山木判官重隆

マイナーな方ですがちょっとした歴史好きなら、頼朝が伊豆で挙兵した時に真っ先に血祭りに挙げられた人物であることを知っている人は多いと思います。この方にまつわる趣味のムックです。


出自

本姓は平重隆ですから平氏の一族ですが、その出自には2つの説があるようです。

  1. 平維衡の末裔
  2. 大掾氏の庶流
どっちなんだろうと言うところです。とりあえず平維衡の末裔の根拠は吾妻鏡にあるとなっていますが、吾妻鏡には、

散位平の兼隆(前の廷尉、山木判官と号す)は、伊豆の国の流人なり。父和泉の守信兼が訴えに依って、当国山木郷に配す。

私が読んだ吾妻鏡にはこの程度の記述しかありませんでした。これでわかるのは父が信兼であり和泉守であったぐらいです。それと兼隆が伊豆の山木郷に配流されたのは治承3年(1179年)であるのはどうも根拠資料があるようです。信兼なんて重隆よりマイナーな人物ですが、

  1. 治承2年から治承3年12月まで和泉守であった
  2. 治承4年は出羽守であったらしい
  3. 治承5年(1181年)には再び和泉守であったの記録がある(玉葉
  4. 元暦元年(寿永3年、1184年)まで和泉守の記録がある(玉葉
ここでなんですが信兼は平氏の家人であったの記録(院政期知行国制についての一考察)もあるようです。もっとわかりにくいのは竹村紘一氏の論文 不運の人・山木判官平兼隆に、

兼隆は左衛門尉から検非違使と進み、和泉守にも補任されて父に次ぐ栄達をした

兼隆は検非違使まで進んでいたので判官の呼称があったのは吾妻鏡でも確認できますが、重隆もまた和泉守だった「???」って話になります。この和泉守ですが、信兼の父の盛兼も和泉守であったとwikipediaに記録されています。武村氏には悪いのですが、重隆が和泉守であったかどうかは保留にさせて頂きますが、重隆の一族が和泉に勢力を持っていたんじゃないかぐらいは言えそうな気がします。ここで

    盛兼 − 信兼 − 兼隆
ここまでは確からしいのですが、問題はその先で、さらに盛兼の父が兼衡であるのも維衡子孫説でも、大掾氏庶流説でも一致しているようです。問題は兼衡の父が誰であるかです。
    維衡子孫説・・・貞季 − 兼季
    大掾氏庶流説・・・兼忠 − 兼衡
このうち兼忠は今昔物語にも登場する実在の人物です。また兼忠の子である維茂も余五将軍として存在の明らかな人物です。一方の貞季・兼季は完全に無名の人物です。カギは貞盛にありそうな気がします。貞盛は一族の子を大量に養子に取っています。たとえば兼忠の子である余五将軍維茂も養子にしたのは事実です。兼衡もまたそうであった可能性はあります。貞盛は父以来の地盤である常陸を弟の繁盛に譲り伊勢に本拠を置いたぐらいに理解しても良い気がします。その時に兼衡も伊勢について行った可能性です。煩雑なので系図を示します。

ちょっと注釈ですが、貞盛の弟の繁盛の家系が大掾氏であると見たら良いと思います。それと余五将軍と呼ばれた維茂は繁盛の子である説と兼忠の子である説の2つがあります。どうも兼忠の子である説の方が有力だと思うのですが、判然としない部分があるので両方書いています。系図上に2人の維茂がいますが、これは同一人物です。

兼衡の出自は大掾氏ですが養父が貞盛であったので伊勢平氏維衡の末裔と、頼朝というか、吾妻鏡の記録者は解釈していたのかもしれません。兼隆の一族は和泉守に縁があり和泉にも勢力を持つ可能性があるとしましたが、重隆の父である信兼の本拠は伊勢の鈴鹿郡関(刃物で有名なところ)にあります。信兼は平家都落ちの後も伊勢に留まり三日平氏の乱を主導した人物の一人ですから、伊勢には古くから土着していたしてとして良い気がします。ただ平家一門の中では伊勢平氏であっても大掾氏の庶流にしてもかなり末流であったぐらいでしょうか。だから家人説も出ていたのだと思います。


伊豆と頼政

源三位頼政と伊豆の関わりですが、頼政は伊豆守をwikipediaより、

改元して平治元年12月10日:伊豆守を兼任(退任時期は不詳)。

伊豆守については頼政以前の国司の在任記録が結構残っているようで、wikipediaより一部抜粋しますが、

伊豆守 就任 退任
藤原信方 1148.1.28 1151
藤原経房 1151.7.24 1158.11.26
平義範 1158.11.26 不明
源頼政 1159.12.10 不明
頼政着任の10年前からの記録はつながっていますから、これ以前に頼政が伊豆守であった可能性はないとして良さそうです。この平治元年(1159年)は言うまでもなく平治の乱の起こった年であり、1160年には捕まった頼朝が命を許されて伊豆に流されています。国司の任期は4年ですから、この時に伊豆に国司として頼政がいたのは確からしいです。なぜに頼朝の配流先が隠岐の島だとか、鬼界が島ではなく父義朝の根拠地である相模に隣接する伊豆であり、その国司が流れが違うとは言え源氏の流れを汲む頼政であったかは様々に説があるようですが割愛します。

頼政が頼朝の配流当時に国司であったとしても、永遠に国司であり続ける事は不可能です。国司は再任8年が原則としては最長です。wikipediaにも頼政国司辞任時期については不明としています。ただ一方で頼政以後の伊豆国司の記録が突然曖昧となっています。つうか頼政の子である仲綱とだけ書いてあります。そうなると「いつ」頼政が伊豆の知行主になったかになります。なっかなか判明しなかったのですが、玉葉に承安2年(1172年)に頼政は伊豆の知行主になった記録があるそうです。玉葉の原文を確認すると承安二年7月9日のところに、

九日(丙子)、或者語云、伊豆国異形者出来云々、国司頼政朝臣知行国也)、注進子細

これは素直に読むと伊豆の知行国主が頼政である事を記述しているだけで、頼政知行国主に任命された記述ではありません。そうなると1172年より前に知行国主になっている可能性も出て来ます。頼政の来歴を確認すると1171年に正四位下になっています。もう少し前後の経歴をwikipediaから引用すると、

  • 平治元年12月10日:伊豆守を兼任(退任時期は不詳)。
  • 仁安元年(1166年)10月21日:正五位下に昇叙。兵庫頭去る。
  • 仁安2年(1167年)1月30日:従四位下に昇叙。
  • 仁安3年(1168年)11月20日従四位上に昇叙。
  • 嘉応2年(1170年)1月14日:右京権大夫に任官。
  • 承安元年(1171年)12月9日:正四位下に昇叙。右京権大夫如元。
  • 承安3年(1173年)1月19日:備後権守を兼任。

国司の任期は4年が原則で再任でも8年が上限だそうです。頼政が1159年から8年の任期であったとして1167年になります。この年に従四位下になっているので知行国主になったか、1171年に正四位下になった時に知行国主になったぐらいは想像されるところです。それと頼政は治承2年に従三位になりましたが治承3年には家督を嫡子の仲綱に譲っています。この時に知行国主の座も仲綱に譲ったとの話もありましたが、そうなれな治承4年の国司は誰かになりますが、私の調査力ではこれ以上は不明でした。


頼朝挙兵

治承4年の段階では伊豆は知行主が頼政国司は仲綱です。ただこの2人は6/20に宇治で戦死します。後任が知行主時忠、国司が時兼、でもって目代知行国主の現地代理人)は現地から抜擢されて重隆です。重隆にすれば治承3年に伊豆に配流されてから1年ぐらいで、復活のチャンスをつかんだってところでしょうか。しかし頼朝の山木館襲撃は8/17で、たった2か月の夢に終わってしまった事になります。この日は三島神社のお祭りであったようで、重隆の家来も多数参拝に出かけ警備も手薄だったとされます。「だから」頼朝は襲撃の日に選んだのですが、日本史に討ち取られる事だけで名を遺したことになります。

それだけのお話ですが、吾妻鏡にある

漸く年序を歴るの後、平相国禅閤の権を仮り、威を郡郷に燿かす。これ本より平家一流の氏族たるに依ってなり。然る間、且つは国敵として、且つは私の意趣を挿ましめ給うが故、先ず試みに兼隆を誅せらるべきなり。

まあ知行国主の出先である目代を討ち取る必要が頼朝旗揚げには必要であったのは理解しますが、ここまで暴慢な人物であったかどうかは不明とさせていただきます。まあ以仁王令旨と頼政挙兵は頼朝への待遇変化を意味していますから、就任早々から頼朝に好意を持っていなかったであろうぐらいにしておきます。最後に関連年表を作っておきます。

西暦 月日 事柄 頼朝 頼政 重隆
1159年 平治の乱 * 伊豆守 *
1160年 * 伊豆配流 * *
1172年 * * 伊豆知行国 *
1179年 治承三年の政変 * * 山木郷に配流
1180年 6/20 * * 宇治で戦死 伊豆目代
8/17 * 山木館襲撃 * 戦死