金鑵城ツーリング

 イブに行ったのですがひたすら寒かった。指が冷え切って帰ってきたら真っ白でした。寒い時にツーリングなんてするものじゃないと痛感した次第です。写真も撮ったのですがイマイチ過ぎてユーチューブの【ドローン】弥生の集落から戦国の山城へ・金鑵城(兵庫県小野市)から、

 小さな中世の山城ですが、青野ヶ原台地の上にあり見晴らしはなかなかのものでしした。この城の紹介的には、

 金鑵城は、築城年代や築城にについては定かではないが、播磨守護赤松氏の家臣中村氏が城主であったとの伝承がある。

 天文8年、守護赤松晴政は中村与次郎の西河合領を別府源三郎に与えた。これ以後中村氏と別府氏とが争う地となり、天文年間に中村氏は別府氏に攻められ滅びた。

 これぐらいの説明がネットでは多いみたいですが、辛うじて名前に見覚えがあるのが赤松晴政ぐらいです。地方の小領主の攻防ですから、この程度で仕方がないとも言えますが、もうちょっと情報がないかとググってみました。すると山城攻略日記に、

赤松氏の家臣、中村景長が築城、国人中村氏の居城である。中村氏は赤松家再興と応仁の乱に活躍(「上月文書」『応仁記』)、天文年間(1532~1555)には守護赤松晴政が中村与次郎の西河合領を別府源三郎に与えた。その為、加西の別府氏と所領を争い(広峰神社文書)、後に三木城の別所氏に滅ぼされた。その後は、この城も別所氏の支城になったものと考えられる。

 ここも見知らぬ名前が出てくるばかりなのですが、とりあえず加西の別府氏はどうにもわかりませんでした。加西は三木の別所氏の勢力圏内であり、別所氏との混同も考えられますが憶測の域を出ません。一方の中村氏は鎌倉時代に武蔵から移り住んだ一族で良さそうです。波賀城と城主中村氏のことに、

中村氏は武蔵国秩父(埼玉県秩父市)中村郷が姓名の地である。鎌倉幕府御家人で武家集団である武蔵七党の一つ秩父丹党に属し、鎌倉末期の正応3年(1290)秩父より播磨国三方西荘(波賀町)に地頭として移り住んでいる『関東下知状』。「中村・皆木・大河原は兄弟三人の流れ也。皆木は中村を号し、大河原は中村を号せず。」とある『蔭涼軒日録』。

 中村氏は美作にも移り住み守護代にもなっていますが、それは長くなるので置いておきます。この播磨の中村氏ですが赤松氏の有力被官でもあったようで、小野の河合にも所領を得て金鑵城を作ったぐらいで良さそうで、その時の当主か城主が中村景長だったのでしょう。

 ここで嫌でも赤松氏の興亡を触れざるを得ないのですが、嘉吉の乱で一旦は滅亡します。これが赤松政則の時に長禄の変で復活するのですが、政則も山名氏との侵攻に敗れ堺に流浪生活を余儀なくされます。

 この時に政則を支えたのが別所則治で山名氏を打ち破った後にその功績で東播磨の守護代に任じられます。以後の別所氏は東播磨に覇を唱えたぐらいの理解で良いはずです。

 以後の赤松氏も内紛と外敵に悩まされますが、赤松晴政の時に尼子氏の侵攻に苦しみます。これが天文6年(1537年)から天文9年(1540年)まで続くのですが、この時に中村氏は波賀城と城主中村氏のことより、

赤松氏は応仁・文明の乱を期に播磨を奪回した。天文11年(1541)尼子晴久の播磨侵入に際しては、赤松当主晴政は敢え無く逃亡し、播磨の大半は尼子氏に従った。この時中村三郎左衛門は尼子に与していたことが、尼子家臣から領地を与える旨の書状を所持していることからわかる。

 天文11年の尼子氏は第一次月山富田城の戦いで大内氏と死闘を繰り広げていたので記述の誤りはあると考えますが、播磨の中村氏も尼子氏に恭順していたで良さそうです。ここまで調べてやっと話が繋がるのですが案内板の、

    天文8年、守護赤松晴政は中村与次郎の西河合領を別府源三郎に与えた。
 これは尼子氏の勢力が播磨から引いた後に赤松晴政が中村氏の勢力を削るために行った施策じゃないかと考えられるわけです。別府氏は加西が本拠のようですから、別所氏に属していたか、個人的には別所氏そのものじゃないかとも考えています。

 中村氏は金鑵城だけにいたのじゃありませんが、播磨の中村氏自体はどうなったかです。これまた波賀城と城主中村氏のことより、

 天正8年(1580)羽柴秀吉の播磨侵攻による宇野攻めに中村氏は秀吉軍に与している。
 天正11年(1583)秀吉の九州攻略には中村吉宗が参加している。慶長年間(1596~1615)には姫路城主池田輝政に郷士格として仕えている。
慶安5年(1652)までの間に、二百石、百石の地侍となっている。延宝6年(1678)宍粟藩の池田恒行が死去し宍粟藩が絶えたときの引継ぎ書類の中の『宍粟江戸両所罷在人数帳』に「五十石 有賀村地侍 中村九郎左衛門」と見えるが、それ以後の動きは不明である。

 黒田官兵衛の工作により秀吉軍に味方したぐらいで良さそうです。これぐらいわかれば歴史好きとしては満足ぐらいでしょうか。


 さて城の歴史的由来も興味深いのですが、実はもっと興味深いのが城の名前です。「かなつるべ」と呼び、

    つるべ = 釣瓶
 中世の城ですから井戸からポンプで水を汲みだすのは夢物語で、時代劇とかでよく見る井戸の上から桶みたいなものを放り込み、それを綱で引っ張り上げる方式のはずです。この桶を巻き上げるのに滑車みたいなものは・・・いつ頃に出来たのかな。

 金鑵とは金属製の桶を使っていたことに由来するはずですが、金属製の桶とか樽のようなものが普及するのは明治以降だったはずです。もっとも技術的には鋳物ですから当時でも作ろうと思えば作れたはずです。

 技術的には存在していてもおかしくはないのですが、そういう金属製の釣瓶が存在していることが城の名前にまでなっていることです。城の名前にするということはなんらかの政治的意図があったはずです。

 政治的意図と言えば大仰ですが、なんらかの自慢と言うか誇示みたいなものです。ただ金属製の釣瓶の存在が城の防御力に寄与しているとは思いにくいところがあります。そうなると他に考えられるのはまず富力の誇示です。木製が一般的なのにわざわざ金属製を使ってるぐらい財力があるぐらいでしょうか。

 富の誇示説以外なら、なんらかの武勇の印みたいなものはあるかもしれません。たとえば城主の中村氏が参加した合戦での戦利品の類です。御褒美説もあるかもしれませんが、釣瓶に使っている時点で否定的で、何々の武将から奪った戦利品を金属製の桶を井戸に使っているぐらいです。

 他に無理やり考えたら何らかの霊力説もありますが、いずれにしてもその辺については資料は沈黙しています。こういうものは何か伝説めいた話の一つぐらいありそうだったのですけどねぇ。そこだけはムックとして残念でした。