第1部一の谷編:舞い降りたホワイト・レディ

ホワイト・レディーはジンにホワイト・キュラソー、フレッシュ・レモンジュースを加えシェークしたショートカクテルです。二十世紀初頭にヨーロッパで一番ファッショナブルといわれたロンドンのシローズ・クラブの名バーテンダー、ハリー・マッケンホルン氏が考案したもので、当初はジンではなくペパーミント・リキュールだったのですが、ハリーがパリのハリーズ・ニューヨーク・バーに移った時にジンにかわり広まったと言われています。

好きなカクテルなのですが、飲みながらいつも思うのは独りで飲むものじゃないってところです。バーのカウンターの独り酒は格好良さそうにも見えますが、ありゃ、酸いも甘いもしっかり経験した奴に似合うもので、そういうことに縁遠い男の独り酒にホワイト・レディは似合いません。ホワイト・レディはやはり隣に座る素敵な彼女が飲むもので、その横で、そうですねぇ、スコッチをロックで傾けるぐらいが理想的です。まあ、そんな彼女に長年恵まれていないから自分で飲んでいるのですが、虚しさがこみ上げてくるってところです。

にしても今日は珍しくヒマそうで、長いカウンターに座っているのは私ともう1人だけです。なにかマスターと話し込んでいる様子なのですが、気のせいかこちらをチラチラと見られている感じなんとなくします。いや、チラチラ見ているのは私かもしれません。バーに女性の独り客は比較的珍しいのですが、実に華やかな雰囲気をもつ女性で嫌でも気になってしまいます。まあこのタイプの女性を私は好きと言うか、誰だって魅かれずにはいられないでしょうが、私のキャラからすると高嶺の花、縁遠い存在ってところです。

ホワイト・レディを半分ぐらい飲んだ頃に、

    「山本君やんね?」
えっと、苗字は私で間違いないのですが誰やねん。
    「こっちに座ってもイイ?」
この流れで断る理由がないというか、人違いでも素直に大歓迎です。
    「久しぶりやねぇ、卒業以来かな。ちっとも変ってへんから、すぐにわかったわ。マスターにちょっと聞いてみたら、やっぱりそうやと思てん」
ん、卒業以来ってことはどっかの同級生。なんとなく相槌をうちながら話をしていると、確かにあの頃の同級生の名前が出てきます。どうやら高校の同級生のようです。実は高校時代は私のパッとしない人生の中でもとくに陰鬱な時代で、べつにイジメにあっていたわけじゃありませんが、思い出したくなくて記憶に封印をかけてしまい込んでいる時間です。その封印を解くのは苦痛なのですが、その苦痛より彼女を思い出すことが今は優先されます。彼女はあれこれとよく覚えているようで、
    「あん時にさぁ・・・」
とか、盛んに話しかけてくれるのですが、そういうエピソードがあったことは、なんとなく思い出しても、彼女が誰だったかがなかなか思い出せません。ホワイト・レディの酔いも手伝ってくれて、話しているうちにきっと思い出すはずだと割り切ってこの時間を楽しむことにしました。隣に座ると彼女の魅力がますますハッキリします。たぶん絵に描いたような美人じゃないと思います。よく見れば欠点もあるのですが、そんな欠点を軽く吹き飛ばす快活なキャラが彼女の魅力で、屈託のない笑顔は欠点さえ魅力に変えてしまいます。
    「次はなに飲もうかな。なんかお勧めある?」
    「港町レモネードは」
    「じゃ、それにしよう」
このカクテルはウォッカにブルーキュラソーで色付けし、レモネードで割ったロングカクテル。バナナキュラーソーも入れるそうですが、この店のものはバナナそのものが入っているのが特徴で、トッピングに赤と緑のチェリーが風見鶏のステックに刺されて出てきます。
    「これって神戸開港150周年記念カクテルよねぇ」
    「よく知ってるね」
    「黒板に書いてあるやん」
港町レモネードは神戸開港150周年に協賛して神戸バーテンダー協会がオリジナル・カクテルとして出したものです。ちなみにカクテルが水色なのは海を表し、緑のサクランボは六甲山の緑、赤はポートタワーだそうです。マスターに聞いたところではレモネードが日本で最初に売られたのは神戸だそうで、だからレモネードになっているそうです。バナナの由来は聞いてないけど、バナナも日本で初めて輸入したのかなぁ?
    「でもさぁ、神戸開港ってもっと古いんじゃない?」
話を聞いていると彼女はいわゆる歴女です。私も歴史は趣味というか今どきならオタクに近いほど好きですから、記憶の封印を解かなければならない高校時代の思い出話より気が楽です。
    「そうなんや、神戸開港なら大輪田の泊まで遡るべきやと思うけど、大輪田の泊になるといつできたかもわからへんから、イベントやるんやったら、はっきりわかってる神戸開港にしたんやろ」
    「でもそれって、兵庫津の歴史を無視するんやから、兵庫津の人は怒るんやない」
    「ボクに言われて困るけど・・・でも協賛事業やってたよ」
    「さすが関西人や。でさぁ、神戸って新しい街のイメージがあるけど、結構歴史あるんよね。たとえば一の谷の合戦とか」
一の谷の合戦はここのところムックにはまっていまして、この話題ならいくらでも応じられます。
    「一の谷の合戦もロマンよね」
    「うん、謎も多いし」
    「謎?」
一の谷の合戦は平家物語のハイライトの一つです。平家物語は軍記物語の傑作であり、また琵琶法師が平曲として全国を流れ歩いたので非常に有名なものになっています。平曲は昔の大ヒットソングみたいな感じでしょうか。
    「謎はあるよ。そもそも一の谷ってどこだい」
    「えっ、須磨浦公園のあたりじゃ・・・そうそう鉄拐山の麓。須磨浦公園のあたりが激戦地だったって石碑とか記念碑もいっぱいあるやん」
    「でもボクは違う気がするんや」
    「そやけどガイドブックにもちゃんと書いてあるもん」
    「実際に行って見ればわかるよ」
    「ハイキングね、わぁ楽しみ」
ちょっと待った、ちょっと待った、この急展開はなんやねん。高校の同級生かもしれませんが、私にしたら初対面の女性といきなりデート、いやハイキングか。とは言うものの彼女が誰だか思い出せないのがネックですが、こんな降ってわいたチャンスを断る理由がありません。それにしてもこんな素敵な女性と知り合いになれるなんて、ひょっとして彼女はホワイト・レディの妖精かもしれません。どうか夢ではありませんように。