別所則治の謎

 嘉吉の乱で滅亡した赤松氏ですが、政則の時に長禄の変に乗じて返り咲きます。政則はこれで赤松氏中興の祖ともされますが、既に応仁の乱に突入しており波乱の生涯を送ることになります。

 ここの話をシンプルにしておきますが、赤松氏は山名氏の侵攻を受けることになります。赤松軍は敗走を続け、守護である政則は堺に亡命を余儀なくされます。この亡命中に頭角を現したのが別所則治です。

 則治らの奔走により播磨に逆襲をかけ、山名軍を追い出すのに成功した論功褒章で則治は東播八郡の守護代に抜擢されます。それまで播磨守護代は宇野氏でしたが、その半分を召し上げて則治に与えたぐらいです。

 守護代になった則治は明応元年(1492)に三木城を築き、以後は、

    則定 → 就治 → 安治 → 長治
 三木合戦に至るぐらいです。ですから則治は別所氏中興の祖として称えられる事になります。


 問題は則治とは何者かです。加西の伝承では嘉吉の乱の時の遺児としています。嘉吉の乱が1441年で、則治の死が1513年ですから、たとえば嘉吉の乱の時に3歳であれば75歳で亡くなったことになり、当時としては長寿ではありますが、無理な設定とは言えません。

 ただこの年齢設定だと赤松政則の10歳ぐらい年上になります。赤松政則は長禄の変の時が3歳で、播磨奪還に成功したのが13歳の時です。政則は赤松氏奪還の旗印にはなりましたが、播磨守護復活事業で大きな働きをしたのは浦上氏や宇野氏によるものです。

 誰が見てもわかるように政治の実権は政則にはありません。政則が政治の実権を握ったのは山名氏の侵入の撃退に成功した時のはずです。だから宇野氏から東播を奪い、則治を守護代にしたはずです。

 それだけ則治が優秀だったのもあるでしょうが、政則にしたら信頼がおける人物であったはずです。その信頼を得たのがいつかになります。

 こんなもの想像ですが、則治は政則の近習みたいなものであったと考えています。山名氏の侵入の時に堺に亡命した時も、それこそ苦難を一緒に乗り越え、堺亡命時代も側近として尽力したぐらいです。

 これも想像というか妄想にちかいところはありますが、亡命時代は浦上氏や、宇野氏はいなかった可能性も考えています。だから有能であった則治は頭角を現すことが出来たはずです。

 だからと結論するのは強引ですが、則治は政則と同年輩か年下の可能性はあると考えています。いわゆる竹馬の友的な信頼関係が政則と則治にあったぐらいです。


 力業なのは百も承知ですが、政則は則治を抜擢する過程で家柄を与えた可能性を考えています。つまり嘉吉の乱で滅んでいた別所氏の名跡を継がせた可能性です。そうですね、堺亡命時代ぐらいでしょうか。

 これはたぶんですが当時の抜擢のためには重要な事で、家柄が無いと出世も出来ないからです。則治は赤松氏にすれば名門の別所の名跡を継ぐことで、後の大抜擢の布石とされたぐらいです。

 では則治が本当は何者であったかは永遠に歴史の彼方に消え、もう誰にもわからないと思います。歴史小説のネタになりそうなお話ですが、人物がマイナーすぎるので誰も手を出さないのがちょっと残念です。