ここまで足を突っ込んでおきながら平家物語のチェックを忘れていました(つうか読みにくいのでパスしてました)。吾妻鏡にも平家物語の引用は結構あるわけで、我慢してでも読んでおく必要はあります。延慶本はそのままでは読むのが非常に大変ですから、出来る範囲で漢字に置き換えて引用してみます。
延慶本より
各々の九重の都を立つて、千里の東海へ赴かれける。平に帰り上らんことも、誠に怪ふき有様どもにて、ある日は野原の露に宿をかり、ある日は高根の苔に旅寝をし、山を越え河を重ね、日数ふれば、十月十六日には、駿河の国清見が関にぞ着き給ふ。都をば三万余騎で出でたれども、路次の兵つきそひて、七万余騎とぞ聞こえし。先陣は蒲原、富士川に進み、後陣は未だ手越、うつのやに支へたり。大将軍権亮少将維盛、侍大将上総守忠清を召して、「維盛がぞんぢには、足柄の山うちこえ、ひろみへ出でて戦をせん」とはやられけれども、上総の守申しけるは、「福原をおんたちさふらひしとき、入道殿の仰せには、戦をば忠清に任せさせ給へとこそ仰せさふらひつれ。伊豆駿河の勢の参るべきだに、未だ一騎も見えさふらはず。味方の御勢七万余騎は申せども、国々の借武者、馬も人も皆疲れ果ててさふらふ。
10/16時点で維盛は清見が関にいたとなっていますが、ここは旧清水市になります。玉葉にある高橋宿に近い、ないしは同じと見て良さそうです。ただこの時点で蒲原から富士川に進んでおり、その時点では源氏勢は見えていなかったとなっています。ここもですが、先陣とは玉葉や吾妻鏡にある駿河勢と考えて良い気がします。鉢田の合戦は吾妻鏡によると10/14であり、玉葉によると10/16に高橋宿で報告を受けたように解釈できますから、おおよそ合っている気はします。問題は途中を飛ばして次のところです。
さる程にに同じき二十四日の卯の刻に、富士川にて、源平のの矢合わせとぞ定めける。二十三日の夜にいつて、平家の兵ども、源氏の陣をを見渡せば、伊豆駿河の人民百姓らが、戦に怖れて、或るひは野に入り山に隠れ、或るひは舟にとり乗つて、海河に浮かびたるが、営みの火の見えるを、「あな夥しの源氏の陣の遠火の多さよ。げにも野も山も海も河も、皆武者でありけり。いかがせん」とぞあきれける。その夜の夜半ばかり、富士の沼にいくらもありける水鳥どもが、何にかは驚きたりけん、一度にばつと立ちけるは音の、雷大風などのやうに聞こえければ、平家の兵ども、「あ早源氏の大勢の向かうたるは。昨日斎藤別当が申しつるやうに、甲斐信濃の源氏ら、富士の裾より、搦手へや回り候らん。敵何十万騎かあるらん。取り籠められてはかなふまじ。ここをば落ちて、尾張河墨俣を防げや」とて、取るものも取りあへず、我先に我先にとぞ落ちゆきける。余りに慌て騒いで、弓取る者は矢を知らず、矢取る者は弓を知らず、我が馬には他人乗り、他人の馬には我乗り、繋いだる馬に乗つて駆れば、首を廻ること限りなし。その辺近き宿々より、遊君遊女ども召し集め、遊び酒盛りけるが、或るひは頭蹴わられ、或るひは腰踏み折られて、
注目したいのは10/24に矢合わせとしているところです。これは吾妻鏡の
治承四年十月十八日
晩に及び黄瀬河に着御す。来二十四日を以て箭合わせの期に定めらる。
ここに合致します。ここの合致はするのですが、一方で延慶本にある10/23に頼朝は何をしていたかと言うと吾妻鏡より
10月23日 壬寅
相模の国府に着き給う。始めて勲功の賞を行わる。
さてと言うところです。
前に作った吾妻鏡の日程表を再掲します。
月日 | 吾妻鏡記録 | 解釈 | 頼朝のいた場所 |
10/16 | 鎌倉出陣 | 公式記録の可能性 | 鎌倉 |
10/17 | 松田 | 公式記録の可能性 | 松田 |
10/18 | 黄瀬川着陣 | 公式記録の可能性 | 黄瀬川 |
10/19 | 伊東祐親捕縛 | 公式記録の可能性 | 黄瀬川 |
10/20 | 平家軍退却 | 不明 | 賀島 |
10/21 | 義経面会、三島神社参拝 | 公式記録の可能性り | 黄瀬川 |
10/22 | 飯田の五郎家能引見 | 公式記録の可能性 | ? |
10/23 | 相模国府で論功褒賞 | 公式記録の可能性 | 相模国府 |
先去月十六日、着駿河国高橋宿、先是彼国目代、及有勢武勇之輩、三千余騎、寄甲斐武田城之間、皆悉被伐取了、目代以下八十余人切頸懸路頭云々、同十七日朝、自武田方以使者(相副消息)送維盛館、其状云、年来雖有見参之志、于今遂其思、幸為宣旨使有御下向、雖須参上、程遠(隔一日云々)路峻、轍難参、又渡御可有煩、伋於浮嶋原(甲斐与駿河之間廣野云々)相互行向、欲遂見参云々、忠清見之大怒、使者二人切頸了、同十八日、富士川辺構仮屋、明暁十九日、可寄攻之支度也、而之間、計官軍勢之処、彼是相並四千余騎、作平定陣議定巳了、各休息之間、官兵之方数百騎、忽以降落、向敵軍城了、無力于拘留所残之勢、僅不及一二千騎、武田方四万騎云々、依不可及敵対○以引退、是則忠清之謀略也、於維盛者、敢無可引退之心云々、而忠清立次第之理再三教訓、士卒之輩、多以同之、伋不能黙止、自赴京洛以来、軍兵之気力、併以衰損、適所残之輩、過半逐電、凡事之次第非直也事云々、
ここに記載されている日程を表にします。
この後に脱走者が続出して退却となるのですが、いつ退却したかは書かれていません。脱走者が続出したのは10/18の「作平定陣議定巳了、各休息之間」となっていますから夜の可能性は強いと推測されます。本当にそうだったのかは置いといても翌10/19も平家軍が富士川の陣地にいたのは確実でしょう。私が気になるのは何故に10/20まで居たのかになります。つまり-
平家軍の退却は10月19日の夜でもエエんじゃなかろうか
吾妻鏡の編集者は現実問題として頼朝を黄瀬川から強引でも移動させるにはこの日しかないので、平家軍退却を10/20に設定したぐらいでしょうか。だって10/19は伊東祐親捕縛の記事が動かしようがなかったからぐらいの理由です。
10/20の吾妻鏡をもう一度引用しておくと、
10月20日 己亥
武衛駿河の国賀島に到らしめ給う。また左少将惟盛・薩摩の守忠度・参河の守知度等、富士河の西岸に陣す。而るに半更に及び、武田の太郎信義兵略を廻らし、潛かに件の陣の後面を襲うの処、富士沼に集う所の水鳥等群立ち、その羽音偏に軍勢の粧いを成す。これに依って平氏等驚騒す。爰に次将上総の介忠清等相談して云く、東国の士卒悉く前の武衛に属く。吾等なまじいに洛陽を出て、中途に於いてはすでに圍みを遁れ難し。速やかに帰洛せしめ、謀りを外に構うべしと。羽林已下その詞に任せ、天曙を待たず、俄に以て帰洛しをはんぬ。時に飯田の五郎家義・同子息太郎等、渡河し平氏の従軍を追奔するの間、伊勢の国の住人伊藤武者次郎返し合わせ相戦う。飯田の太郎忽ち射取らる。家義また伊籐を討つと。印東の次郎常義は鮫島に於いて誅せらると。
あ、あ、あ。えらいもの見つけました。
ここに飯田の五郎家義・同子息太郎等が登場します。この人物はもう一度吾妻鏡に登場します。10月22日 辛丑
飯田の五郎家能、平氏の家人伊藤武者次郎の首を持参す。合戦の次第並びに子息太郎討ち死にの由を申す。昨日御神拝の事に依って、故に不参の由と。武衛家義に感じ仰せられて云く、本朝無双の勇士なり。石橋に於いて景親に相伴いながら、景親に戦い遁し奉るか。今またこの勲功を竭す。末代此の如き類有るべからずてえり。諸人異心無しと。
これはどう読んでも、
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飯田の五郎家義 = 飯田の五郎家能
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合戦の次第並びに子息太郎討ち死にの由を申す。昨日御神拝の事に依って、故に不参の由と
そう考えると「合戦の次第」とは富士川の合戦そのものだった可能性が出て来ます。言ったら悪いですが頼朝の知らないところで甲斐源氏と平家の合戦があり、そこでの合戦の様子を初めて耳にしたかもしれないぐらいです。知らないは言い過ぎなので、合戦の具体的内容を初めて聞いたぐらいの可能性はありそうです。この仮説で問題になるのは何故に飯田の五郎が武田ではなく頼朝に手柄報告に行ったかです。これが難しいのですが、飯田の五郎は石橋山で吾妻鏡より、
- 景親が士卒の中、飯田の五郎家義志を武衛に通じ奉るに依って、馳参せんと擬すと雖も、景親が従軍道路に列なるの間、意ならず彼の陣に在り。
- その後家義御跡を尋ね奉り参上す。武衛の念珠を持参する所なり。これ今暁合戦の時、路頭に落せしめ給う。日来持ち給うの間、狩倉の辺に於いて、相模の国の輩多く以て見奉るの御念珠なり。仍って周章し給うの処、家義これを求め出す。御感再三に及ぶ。而るに家義御共に候すべきの由を申す。(飯田の五郎 = 家義)
ごく簡単には石橋山の敗戦の中で頼朝に寝返ったことになります。問題はその後でおそらく安房には同行していない可能性が強いと考えられます。石橋山の敗戦の後に甲斐に逃げた武者も少なからずいたはずですから、飯田の五郎もそうだったんじゃなかろうかと推測します。甲斐には北条時政も行っていますが、立場的に武田軍の一員としてではなく頼朝軍からの参加として富士川の合戦に参加したぐらいの見方です。だから黄瀬川の頼朝に手柄を報告しに行ったぐらいと力業ですが解釈します。褒美は自分の主人にもらうものですし、頼朝に認められないと相模の自分の所領を取り戻せないのもあります。
先ほど平家軍退却10/19説を出しましたが、10/20に飯田の五郎が挙げた首を10/21に黄瀬川に持って行くのは・・・可能やなぁ。