富士川の合戦・これで結論に・・・したい

調べるからにはそこまで必要かと思うと「ワクワク」します。問題は当時の地理なんですが、ムックの大前提は、

    当時の富士川がどうなっていたかは不明である
ですので傍証を積み上げてになりますが、傍証さえも伝承・伝聞の類が多いので適当に取捨選択しながらやっていると思って下さい。


東海道の推理・柏原駅

これは私の手抜きでしたが、古東海道は江戸期の東海道と較べると山際を通っていると私は考えていました。浜よりは湿原地帯が広がっており、そんなところに街道は作らんだろうの考え方です。しかしそうでもなかったと考える方が良さそうです。古代の街道を考える時に駅家の位置は参考になります。駿河の駅家として記録に残されているのは、

    小川 → 横田 → 息津 → 蒲原 → 柏原 → 長倉 → 横走
こうなります。蒲原駅の比定は今と同じで良いとして次の柏原駅の位置が問題です。まず富士市立博物館の市内の遺跡の地図を御覧ください。

丸数字23が柏原遺跡です。そう柏原駅家は浜より、江戸期の東海道沿いであったと見て良さそうです。さらに明治期の柏原近辺の地図を確認すると、

柏原の北側に須津沼が広がっています。これは治承4年時点、さらにもっと古代ではさらに大きかったと推測できますから、古東海道は須津沼の南を通っていたと類推されます。山側の街道は根方街道とも呼ばれていますが、これもまた治承4年当時にもあった可能性があります。理由としては見ればお判りの通り山側に遺跡が多く見られるからです。ここから推測すると、古代のこの辺は基本的に湖沼地帯であり、その名残が沼津の地名として残っているぐらいで良さそうです。そうなると開拓はまず山際から自然発生的に行われ、律令政府が街道整備を行った時は海際に東海道を設置したぐらいを想像します。古代の道は駅路と伝路がありwikipediaより

    駅路:駅路は、重要な情報をいち早く中央−地方の間で伝達することを主目的としていたため、路線は直線的な形状を示し、旧来の集落・拠点とは無関係に路線が通り、道路幅も 9 - 12 m
    伝路:伝路は旧来の地域拠点である郡家間を結ぶ地域道路としての性格が強い。伝路は以前からの自然発生的なルートなどが改良されて、整備されたと見られており、道路幅が 6 m 前後であることが多い。
根方街道は古代からの集落を結ぶ伝路であり、東海道は駅路であると考えれば良い気がします。当然ですが駅路である東海道の方が幅も広く直線的で、移動速度も速い事になります。問題は柏原駅から西に東海道がどう走っていたかです。当然ですが次の駅家である蒲原駅に向かっていたはずですが、柏原駅から西に向かうと浮島沼に当たります。浮島沼は須津沼と違い富士川東流の河口部にあたるため、海に口を広げていたはずです。そこに東海道を通すのは無理と判断して浮島沼の北方を迂回するルートが設置されたと考えるのが自然です。


東海道の推理・吉原宿

吉原宿は海の東海道によると

吉原宿は、初め見付宿(1200年頃)から元吉原宿(1554年頃)へ所替し、さらに元吉原宿から中吉原宿(1599年頃)へ、 また中吉原宿から新吉原宿(1681年)へと三度び所替えしている。

もし治承4年当時に存在していたとすれば見附宿になるのですが、この文章には続きがあって、

鎌倉時代の初期、湊の東岸に「見附」を構えたのは、今までの根方道や 十里木道を利用するよりも「見附」を通って海岸を進み、 沼津三枚橋を経て箱根に通じる道の方が近くもあり、戦略上も必要であったので、政策として吉原湊を利用させ「見附」を通行させたと思われる。

十里木道が難解だったのですが、十里木とは愛鷹山と富士山の間に広がる高原地帯の事を指すようで、十里木道とは現在地図で言えば県道24号線から国道469号線を通って御殿場に抜ける街道ぐらいに当たるとして良さそうです。県道24号線は現在の吉原町あたりにもなり、根方街道とも合流します。海の東海道の記述は重要で

  • 鎌倉時代の初期は東海道より東に進むのに根方街道や十里木道の方がメインとして利用されていた
  • これを東海道利用にさせるために吉原湊の東岸に見附を設置した
海の東海道静岡県建築士会が編集したものですから、これには根拠があったと見るしかありません。ここの解釈なんですが、吉原宿の起こりが見附宿であり、それが1200年頃に始まったのであれば、それ以前はなかった事になります。ついでに言うなら吉原湊が起こったのもこの時期になり、それまではせいぜい漁村があった程度と考えるしかありません。富士川の合戦当時(治承4年)で考えると吉原宿は影も形もなかった事になります。

こんな結論で良いのか疑問は残りますが、他に根拠がないのでここでは「とりあえず」そうさせて頂きます。


東海道の推理・では!

岩淵から富士川を渡るルートは律令時代から古東海道正規ルートとしてあったで良いと見ます。そうなると古東海道柏原駅から岩淵に向って進んでいたと想定されます。ただ渡河は富士川に対して直角の最短ルートであるはずなので、岩淵から直線で結んだ対岸あたりになるのが妥当です。ここでなんですが、岩淵は地形的に水害があっても位置に大きな変動はないと判断して良いと思いますが、東岸の渡河地点は水害の影響もあって変動があったとして良いかと思います。

また江戸期の東海道は現在の東海道本線吉原駅に進んだ後に北西方向に転じています。この海岸線沿いのルートは鎌倉幕府が見附宿の利用促進のために浦方道として設けたとの記録(どこだか忘れました)があり、その名残ではないかと推測されます。そうなれば古東海道柏原駅からもっと直線的に進んでいたはずです。それと東海道は古代のハイ・ウェイに喩えられますが、他の道も東海道への合流は意識して作られていたはずです。ここまでの情報を地図に落とすと、

地図を見ればわかりやすいのですが、中道往還にしろ、根方街道にしろ、十里木道にしろ、岩淵から東に伸びるはずの古東海道富士川渡河ルートにしろ、明治期の吉原町、もしくは島田村あたりに集まって来ます。古い東海道もまた柏原駅からそこを目指していたとするのが妥当だと考えられます。では現在の富士市吉原町が合流点と判断して良いかですが、ここには人為的な道の変遷が確実にあります。上記したように吉原宿は

    見附宿 → 元吉原宿 → 中吉原宿 → 新吉原宿
ごく簡単には段々に北上しています。吉原宿は重要な宿場だったので、宿場が移動するのに伴い街道も変わっていったと考えるのが妥当でしょう。私が煮詰められるのはこの程度になります。


これで結論でエエんじゃなかろうか

黄瀬川から富士川への進路ですが、常識的には東海道を西に進んで来たと考えたいところです。ここで立ちはだかるのは海の東海道にある、

鎌倉時代の初期、湊の東岸に「見附」を構えたのは、今までの根方道や 十里木道を利用するよりも「見附」を通って海岸を進み、 沼津三枚橋を経て箱根に通じる道の方が近くもあり、戦略上も必要であったので、政策として吉原湊を利用させ「見附」を通行させたと思われる。

ここを素直に取ると頼朝は東海道ではなく根方街道を進んで来た可能性の方が高くなります。しかしどう考えても道としては質が落ちます。ですからここの解釈は少し変えても良いかと思います。話に根方街道や十里木道を絡ませるからややこしくなるのであって、鎌倉幕府が見附宿を置き東海道を曲げたのは吉原湊の有効利用のためとした方が良い気がします。街道を通すぐらいですから、吉原湊はそれまでも、ソコソコの繁栄があったぐらいの考え方です。ここで見附宿を置く時に吉原湊の位置を他の場所から東岸に置き換えたはあり得ると思います。まあ黄瀬川からなら根方街道でも東海道でも選べるので、根方街道説も残るぐらいにしておきます。

もう一つの難点は賀島の比定です。本当に平家越史跡のなのかです。平家越史跡なら当時の富士川東流は私の推測図よりもっと東寄りの現在の和田川あたりを流れていた事になります。そうであった可能性は誰も否定できないのですが、そうなると当時の流れはこんな感じであった可能性があります。

平家越史跡は岩淵のちょうど対岸あたりになり、ここに古東海道が走っていても不思議とは言えません。つまり頼朝は富士川の渡しの対岸に陣を構えた事になります。その対岸に平家軍を押し寄せ対峙したぐらいです。平家物語の記述にも合致するのですが、問題は玉葉吾妻鏡になります。玉葉の記述は敗者である維盛の主張をまとめたものになるはずなので、その分を差し引く必要がありますが、

同十八日、富士川辺構仮屋、明暁十九日、可寄攻之支度也

ここはウソをつく必要のない個所と考えます。蒲原を出陣した平家軍は10/18に対岸に敵軍を見ながら陣地を設置しています。この10/18ですが吾妻鏡では

治承四年十月十八日
晩に及び黄瀬河に着御す。

頼朝軍は10/16に鎌倉を出ている訳ですから、距離と時間からして黄瀬川着陣時刻に不合理はありません。つまり平家軍が富士側対岸に見ていた敵軍は頼朝軍ではありえない事になります。頼朝は翌10/19日時点でも吾妻鏡

10月19日 戊戌

伊東の次郎祐親法師、小松羽林に属かんが為、船を伊豆の国鯉名の泊に浮べ、海上を廻らんと擬すの間、天野の籐内遠景窺かにこれを得て、生虜らしむ。今日相具し黄瀬河の御旅亭に参る。

まだ黄瀬河の御旅亭にいると記されています。玉葉にある「明暁十九日、可寄攻之支度也」なんてやろうにも、頼朝は遥か黄瀬川の御旅亭で伊東祐親への詮議をやっている事になります。そうなると平家の目の前にいるのは頼朝軍ではなく10/14に甲斐駿河国境あたりと比定される鉢田で駿河勢を打ち破った武田軍しかありえない事になります。その傍証として玉葉には平家軍の相手としては「武田軍」としか書かれず、一言も頼朝とは書かれていません。玉葉吾妻鏡の記録をまとめると

日付 玉葉 吾妻鏡
10/18 平家軍は敵と川を挟んで陣を張る 夜に黄瀬川に到着
10/19 合戦予定であったが逃亡者続出で中止 黄瀬川の御旅亭で伊東祐親の詮議
10/20 夜に退却 賀島に着く
つまり平家軍は富士川の合戦で
    武田軍しか見なかった!
これは維盛の釈明ですから逆に説得力があります。維盛は一戦も交えず退却した釈明を行っている訳で、そのためには退却した理由を強調する必要があります。至極単純には敵が圧倒的に強くて、戦術的に退却せざるを得なかったの主張です。そのために自軍の士気の低下、士気の低下による脱走者の続出、さらには相手の武田方が四万騎もいたと並べている訳です。ここに頼朝もいれば当然ですが
    そのうえ10/20になると頼朝が○万余騎も率いて出現し云々
これも強調するはずです。しかし頼朝軍の影も形も見ていない維盛は、その釈明を付け加えなかったと私は見ます。さて吾妻鏡ですが、

10月20日 己亥

武衛駿河の国賀島に到らしめ給う。また左少将惟盛・薩摩の守忠度・参河の守知度等、富士河の西岸に陣す。而るに半更に及び、武田の太郎信義兵略を廻らし、潛かに件の陣の後面を襲うの処、富士沼に集う所の水鳥等群立ち、その羽音偏に軍勢の粧いを成す。これに依って平氏等驚騒す。爰に次将上総の介忠清等相談して云く、東国の士卒悉く前の武衛に属く。吾等なまじいに洛陽を出て、中途に於いてはすでに圍みを遁れ難し。速やかに帰洛せしめ、謀りを外に構うべしと。羽林已下その詞に任せ、天曙を待たず、俄に以て帰洛しをはんぬ。時に飯田の五郎家義・同子息太郎等、渡河し平氏の従軍を追奔するの間、伊勢の国の住人伊藤武者次郎返し合わせ相戦う。飯田の太郎忽ち射取らる。家義また伊籐を討つと。印東の次郎常義は鮫島に於いて誅せらると。

有名な水鳥の個所ですが、頼朝が「賀島」というところについたのはウソではないでしょう。ただその賀島が平家越史跡かと言うと違う気がします。なにが言いたいかですが、

    平家越史跡は武田軍の本営であったが賀島ではない
これですべての謎が解ける気がします。黄瀬川から富士川まで約30kmあります。頼朝は10/19時点で頼朝は遥か黄瀬川の御旅亭で伊東祐親への詮議やっていると吾妻鏡に明記されていますから、富士川に向ったのは10/20朝と考えて良い気がします。賀島の位置は特定できませんが、黄瀬川からいかほどにも進んでいない地点であった可能性は高いと思います。その傍証として吾妻鏡の10/21の記録があります。原文は長いので引用は省略しますが、頼朝は10/21のうちに
  1. 黄瀬川で義経と再開
  2. 三島神社に参拝し神領寄進
もし富士川まで進んでいたのなら、こんな芸当は不可能と思われます。ついでに言うなら10/23には相模国府に戻り論功行賞をやっています。これって下手すりゃ頼朝は黄瀬川から動いていない可能性すらあります。どうも吾妻鏡に振り回されていたんじゃないかと素直に思っていますし、平家物語もそうです。平家物語吾妻鏡のストーリーは
  1. 富士川の合戦を頼朝の勝利記録にしたい
  2. 武田は最初から頼朝の臣下に位置付けたい
この命題のために10/14の鉢田の合戦を記録する一方で10/18夜に武田を黄瀬川に合流させます。合流した上で10/20に富士川に進出させ水鳥勝利の記録を捏ね挙げたぐらいでしょうか。まさか玉葉なんて記録が別系統で残っているとは夢にも思わなかったのかもしれません。富士川の合戦の真相は、
  1. 10/14に鉢田合戦を勝った武田軍が中道往還を南下
  2. その間に挑戦状を送る
  3. 10/18には富士川東流の平家越史跡あたりで川を挟んで対陣
  4. 10/20平家軍退却
武田軍しか富士川にいないのであれば話は簡単になります。別に平家は東海道下街道なんて想定しなくても上街道でも下街道でも使って、とにかく平家越史跡にいる武田軍に向って進めば良いだけです。そこから平家軍は対陣3日目に退却しただけですから、武田軍と頼朝軍の緊張関係なんて妄想を膨らます必要もありません。

一方で頼朝は単に黄瀬川辺りでウロウロしていたぐらいです。いや10/19の吾妻鏡の記録を見る限り頼朝は西に進んだのではなく、むしろ南の伊豆方面の可能性も十分ありそうな気がします。それこそ北条館方面で、目的は舅の時政の領土奪還です。頼朝と武田は対平家では一致していても共同戦線を積極的に張る理由はないと思います。そういう源氏同士の敵対関係はこの後も木曽義仲の例でも明らかですからねぇ。


蛇足:三軍の移動速度

地図でまとめだして気が付いた事ですが三軍の移動距離を地図に落として見ます。

平家軍の移動速度は10/13の手越駅から10/16の高橋宿までかなりユックリ移動しています。これは道すがら募兵をやっていた関係と、高橋宿を過ぎると敵の勢力圏に入るので兵糧の調達と輸送手段(人夫とか駄馬)とかの確保をやっていたと見ます。ですから高橋宿から蒲原駅までぐらいの移動距離が1日の平均的なものじゃないかと推測します。武田軍もそんなに早いとも思えません。10/14の鉢田合戦で勝利した後に本国からの矢の補給も受けていたかもしれませんが、鉢田(ないしは伊提)から平家越史跡まで4日間ぐらいはかかっていると推測します。問題は頼朝軍で平家軍、武田軍に較べると異様に早いのが実感できると思います。ちなみに帰路もこのペースになっています。

軍勢の移動速度には

  1. 道の状態
  2. 軍勢の数
この2つの要因は絡むと考えます。頼朝軍は東海道を利用したとは思われますが、途中に足柄越の難所があります。上で平家軍の移動速度を平均的と表現しましたが、平家軍も高橋宿と蒲原駅の間に薩堆山の難所があります。武田軍の道は東海道と較べたら条件は悪そうに思います。三軍の道の条件が互角とは言いませんが、足柄越の難所を抱える頼朝軍の条件が格段に良かったとは思いにくいところがあります。そうなると平家物語で20万余騎なんて表現の頼朝軍ですが、実際のところは
    平家軍 > 武田軍 >> 頼朝軍
こうではないかと推測されます。頼朝は相模に房総や武蔵の兵を率いて入っていますが、鎌倉入りしたのは10/6の事です。たった10日間で駿河に向っていますから留守部隊を多く置いておく必要があります。また道すがら波多野氏・大庭氏の掃討を行っていますが、そこにも兵を置いておく必要はあるでしょう。まあ波多野氏攻めは10/16の出陣に先駆けて行われた可能性も残りますが、どっちにしても新占領地には駐留軍が必要ってところです。

ほいじゃ何故に黄瀬川まで陣を進めたかになりますが、やはり伊豆征服が最大の目的であったと見たいところです。舅の北条時政の領地回復と南伊豆の親平家勢力の伊東祐親掃討です。伊豆を制するだけならそんなに兵数は不要の見方も出来ます。途中で駿河を通らないといけませんが、北伊豆の安定のためには駿河の東端も抑える必要があるので、そこも合わせて勢力圏内に収めようぐらいの戦略です。

この作戦は10/19に伊東祐親の捕縛に成功した事で「ほぼ」目的を達したと見る事が可能です。10/20の賀島とは主に北伊豆の巡察、10/21は義経との対面もありますが、作戦の成功を感謝しての三島神社参拝です。でもって10/23には相模国府に早々に戻っています。どうなんでしょうか、多く見積もっても1000人程度じゃなかったかと想像しています。下手すりゃ500人ぐらいとか。いや往きが1000人程度で帰りは伊豆に守備隊を置く必要がありますから500人程度だった気もなんとなくしています。