平武者ですから可能かもしれませんが、あえて3時間も戦う設定で先陣を行うのは無謀というところです。


延慶本バージョン

まず

熊谷の次郎は、子息小次郎直家に申けるは、「この大勢に具して山を落さむには功名深くもあるまじ。その上明日の戦は打ち込みにて誰が先と云事あるまじ。今度の合戦に一方の先を駆けたりと、兵衛佐殿に聞かれたてまつらむと思ふぞ。その故は、兵衛佐殿しかるべき者をば一間なる所に呼びいれて、『今度のい戦には汝一人を頼むぞ。親にも子にも云ふべからず。戦に於いては智勇を尽くして頼朝をうらみよ』とぞ宣ひける。直実にもかく仰せられし事を承て、一方の先をば心にかく。いざうれ小次郎、西の方より播磨路へ下りて、一の谷の先せむ。卯の刻の矢合はせなれば、只今は寅の初めにてぞ有らむ」とて、うちいでむとしける

通本では行動を起こし始めたのを夜半としていますが、延慶本では「只今は寅の初め」つまり3時過ぎとしています。通本では西の木戸に到着している時刻になります。延慶本での西の木戸の到着時刻は、

山沢の有けるをしるべにて下りけるほどに、思ひの如くに播磨路の汀にうちいでて、七日の卯の刻ばかりに、一の谷の西の木戸口へ寄せてみれば、

卯の刻になっています。実平隊も卯の刻目指して西の木戸に向かって来るわけですから、実平隊よりほんのわずか先行しての先陣であることがわかります。これなら成田五郎が忠告した先陣の教訓に程よい時刻になります。それと個人的に注目するのは、この部分の前段は大手側の範頼陣からの平家陣地の描写です。つまり熊谷直実の抜け駆けストーリーは寅の刻の初めからスタートしています。それ以前はどうであったかですが、たとえば平山季重の陣所では、、

下人が馬を飼ふとて、「憎い馬の長喰らひかな」とてうちければ、平山、「さうなせそ。その馬の名残も今宵ばかりぞ」とてうつたちけり。

馬に飼葉を食べさせています。さらに

使い帰りて申けるは、「平山殿のおん方には、只今馬のはみ物して、たひげに候ふも、おん主は参りて候げにて、御物の具召し候かとおぼえて、御鎧の草擦りの音のかすかに聞こえ候。御乗り馬とおぼしくて、鞍置てくつばみばかり外して、舎人控へて候。物の具召し候が、平山殿の御声と思しくて、『八万大菩薩御覧ぜよ。今日の戦の真つ先せむずる物を』とのたまふ」と申ければ

季重は馬に鞍を置き、具足を着込み始めて出陣(つうか抜け駆け)の支度に余念がない様子がわかります。こういう状態が義経隊の一般的な状態でないからこそ直実は季重も「抜け駆けする気だな」と察知するわけで、言い換えれば他の義経隊は具足を解いての休憩中であったとして良いことになります。さて熊谷・平山が西の木戸に向かったルートは延慶本では明記されていませんが、

  • 西の方より播磨路へ下りて、一の谷の先せむ
  • 山沢の有けるをしるべにて下りけるほどに、思ひの如くに播磨路の汀にうちいでて、七日の卯の刻ばかりに、一の谷の西の木戸口へ寄せてみれば

多井畑から西(南西)に向かう道が古道越であり塩屋に通じます。また播磨路とは山陽道播磨国内の部分を指すとするのが妥当で、塩屋より西に出たとすれば時間的に西の木戸に間に合いません。字ではわかりにくいので前に作った地図を再掲しておくと、

20161006180210

やはりルートは

    多井畑 → 塩屋 → 西の木戸
問題は寅の刻でして、延慶本には実平隊の所在地は書かれていませんが、通本のように塩屋とすれば困った問題が出てきます。塩屋から西の木戸まで7kmぐらいですから、これを2時間とすれば寅の四刻(4時半)ないし卯の一刻(5時)には塩屋を出発する必要があります。多井畑から塩屋は4km弱ですから、これも1時間とすれば寅の一刻(3時)に多井畑を通過しても塩屋は卯の一刻ぐらいになります。つまりは出陣する実平隊と出くわしてしまうってところです。また通本では暗さに紛れて実平陣をすり抜けたとなっていますが、卯の刻とは既に空の星が消えている状態を指します。つまりはかなり明るく、ここを実平隊に気づかれずに通り抜けるのは不可能ってところです。

もちろん出陣支度のドサクサに紛れてって可能性もありますが、それならそれで、出陣直前の騒然とした状態の実平陣をすり抜けるのは大きなエピソードであり、これを一言も描写されていないのは少々不自然ってところです。延慶本では熊谷直実義経陣を抜けて西の木戸に到着するまで一言も実平について言及していません。これはごく素直に

    塩屋に実平隊はいなかった
つうか塩屋に実平隊がいれば、熊谷親子も平山季重もこのルートを取らないどころか、抜け駆けの先陣自体を行わなかった可能性が高いと思います。二人は生れて初めてこの土地に来たわけであり、塩屋が通れないなら・・・ってほどの地理知識はゼロに近かったとするのが妥当です。


吾妻鏡を参考にする

これまで何度も引用した

壽永三年(1184)二月大七日丙寅。雪降。寅剋。源九郎主先引分殊勇士七十餘騎。着于一谷後山。〔号鵯越

ごく素直に読むと義経は70騎の別動隊を引き連れて寅の刻に一の谷後山(鵯越と号す)に着陣したとなります。吾妻鏡の読み下しをググってもだいたいそういう意味で読み下しています。しかし延慶本での寅の刻の義経陣の描写は着陣直後ではなく休憩中としか読めません。ここは大胆に解釈を変えます。寅の刻に義経軍が行ったのは別動隊の編成であったとすれば延慶本との整合性が取れるのです。義経軍では深夜に軍議が召集され、そこで西の木戸に向かう実平隊と鵯越に向かう義経隊の軍勢分けが発表されたとの解釈で、延慶本の寅の刻からの描写は軍議から自分の陣所に戻ってからの話と考えれば筋が通ります。

延慶本の直実は、山に向かう部隊所属になり念願の先陣が出来なくなるとボヤき抜け駆けを決意しますが、息子の直家に寅の刻のわざわざ「初め」であることを告げているのは重要なポイントと感じます。これは実平隊の出発がもうすぐである事の意味ではないでしょうか。多井畑から西の木戸まで約2時間半と概算していますが、実平隊が多井畑出発なら3時半(寅の二刻)ぐらいの出発になります。実平隊が出発してしまえば、これを途中で追い越すことは不可能になり、実平隊に先行して先陣を行うには今しか抜け駆けをする機会はないぐらいです。でもって直ちに決行したぐらいでしょうか。

土地に昏い熊谷・平山が西の木戸への道を知ったのも実は深夜の軍議で、西の木戸を目指す実平隊の大まかなルートを義経なりが軍議で話したからとすれば納得がいきます。たとえば、

    実平隊はここから西に下り塩屋に出、播磨路から向かい西の木戸を目指し直ちに出陣
この程度の知識で西の木戸を目指したので直実が道に迷わないか心配したと考えます。多井畑は周囲を山に囲まれた盆地と言うか谷ですし、塩屋までにどんな道が待ち受けているか直実は知らないわけで、さらに道も1本とは限りません。抜け駆けを行ったのに迷子になって舞い戻るのは武者に取って大きな恥辱ってところでしょうか。前にも考察しましたが、義経軍陣地は多井畑厄神であり、ここに実平も一緒にいたと改めて結論させて頂きます。


延慶本と通本の違い

わかりやすいところを表にしてみます。

通本 延慶本
抜駆け時期 夜半 寅の刻
義経 実平陣と別 記載されず
実平陣 塩屋 記載されず
西の木戸 未だに夜深 卯の刻
ルート 多井畑から塩屋 多井畑から塩屋
通本の方が曖昧ですが、義経陣から西の木戸までの熊谷・平山の所要時間も同じと見て良さそうです。最大の違いは塩屋の実平隊の存在です。通本ではいつの時代からか実平が塩屋に陣を取っていた話が挿入されたようです。これに連動してか義経隊の陣地も塩屋と別の「どこか」、とにかく多井畑より北側の「どこか」に設定しています。たとえば吾妻鏡にある一谷後山とかでしょうか。私も通本の説に相当振り回されましたが、一谷後山を鹿松峠西麓の口妙法寺あたりにすると熊谷・平山の抜け駆け先陣が距離と時間から物理的に難しくなります。 つうのも一谷後山から多井畑まで8kmぐらいあるのです。寅の一刻(3時)にスタートしても、多井畑で卯の一刻(5時)、塩屋で卯の三刻(6時)がせいぜいで、先陣どころか置いてけぼりになってしまいます。急ぐにしても夜道ですし、馬は速度を挙げられても従者は徒歩です。さらにさらに地理に昏いのですから、多井畑から塩屋とではルートの難度の桁が違います。 でもって通本は塩屋に実平隊を置いたので通過時刻を丑の刻以前に設定しています。闇にでも紛れないと実平陣通過は無理との考えだった気がします。この丑の刻以前も寅の刻になれば実平隊も動き出しますから、どうも子の刻ぐらいにしているようです。子の刻なら実平隊も殆どが寝ているぐらいの設定でしょうか。ただそうしたために、西の木戸到着が異様に早い時間帯になっています。つまりは平家陣地も寝ている時間帯になっています。言ったら悪いですが、先陣と言うより夜討に近い感想さえ私は持ちました。 それでも通本も参考になる部分はあります。出発時刻はずらしていますが、移動時間は「どうも」律儀に守っています。守っているからこそ矛盾が出るのですが、ここは変えられない理由があったのかなぁ。それより実平隊塩屋宿営のお話はどこから出たのか・・・これ以上はわかりません。
延慶本の感想
延慶本の記述とて金科玉条ではありません。どうにも矛盾と言うか、チグハグな部分はあります。これについては冒頭でご紹介したように、平家物語の原典の成立資料に家の武勇譚を嵌め込んでいるからだと言われれば納得します。武勇譚は当事者の記憶の書き残しですが、当事者であっても見える範囲は限定されますし、覚え間違い、記憶違いは出てきます。それと原作の平家物語の作者については諸説ありますが、かなり源氏にも平家にも通じている人物で、なおかつ教養の高い人物であるのだけは間違いありません。 しかし当時の事ですから現地調査まで行ったとは思えず、雑多な資料を机上で再構成しただけの気がしています。現場を知っていないのですから、武勇譚の部分も鵜呑みにするところはそうせざるを得ず、チグハグの部分も目を瞑ったというか、チグハグである事も良くわからなかったぐらいです。これは平家物語だけではなく吾妻鏡もそんなところはあると感じています。それより、なにより、読みにくいのに悲鳴をあげています。あんだけひらがなの名前の羅列があると幻暈がしそうになります。 それにしてもあれだけ藍那からの、いや三草山からの義経の足取りをあれこれ考えたのに、結局のところ三草山から藍那に直行し、そこから多井畑へ全軍が一緒に移動した結論になるとは歴史ムックも奥が深いとしみじみ感じました。
蛇足・義経
まずは玉葉で、

自式部権少輔範季朝臣許申云、此夜半許、自梶原平三景時許飛脚申云、平氏皆悉伐取了云々、其後牛刻許、定能卿来、語合合戦子細、一番目自九郎許告申(搦手也、先落丹波城次落一谷云々)、次加羽冠者申案内(大手、自浜地寄福原云々)自辰刻至巳刻、猶不及一時無程責落了、多田行綱自山方寄、最前被落山手云々

このうち範頼の部分に

    自辰刻至巳刻、猶不及一時無程責落了
ここは辰の刻(8時)から巳の刻(10時)になっても平家の防衛線を突破できなかったぐらいと解釈しても良さそうです。ここはもうちょっと直截的に平家軍が総崩れになったのが巳の刻ぐらいであったとしても良い気がします。巳の刻も2時間あるのですが、義経が一の谷に攻め込んだぐらいを巳の一刻(9時)と仮定してみます。大まかなストーリーとして、
  1. 巳の一刻に義経が一の谷到達
  2. 巳の二刻までに火を十分に放ち黒煙が立ち上る
  3. これを見た平家軍が動揺し潰走状態になるのが巳の三刻ぐらい
巳の一刻に義経が多井畑から一の谷に間に合うためには5時(卯の一刻)ぐらいに出発する必要があり、卯の一刻に多井畑を出発すれば辰の一刻には鹿松峠の西の麓に着くことになります。ここは仮定ですが、そうであっても可能になるのは上で試算した通りです。

平家物語を読んだだけの印象に過ぎませんが、義経が一の谷に突撃してから平家軍が潰走しだすまでそんなに長くない感じがします。つか義経隊は小勢ですから、平家軍をバッタバッタと討ち取る戦力はありません。奇襲でまず動揺させ、動揺して態勢を整えようとしている間に景気よく放火して回り、本営から立ち昇る煙をアピールしてさらなる動揺を誘う戦術ぐらいを想定しています。

この奇襲のタイミングは矢合わせ直後では薄い気がします。やはり東西の木戸の戦いがたけなわになる頃を見計らう必要があります。理想的には平家軍がややお押され気味になるぐらいの時期でしょうか。押され気味にならなくと、卯の刻の開戦から疲れが見え始める頃でも良いかもしれません。だから義経は多井畑で宿営しても良かったわけですし、寅の刻に出発する必要も感じなかったぐらいです。

熊谷・平山が抜け駆けを決断したのは平家物語では「山」への戦になっていますが、それだけでなく義経隊自体に先陣のチャンスがそもそもない戦術であるのが分かったからかもしれません。