ツーリング日和15(第15話)平家残影

 輪島からはまずは白米千枚田、続いてコトリが絶対外せない上時国家。ここは壇ノ浦で敗れ能登に配流された平時忠の子孫の家。ちなみに時忠は、

『平家にあらずんば人にあらず』

 この言葉を残したことで歴史に名を残した人だ。

「あれもそれまでは藤原氏、それも北家やなかったら出世でけへんかったのが、平家が取って代わったぐらいの意味やともされとるがな」

 時忠は平家全盛の頃に権力者であったのは間違いないはずだけど、壇ノ浦後も重要視された人物なのはちょっと驚いた。

「源氏の台頭に反感持つのも多かったんやろ」

 平家の滅亡は源氏の世になるしかないと思うのは後世の人間で、平家が滅亡したら貴族政治が復活すると期待していた勢力が京都で強かったって事よね。

「そんな理解でエエと思う。そういう流れの果てに承久の乱があるぐらいや」

 京都に連行された時忠なんかGHQが捕まえた戦争犯罪人ぐらいと思いそうだけど、なんとだよ時忠の娘の蕨姫は義経の側室になってるんだよ。これだって娘を差し出しての命乞いかと言えば、

「蕨姫がどんな女やったかの情報は皆無に近いんや。少なくとも傾国の美女やった話は残ってへん」

 義経からすると好色目的なら別に時忠の娘を選ぶ必要はないわけだ。選んだばっかりに頼朝との不和の一因になったのだろうけど、やはり黒幕は、

「ベタやけど後白河法皇やろ。平家は宿敵みたいなもんやったけど、平家が滅んだら源氏が目障りになったぐらいでエエと思う」

 後白河法皇が義経の取り込みに熱心だったのは事実として良いと思う。だから平家の残党の中心人物とも言える時忠と結ばせる工作を行ったぐらいか。言うまでもないけどこの工作は失敗に終わり、義経は衣川で死ぬのだけど、

「義経没落と連動するように時忠も能登に流される」

 能登での生活は冷遇ではなかったとされ、時忠は能登で二男一女を作ったとされてるのよね。この時国家は能登の次男の家だけど、これが時忠の配流されていたお屋敷なの。

「ちゃうちゃう。この家は江戸時代に作られたもんや」

 茅葺だけど大きくて立派な家だ。中に入ると上段の間、中段の間、下段の間と続き天井は縁金折上格天井と呼ばれる豪華なものじゃない。

「大納言の格式らしいが、それを加賀藩も認めとるのが凄いわ」

 逸話として前田家も大納言だから同格として敬意を払ったとか。

「あそこ見てみ」

 天井の一部が壊れてるのか。

「あれはわざとああ作ってあるとされとるねん。大納言の格式ではあるけど、わざと一部崩すことで前田家に遠慮の姿勢を示したとかや」

 どこまで本当の話かわからないけど、時忠の子孫が連綿として残っただけではなく、元大納言家の敬意を払われ続けたぐらいは言えそうな気がする。そうじゃないと、ここまでの建物が作られ、残されないものね。

 上時国家を出て次が垂水の滝、海に直接流れ落ちる滝なんだけど、見どころは冬らしくて、海風の影響で滝が海に落ちずに空に吹き上がるのだそう。想像するだけですさまじそうな風景だけど、そこまでの強風の中をバイクで見に来るのは無理だろうな。そこから、

「奥能登言うたら塩やろ」

 揚げ浜式塩田が今でも残ってるところで、日本中の料理人が奥能登の塩を求めに來るとか。もちろんゲットした。

「ここは寄り道させてもらうで」

 国道二四九号を少し山の中に入ると、能登平家の郷って赤い幟があるけど、

「この下が時忠の流刑地や」

 階段を下りると時忠及び一族の墓とか、屋敷跡もちゃんとあるじゃない。とはいえ寂しいところだな。こんなところで時忠は生涯を終えたんだ。

「時忠が遺した歌も京都への望郷の歌ばっかりやそうや」

 現在も左遷で地方に飛ばされるのを流刑にたとえる人がいるけど、この時代は京都とそれ以外の文化格差が想像を絶するぐらい広がってたから、貴族にとっては重い刑だったんだろうな。

 ここもそれなりに整備はしてあるけど、言ったら悪いけど観光拠点として人を集める気があるとは思えないな。距離も遠くないから上時国家とセットにして売り出しても良さそうなものだけど。

「コトリもそう感じるけど、ここが時忠の本当の配流地かどうかも実はわかってへんねん」

 どういうこと。時忠の子孫の時国家が今も続いているのだから、配流地の場所ぐらいわかってるでしょ。

「時忠の能登での長男は時康やねんけど、ここは時康の子孫の則貞家が主張する配流地やねん。それもや・・・」

 長男の則貞家と次男の時国家には時忠に関して異なった伝承が残っているのか。則貞家の伝承では幕府に時忠が死んだの虚偽の報告をして配流所を脱出させ、その後に移り住んだのがここだとなってるそう。この地の管理は則貞家が連綿と続けていて、墓所も則貞家が管理しているとはね。

「学術調査もされとって、屋敷跡は鎌倉初期のもんやけど、墓所は南北朝時代のもんやそうや」

 墓所は則貞家が再整備したと考えれば辻褄は合うけど、だったら時忠が最初に配流されていたのはどこになるのよ。

「そやから則貞家と時国家で伝承が異なってると言うたやろ」

 時国家は時忠の配流所脱出の話を認めてないのか。ここが時忠が配流所から逃げて来たところとしても、寂しいところなのは同じだと思うけど、配流所にいる限り、いつ殺されるかわからないから逃げたぐらいだろうな・・・で、どっちが正しいの。

「ここに時忠がホンマにおったかもわからんねん。話としては則貞家の伝承の方がおもろいねんけど」

 則貞家の伝承では奥州藤原氏への逃避行をしていた義経が、時忠の娘である蕨姫を伴って会いに来たとなってるそう。そこで奥州藤原氏と平家残党が手を組んで頼朝打倒の策謀を話したとか。

「歴史小説家がロマンを膨らませるところやが・・・」

 ここに時忠の処遇を考えるもう一つの側面があるそう。時忠の本当の長男の時実は血気盛んな人物だったみたいで、義経が伊予に渡って反頼朝の旗を挙げようとする時に同行してるんだよね。

 この企画は無残に失敗して義経は奥州への逃避行になっていくのだけど、時実は捕まって上総に流されることになる。だけど後に許されて京都に戻り従三位まで昇進してるんだ。その時実だけど、

「反鎌倉派で怪気炎を上げてたそうやけど、承久の乱の前に亡くなってるわ」

 時実も相当な生涯を送ってるけど、本当の次男の時家はさらに輪を掛けたもので、まさに数奇としか言いようがないものになってる。時家は清盛が後白河法皇を幽閉した治承三年の政変で後白河法皇に加担したとされて上総に流されてるんだ。

 そこで時家は上総介広常に気に入られ婿として迎え入れられてる。頼朝は石橋山の合戦で木っ端微塵に負けて房総半島に命からがら逃げ込んでるじゃない。そんな頼朝に加担したのが上総介広常で、鎌倉幕府設立の大功労者になるんだよね。この時に時家は頼朝に見いだされてブレインに取り立てられることになる。

 頼朝の時家への信頼は篤くて、上総介広常が粛清されてもその地位は揺るがず、頼朝の政治顧問みたいな地位で穏やかに生涯を終えたとされている。時忠が壇ノ浦の後に殺されなかったのは武家でなく公家であったからとされるのが通説だけど、

「頼朝が時家に忖度したからやとも言われてる」

 時家は上総に流されたから平家に悪感情を抱いていたとするのが通説で、だからこそ上総介広常にも、頼朝にも信用されたとなってるけど、

「父の時忠にはどうやったかはわからん。あの頃の父への態度は今とはちゃうからな」

 反平家感情とは別に実父への配慮をしていてもおかしくないはず。というか、そういう姿勢を見せるのが子として当然とされた時代だよ。そうなると時実が赦免されたのも、

「関係あらへんとは言えんやろ」

 時忠の能登での生活への処遇も時家の意向が反映されていると考えるのが妥当かも。そんな状態なのにわざわざリスクを冒して時実が配流所から逃げるかと言われると、

「能登の長男の家も、次男の家も生き残り、それなりに繁栄し、今もまだ続いているのに時忠の配流所の位置も曖昧になっとるのも歴史やと思わへんか」

 コトリは笑いながら則貞家の伝承が真実であっても実態は微妙に違った可能性があると考えているよう。時忠が配流所から逃げるのは脱獄みたいなものになるから、誰かが手引きしないと無理だろうって。

 これは逃げるとは逃げ場所と生活費の確保がセットになるからだって。そんな力が能登の時忠にあるとは思えないよね。だからそれは時家が頼朝に時忠の赦免を願い出た結果じゃないかとしてた。

「時忠は赦免するには大物すぎるやんか。そやから頼朝は隠棲を許したんちゃうやろか」

 流罪は中止する代わりに能登に死ぬまで引っ込んでいてくれぐらいかな。その辺の裏工作の痕跡が則貞家に残り、時国家に残らなかったぐらいかもしれない。そうなるとここは、

「時忠の配流所やと思うてる。他にあったらさすがに地元の伝承ぐらいは残るやろ」

 手を合わさせてもらった。コトリもだけど、わたしも平家贔屓だからね。