刈谷城と重原城と知立神社

刈谷城が水野氏によって作られた時期の記述には少しバラツキがあります。wikipediaより

水野貞守は戦国期の水野氏の始祖に位置する人物ぐらいになり、貞守を初代とすると忠政が四代目、信元が五代目になります。系図上では、

    貞守(1487没)− 賢正(1514没)− 清忠(1509没)− 忠政(1493-1543)− 信元(1576没)
貞守が刈谷城を作ったのなら15世紀になります。一方で1533年に忠政が作ったともなっています。どうもこの二つの記録は並行して存在するようで解釈としてこういう主張を刈谷市教育委員会はされているようです。根拠はwikipediaより

禅僧・万里集九「梅花無尽蔵」に「矢作在三川、蓋水野所住刈屋城東三里」との記述を根拠に、刈谷市教育委員会刈谷市史)では、文明年間(1469年-1486年)に水野貞守により築城されたという説を主張している。

これに対して、これ以外の記録及び遺構も確認されていない点から刈谷古城の存在を疑問視する見解も強いようです。二つの説の差は割とあって

  • 貞守の刈谷古城があったのなら15世紀半ばから水野氏は三河南西部の碧海郡に進出していた
  • 忠政の刈谷城からなら1533年から碧海郡進出は始まった
大雑把に80年ぐらい差が出ます。ここで華陽院(於富の方)のエピソードとからめて見ます。華陽院は水野忠政の妻で伝通院(於大の方、家康の生母)の母(つまりは家康の祖母)なんですが、清康がその美貌を見初めて忠政と離縁させ自分の妻にした伝承が残っています。この清康と華陽院の結婚時期を推測すると、
  1. 於大の方が1528年生
  2. 清康は1535年没
  3. 清康と華陽院の間に1男1女あり
そうなると結婚期間は最低でも2年間はあった事になり、なおかつ於大の方の出生後になります。そうなると婚姻時期は1528〜1533年になります。この時期の水野氏関連のエピソードとして忠政の刈谷築城があります。もしこれがリンクしているのなら、忠政は刈谷築城とのバーターに妻の華陽院を差し出した・・・そんな事があるんだろうかってところです。ここで1533年なら婚姻時期としてギリチョンになりますが、清康の死後に華陽院が子を産んでいれば結婚期間の短縮はできますから、可能性としてゼロでないぐらいでしょうか。

華陽院が本当に清康の後妻であったかについては疑問も多いようですが、少なくともいえることは、

  1. 水野貞守は知多湾海上支配の一環として緒川城の対岸に刈谷古城を築いた
  2. 清康の三河平定時に水野氏は一度は屈している(忠政時代)
  3. 忠政は清康に屈した時に姻戚関係を結んだ(華陽院のエピソード)
  4. それでも刈谷古城は忠政の手に残り、1533年に刈谷新城を築った
こんな感じに解釈します。


重野城

ここも経歴を探すのが難しい城です。一番詳しそうな三河 重原城から引用すると、

1156年「保元の乱」の頃、重原兵衛父子〔源李貞・貞行父子か〕が荘司となって居館を構えたことに始まる。1221年「承久の乱」の後、二階堂基行〔元行〕が重原荘守護職に補任され、1240年行氏が継ぎ、1285年3代行景は「霜月騒動」で自害した。霜月騒動の論功行賞から、北条時房を先祖とする大仏宣時が入り、宗泰―貞直と鎌倉幕府滅亡まで大仏氏に受け継がれた。重原荘は時代と共に所領を広げ、16世紀末には刈谷市知立市全域と、安城市北部の一部・豊田市高岡地区まであったと云う。戦国時代前期、刈谷の水野氏により城郭整備が行われ、今川・松平勢の備えとした。1554年織田方の重原城主山岡河内守は今川勢に攻められ落城となる。現在は土塁、空堀が残り、石碑、歴史看板が立つ。

重原荘は平安時代まで遡る荘園で前にも出しましたが水土の礎様からの図です。

重原父子から始まったのか、重原父子が荘園を奪ったのかは不明ですが、西三河の北部の中心地として存在していたぐらいに解釈します。この重原荘の領主ですが

    重原氏 → 二階堂氏 → 大仏氏
こう変遷してるのはわかるとして、鎌倉幕府滅亡が1333年ですから16世紀まで途中はどうだったんだになります。なんとか見つけだしたのが、、

永正6年(1509)重原城主山岡伝兵衛によって再建された多宝塔(二重塔)。

これは知立神社に多宝塔があるのですが、これの来歴に重原城主として山岡伝兵衛(忠左衛門説もあり)が出てきます。山岡氏がいつから城主になったのかどころか、山岡氏がどういう出自の一族かの情報も見つからず、山岡伝兵衛の諱も不明です。この山岡氏はどうも続いていたようで、1554年の村木砦の合戦の時の城主が山岡河内守(この人物も諱不詳)になっています。この時に重岡城は今川軍によって攻略され、おそらく山岡一族は城を枕に全滅したと推測します。それぐらい情報が乏しい一族です。

ただこの山岡氏は土着の豪族らしき気配はあり愛知県教育文化振興会の於万の方に、

第二十九代神主貞英は、刈谷城主水野忠政の女を室とした。そして妹(系図2)を刈谷の水野信近に嫁がせる一方、弟の貞近を松平清康(家康祖父)に奉仕させている。また、重原城主であった山岡河内守(名は不詳)にもう一人の妹(系図1)を嫁がせ、その関係を図った。

第二十九代神主貞英とは知立城主永見貞英のことであり、永見氏の記録は未だしも残っており「松平 → 織田 → 今川」と支配する勢力が短期間で入れ替わる中での外交としての婚姻政策の跡が窺えるってところでしょうか。ちょっと寄り道ですが

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結城秀康は双子であったとされ、知立神社神主家として残っていた永見氏に引き取られたものの31歳で亡くなっています。家康や結城秀康との関係として愛知県教育文化振興会の於万の方に、

実父である家康から冠や太刀等の拝領も受けており、子を思う親の心情をうかがい知ることができる。さらに、慶長二(一五九七)年には、兄である秀康から蔵米として二千俵を送られている。また、秀康の越前入国に際しては、弓十張が知立神社に奉納されており、兄弟の絆を感じることができる。

こうなっています。


知立神社

池鯉鮒は知立神社の門前町として発展したとなっていますが、知立神社は遷座、つまり場所の移動があります。この移動した時期が極めて微妙で社伝はどうやらこんな感じのようです。

景行天皇の御代、日本武尊東征のおり、当地において、皇祖の神々に平定の祈願を行い、無事、その務めを果したことにより、当地に、建国の祖神を祀ったのが初め。一説には、仲哀天皇の頃とも言われているが、創建当初は、現在地の東1Kmの山町の北に鎮座していた。戦国時代に焼失したため、上重原へ遷座したが、再度焼失したため、天正元年(1573)、現在地に移ったという。

戦国時代に焼失して上重原に遷座し、さらに現在地に遷座したとなっています。この戦国時代ってのがえらく漠然としていますが、知立神社から検証してみます。まず原初の位置ですが

当初馬山町の北方高地であつた(現知立神社から東へ約1Km)

これだけのヒントでも難解だったのですが、どうも現在の地名は下馬で良さそうです。今でも下馬観音菩薩があるようですが、東へ1kmの北方高地の条件を満たします。地図でプロットしてみると、

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ここに建てられたのであれば丘の下も湿地帯であった可能性が高そうに思います。これは八橋に和歌にも詠まれた八つ橋があったとされますが、そういう湿地帯を渡るために作られたとしても不思議ないからです。原初の知立神社は明治期の地図で駒場とかかれた村のある丘の上に建っており、知立城とは離れていた事がわかります。でもって戦国時代の焼失の時期は

天文16年(1547)戸田宜光の兵火で社殿焼失

戸田宜光の父は戸田康光で、家康が駿府に人質として送られる途中に信秀に渡した人物として知られています。怒った義元は同年に戸田康光を討ち滅ぼしていますが、戸田宜光は二連木城に分家しており義元に付き生き延びています。この宜光の知立神社放火がホンマかいなってところで、時期で言えば1548年の第二次小豆坂合戦の前々年、1549年の今川氏による安祥城攻略の前年です。安祥城が信秀の手にある時期に知立神社を焼き討ち出来るのかの素直な疑問です。

このエピソードの出典がわからなかったので間違いの可能性もあるんじゃないかの仮説を立てていましたが、戸田宜光の焼き討ちを裏書するような情報が出てきました。これもまた愛知県教育文化振興会の於万の方にからですが、

原城主山岡氏は信仰心に篤かったとされ、焼失した知立神社の仮宮を重原の地に勧請したり、多宝塔を再建したりしたことが伝わっている。

多宝塔の再建は1509年に山岡伝兵衛のものを指すで良いかと思います。それと知立神社が焼失後に上重原に遷座したのも社伝にあるので事実として良いでしょう。この上重原への遷座に際し山岡氏が勧請したのなら、素直に城主は山岡河内守で良さそうな気がします。ちなみにこの仮宮も1571年に焼失し、現在地に遷座したのは1573年です。山岡氏は1554年の村木砦の合戦まで存続していましたから上重原への遷座は可能です。つまり知立神社は1554年までに焼失しているので、1547年に戸田宜光が焼き討ちしていても矛盾がないことがわかります。


後は余談ですが、1509年に再建された多宝塔を愛知県の塔から引用します。

神社に多宝塔があるのは神仏混淆のためで、社伝では850年に円仁が神宮寺を境内に建てた時に作られたとなっています。この境内は最初の知立神社境内に建てられたはずで、1509年の再建時も同様のはずです。そうなるとこの多宝塔は1547年の戸田宜光の焼き討ちを免れたことになります。そりゃ免れていなかったら現存していません。少し興味をもったのはその後です。知立神社は焼き討ち後に上重原に遷座し、さらに1573年に現在地に遷座しています。多宝塔は現在の知立神社の境内に現存しますから、どこかで移築したはずです。

そう思って調べていたのですが、移築のエピソードは書かれていませんでした。まあ書くほどの事ではないと判断されたのかもしれませんが・・・ここから先の妄想はやめておきます。