日曜閑話77

今日も古代史の知識整理です。かなりディープな話題ですが、ここのところ熱中している息長氏から話を広げていきます。他のお話を予定していましたが急遽変更です。


息長氏と継体天皇の関わり

まずはwikipediaです。

記紀』によると応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王を祖とす。また、山津照神社の伝によれば国常立命を祖神とする。皇室との関わりを語る説話が多い。姓(かばね)は公(または君、きみ)。同族に三国公(のち、三国真人)・坂田公(のち、坂田真人)・酒人公(のち、酒人真人)などがある。

息長氏の根拠地は美濃・越への交通の要地であり、天野川河口にある朝妻津により大津・琵琶湖北岸の塩津とも繋がる。また、息長古墳群を擁し相当の力をもった豪族であった事が伺える。但し文献的に記述が少なく謎の氏族とも言われる。

なにが嬉しいって「謎の氏族」である事です。息長氏は近江坂田郡に勢力を持っていたようです。もう少し細かく言うと現在の米原市に流れる天野川流域にまず勢力を広げ、次に長浜を流れる姉川流域に広がっていただろうとされています。天野川は別名息長川とも呼ばれるそうです。この地方には4世紀から5世紀末に築かれた坂田古墳群と、5世紀末から6世紀に築かれた息長古墳群が存在します。坂田古墳群には10基以上の前方後円墳、息長古墳群には4基の前方後円墳が確認されています。この地域は渡来人の居住地だったともされ、天日槍が足跡を残したとの伝承も残されているそうです。

記紀との関わりはまさに神話の世界で、たとえば神功皇后の父親が息長宿祢であり神功皇后は書紀では気長足姫尊、古事記では息長帯比売命となっています。書紀と古事記では記述に相違部分があるのですが、古事記の息長氏の始祖系図塚口義信氏による茅渟王伝考から引用すると、

倭建命が出てくるところで幻暈がしそうになりますが、その息子の息長田別王の孫娘が応神天皇嫁ぎ、そこで生まれた若沼毛二俣王の娘である大朗子(意富富杼王)が息長氏の始祖とされています。ついでに言うと意富富杼王の妹である忍坂之大中津比売命と藤原之琴節朗女が允恭紀にある弟姫説話に登場します。どこまでが史実かなんて検証しようもないお話ですが、それぐらい古い氏族であり、その事を記紀編纂の時代にもしっかり伝承されていた事だけはわかります。

神功皇后応神天皇允恭天皇の後に息長氏は再び記紀に登場します。敏達天皇の后は息長真手王の娘の広姫です。広姫は第1皇子の押坂彦人大兄皇子を産んでいます。その押坂彦人大兄皇子の子どもが舒明、皇極、孝徳となり、皇極と舒明の子が天智、天武と記紀ではなるわけです。ではでは押坂彦人大兄皇子の子が息長氏をどれだけ意識していたかですが舒明の和風諡号に現れています。

    息長足日広額
この和風諡号記紀編纂時に付けられた可能性も強いですが、逆にもしそうなら息長の名前を舒明にどうしても残したかったの意思表示とも受け取れます。息長氏は古代史のキーワードの一つの気もします。息長氏と皇室のつながりは記紀万世一系説確立のためにはプラスのキーワードであったぐらいの解釈です。


息長氏は大雑把に言うと北近江に地盤をもっていたぐらいの理解で良いかと思います。地理的に若狭、越前に近く、そちらにも影響力を持っていたとしてもおかしくありません。さらに琵琶湖の北端に面していますから、wikipediaにもあるように琵琶湖の水上交通に大きな影響力を持っていると考えて良いでしょう。それと注目してよいのは伝承であっても応神天皇の孫を始祖に持っているいる事です。つまり継体天皇との関わりです。これについてはwikipediaにありました。

上宮記逸文の文章系譜によれば、中斯知命(なかしちのみこと)を妃として乎非王(おいのおおきみ)を儲け、その孫が男大迹王(袁本杼王)すなわち継体天皇とされる。

系図の方を引用します。

これも真偽が疑われるところです。本当かもしれませんし、継体が応神天皇五世の孫であり、さらに息長氏が神功皇后にも遡るほど大王家に関係の深い家である事の創作かもしれません。ここは真偽よりも継体が河内進出にあたり息長氏の支援を受けていた傍証と受け取りたいところです。継体の出身は越前説と近江説がありますが、北近江に位置し、琵琶湖の水上交通を支配していた可能性のある息長氏の協力無しに河内に出兵など無理だろうからです。つうか、もっとストレートに息長氏の当主そのものであったと考えても良い気もしています。


息長氏と大和の関わり

押坂彦人大兄皇子の「押坂」は地名由来とされています。この「押坂」ないし「忍坂」も一つのキーワードです。允恭説話に出てくる忍坂之大中津比売命(忍坂大中姫)は允恭天皇の后です。ここにも忍坂が出てきます。舒明天皇陵の延喜式の呼称は押坂内陵です。ここにも「押坂」が出てきます。押坂彦人大兄皇子も最初からこの呼び名でなかった可能性を考えています。記紀では敏達天皇の皇后の第1皇子で皇位を狙っていたが蘇我系の台頭のために失脚したぐらいの表現になっています。wikipediaからですが、

蘇我氏の血を引かない敏達王統の最有力者であって、忍坂部(刑部氏)・丸子部などの独立した財政基盤を有し、王都を離れて水派宮(みまたのみや、奈良県河合町か)を営んでいた。

忍坂部(刑部氏)は記紀的に興味深いもので、記紀では刑部を忍坂大中姫のために設けたとなっています。江戸期風に言えば御妃様の化粧料ぐらいでしょうか。忍坂は現在の桜井市忍阪と比定されていますが、水派宮はwikipediaでは奈良県河合町としていますが、他の研究では奈良県広陵町と比定している物もあります。つまり忍坂とは距離的に離れています。押坂彦人大兄皇子のエピソードとして中臣勝海の話があります。

敏達天皇14年(585年)3月、物部守屋と共に、疫病流行の原因が蘇我氏の仏教信仰のせいであると奏上。用明天皇2年(587年)4月、天皇が病床で仏教に帰依する旨を詔し、群臣にこのことを協議するように命じた際にも、守屋と共に詔に反対している。その後、守屋の挙兵に呼応して、自宅に兵を集め、押坂彦人大兄皇子の像と竹田皇子の像を作り呪詛するが、反乱計画の不成功を知って彦人大兄に帰服。皇子の宮に行ったが、宮門を出たところで迹見赤檮に殺された。

崇仏論、廃仏論に関するエピソードで用明紀にあるお話です。原文を上手く訳してあるの引用したのですが、用明紀の押坂彦人大兄皇子の表現は微妙に違います。

押坂彦人大兄皇子となっておらず、また「太子」と表現されています。あくまでも想像ですが、この騒ぎの時には押坂彦人大兄皇子は水派宮にいたのでしょうが、この後に蘇我馬子物部守屋の決戦に時代は動きますから、余波を怖れて忍坂に移ったんじゃなかろうかと考えています。忍坂は母方の広姫(息長真手王の娘)にも縁のある地で、そこの息長氏に庇護を頼んだぐらいです。つまり水派宮から忍坂に居住地を替えたので、後世になり「押坂」彦人大兄皇子と呼ぶようになったぐらいです。当然ですが押坂彦人大兄皇子の子である舒明(田村皇子)も幼少時代は忍坂で過ごした事になり、蘇我氏全盛になっていく世の中で自分が息長氏系の皇族である事を強く意識した事は考えられます。つうか記紀編纂時には和風諡号に用いるぐらい意識されています。


息長氏と河内の関わり

これがまた微妙すぎるお話で力業の塊になります。ここまでのお話の知識もかなり借用しているのですが、塚口義信氏による茅渟王伝考から考えます。允恭紀の弟姫伝説から始まるのですが、姉の忍坂大中姫が皇后になっているのに、その妹(弟姫)も宮中に召される事になり、弟姫は非常に難色を示します。スッタモンダの末に、弟姫は姉と離れたところに茅渟宮を築き、そこに允恭天皇が通うぐらいのお話と思ってもられば良いかと思います。この茅渟宮が河内にあったと伝承されています。

これは允恭紀のお話なんですが、押坂彦人大兄皇子の子孫は後世的に言うと2系統に分かれます。

  • 糠手姫皇女
  • 大俣王
糠手姫皇女は敏達の娘(押坂彦人大兄皇子の異母兄妹)なんですが、大俣王は漢王の妹ってだけで誰かがサッパリわからない女性です。格としては糠手姫皇女がバリバリの正室で、大俣王は側室って感じなんでしょうか。糠手姫皇女の息子は田村皇子であり、田村皇子は押坂彦人大兄皇子とともに忍坂で暮らしていたぐらいで良い気がします。もう1人の大俣王ですが茅渟王を産みます。本当に名前だけのつながりなんですが、この茅渟王茅渟宮に住んでいたから茅渟王と呼ばれたんじゃなかろうかです。

強引なんですが傍証だけはあります。茅渟王の子で後世に名を残しているのは宝女王(皇極、斉明)と軽王(孝徳)です。このうち軽王は乙巳の変後に皇位に就きますが、都を何故か難波に遷します。非常に唐突な印象が前からあったのですが、父である茅渟王が河内の茅渟宮に住んでいたのなら、そこに孝徳を支持し盛り立ててくれる勢力基盤があったからだと見る事が出来るからです。この辺をもう少し穿って考えると、押坂彦人大兄皇子が水派宮から忍坂に移る時に、大俣王は茅渟宮に移ったんじゃなかろうかです。つまり大俣王の実家が茅渟宮付近にあったんじゃないかです。

そこまで想像の翼を広げれば、允恭紀の茅渟宮伝説は実在し、当時から息長氏が勢力を持っていた可能性です。そうなると記紀に素っ気なく書いてある漢王も息長氏系列の可能性が出てくると言うところです。もう少し言えば継体に従って近江から息長氏の一族が河内まで遠征していたのであれば、忍坂以外にも居住地を与えられていても不思議ないと考えるからです。

もっともこれは相当な力業の解釈で、大俣王の兄漢王と茅渟宮は関係があっても、息長氏と茅渟宮は無関係かもしれません。つうのも、そう考える方が後の歴史が説明しやすくなります。


この人物が蘇我大王ロマンを求める者にとっては大問題です。私のこれまでの仮説は「馬子 = 推古」です。「馬子 = 推古 = 聖徳」まで広げていますが、とにかく「馬子 = 推古」です。これには幾つか傍証があります。

  1. 推古即位、聖徳台頭後に馬子の活動記録が目に見えて記紀から減る
  2. 隋書倭国伝にある男性大王名、后の存在
  3. 馬子の死亡と推古の死亡時期の近さ
ほいでは「蝦夷 = 舒明」にストレートになるかと言えば、そうは簡単に問屋が卸してくれません。舒明と蝦夷の死亡時期こそ近いものの推古時代と異なり蝦夷大臣は活躍しているからです。ではでは田村皇子が本当に舒明であるかどうかと言われると記紀だけでも疑問点がテンコモリあります。記紀的には推古後継の時に蝦夷聖徳太子の息子の山背大兄皇子を推したが、蘇我臭が強い事で議論が紛糾し、蝦夷の裁定で非蘇我系の田村皇子が選ばれたとなっています。いやぁ、蝦夷大臣はなかなか出来ているってところです。

ただ微妙な綾が記紀でもありまして、田村皇子は非蘇我系ではありますが、馬子の娘の法提郎女を夫人に迎えています。その辺のつながりで蝦夷が妥協したとの推測もあるにはあります。もし蝦夷がその点を重視していたのであれば期待するのは法提郎女が皇后になり、さらには皇位継承者を産んでくれる事になります。舒明自身は非蘇我系でも。舒明の子孫を蘇我系に取り込む算段です。ところが舒明の即位の翌年に皇后に立てられたのは宝女王。宝女王は上述しましたが、舒明の異母弟の茅渟王の娘です。こんな事が果たして成立するのだろうかです。

舒明と宝女王の結婚も非常に微妙なものがあります。とりあえず宝女王は再婚です。初婚は高向王(事歴不明)であり、子どもは漢皇子(事歴不明)です。結婚は舒明が田村皇子時代に行われていると考えますが、これまたいつかははっきりしません。ちょっと表を示したいのですが、

西暦 出来事 天武 天智 皇極 孝徳
594 皇極出生 0
596 孝徳出生 2 0
626 天智出生 0 32 30
630 皇極、舒明の后になる 4 36 34
636 天武出生 0 10 42 40
641 舒明崩御 5 15 47 45
645 乙巳の変、孝徳即位 9 19 51 49
654 孝徳崩御、皇極重祚(斉明) 18 28 60 -
661 斉明崩御 25 35 67 -
667 近江遷都、天智即位 31 41 - -
671 天智崩御 35 45 - -
672 壬申の乱 36 - - -
686 天武崩御 50 - - -
天武に関しては天智より10歳下の想定にしています。これは天智と天武が兄弟であったとして、乙巳の変に天武が参加していない理由に天武が「まだ幼かったから」の説に従ったものです。当時は何歳から合戦に参加していたかは良く知りませんが、厩戸皇子が対物部守屋戦に参加したのが13歳の時になりますから、これより幼い必要があり、10歳未満であれば確実に「幼かったから」が成立するだろうの仮定です。

天武の年齢はとりあえずこの辺にして、宝王女が皇后になった時は既に36歳です。天智が既に4歳になっている事を考えれば、田村皇子と宝王女の結婚は30歳前後でなかったかと推測されます。何が言いたいかですが、婚姻戦略は政治では非常に重要なポイントになります。田村皇子が皇位をそれなりにに狙っていたのなら、なぜにわざわざ宝女王を選んだかです。それだけの政治力を宝女王の実家である茅渟王家は持っていたんだろうかです。

持っていたとしたら凄いものです。でも持っていたとしか言いようがない部分があります。蝦夷大臣ですらこの事に口を挟めないぐらいの実力が宝女王の実家にあったとしか考えようがありません。しっかし、相手は蘇我蝦夷でっせ。別に蝦夷が暴力的とか、乱暴な人物であったとは思いませんが、そこまでの譲歩を重ねる理由の説明にチト困ります。強いて言えば宝女王の茅渟宮家だけを怖れたと言うより、茅渟宮家と田村皇子の実家である押坂宮家の合体勢力に妥協せざるを得なかったからでしょうか。


高向王を少し考える

高向王も宝女王が産んだ漢皇子の事歴も不明ですが、高向の名は書紀にもチラチラと出ます。高向王に比定する候補としてしばしば取り上げられているのが高向玄理です。たぶん初出は推古紀で

是時、遣於唐國學生倭漢直蘄因・奈羅譯語惠明・高向漢人玄理・新漢人大圀・學問僧新漢人日文・南淵漢人請安・志賀漢人慧隱・新漢人廣濟等幷八人也。

これが推古16年9月(608年)の記録です。高向玄理を高向王に仮に否定したらこの時に宝女王は14歳になります。その時までに結婚して漢皇子を産むと言うのはチト無理はありそうな気がしないでもありません。それ以前に身分違いと言うのも指摘としてあります。また留学生となった高向玄理が帰朝した記録は舒明紀にあり、

冬十月乙丑朔乙亥、大唐學問僧芿安・學生高向漢人玄理、傳新羅而至之、仍百濟・新羅朝貢之使共從來之、則各賜爵一級。是月、徙於百濟宮。

舒明10年10月(640年)の記録です。高向玄理の留学は32年間に及んでいます。遣唐使の留学生は短期と長期があったそうで、長期の留学生は20年とか30年の留学期間があったとどこかで読んだ事があります。ですから32年間自体は不思議ではありませんが、高向玄理を高向王に比定するのはやはり無理がありそうに思います。高向玄理が唐への留学生になったのが14歳ぐらいであっても良いですが、留学前に宝王女と結婚し、子どもを儲け、さらに離別して唐に留学したと言うのは無理がある気がします。

舒明紀を読んでいた時にもう1人高向の名を見つけました。

  • 時群臣默之、無答、亦問之、非答。强且問之。於是、大伴鯨連進曰「既從天皇遺命耳。更不可待群言。」阿倍臣則問曰「何謂也、開其意。」對曰「天皇曷思歟、詔田村皇子曰天下大任也不可緩。因此而言皇位既定、誰人異言。」時、采女臣摩禮志・高向臣宇摩・中臣連彌氣・難波吉士身刺、四臣曰「隨大伴連言、更無異。」許勢臣大麻呂・佐伯連東人・紀臣鹽手、三人進曰「山背大兄王、是宜爲天皇。」唯、蘇我倉麻呂臣更名雄當臣獨曰「臣也當時不得便言、更思之後啓。」爰大臣知群臣不和而不能成事、退之。
  • 於是、大臣、得山背大兄之告而不能獨對、則喚阿倍臣・中臣連・紀臣・河邊臣・高向臣・采女臣・大伴連・許勢臣等、仍曲舉山背大兄之語。既而便且謂大夫等曰、汝大夫等共詣於斑鳩宮、當啓山背大兄王曰「賤臣何之獨輙定嗣位、唯舉天皇之遺詔以告于群臣。群臣並言、如遺言、田村皇子自當嗣位、更詎異言。是群卿言也、特非臣心。但雖有臣私意而惶之不得傳啓、乃面日親啓焉。」

これは推古崩御後に後継を誰にするかの議論の記録で628年のものです。朝議に列席した重臣の名前が列挙されているのですが、その中に高向臣宇摩ってな名前が見えます。この人物は高向玄理とは別人です。この時、高向玄理は唐にいます。そうなると高向臣宇摩は玄理の父か、高向氏の長ぐらいの人物して良い気がします。もし高向王を比定するのなら高向臣宇摩の方が年齢、日本にいる事で幾らか可能性は残るぐらいに思います。それでも身分違いの問題は残ります。

高向王と高向氏を結びつけるには、高向王家の存在が必要になります。無理そうな気がしますが実は可能じゃないかと考えています。上述した息長氏の話があてはまるかもしれないです。神功皇后は息長宿祢の娘です。宿祢の名前で有名なのは武内宿祢ですが、当時は貴人の名前に用いられたとされます。それでも王ではありません。息長氏は伝承上で大王家と通婚重ね、応神天皇の孫の意富富杼王の子孫とする事で王号を得たぐらいに理解しています。何が言いたいかですが、

  1. 王族でない息長氏が先に存在した
  2. 大王家と通婚しているうちに王族の誰かを始祖にし王号を名乗った
  3. 臣である息長氏と王族である息長氏が並立した
こういう図式が成立していた可能性です。同様の事が高向氏にあっても不思議ないだろうです。つまり高向氏の中の王族称号を持つ高向王に宝女王は嫁いだんじゃなかろうかです。でもって高向氏はwikipediaより、

高向の名称は河内国錦部郡高向村(現在の河内長野市高向(たこう))の地名に由来する。

河内の豪族です。宝女王が嫁いだのは父親である茅渟王茅渟宮に居た時期と推定されますから、茅渟王家の勢力拡張のために高向氏と婚姻政策を行ったと考えても良い訳です。


高向玄理は640年に帰朝し、いわゆる留学帰りのエリートとして遇せられるぐらいの理解で良いかと思います。ただ時代は激動期に入ります。帰朝して5年後の645年には乙巳の変が起こります。その結果として孝徳即位、難波遷都が起こる訳です。孝徳の難波朝での高向玄理の扱いは孝徳紀に、

以沙門旻法師・高向史玄理、爲國博士

孝徳即位の時に国博士に任じられたとなっています。この国博士は後に諸国の国学(平たく言えば官吏養成学校みたいなもの)の責任者みたいなものになりますが、孝徳の時のものは少し違うと考えた方が良さそうです。「国」の意味が律令制の国ではなく、国家ぐらいのニュアンスになるようです。そうですねぇ、テクノラートの筆頭みたいな感じでしょうか。もう少し言えば大政策として宣言された大化改新のブレインみたいなものとしても問題ないと思います。中央集権の律令国家にするための具体策の立案を委ねられる地位ぐらいです。

高向玄理の孝徳紀にある活躍は主に外交になっています。当時の東アジアも変動期になっています。長く統一されなかった中国が隋、引き続いて唐と統一国家になります。中国王朝は統一されるとその勢力を周辺に向ける習性があり、朝鮮半島はいつもその影響を受けます。朝鮮半島三国時代高句麗新羅百済)でしたが、三国の抗争は新羅優位に動いて行ったぐらいの理解で良さそうです。新羅は結果として朝鮮半島の統一を成し遂げるのですが、同時に唐からの圧迫を受ける経過を取る事になります。

日本と新羅は友好関係と言うより敵対関係なんですが、唐の圧迫に対抗するために手を結ぶ政策を行ったようです。この時に高向玄理新羅への使節団の長となり孝徳紀には、

  • 九月、遣小紱高向博士鄢麻呂於新羅而使貢質。遂罷任那之調(646年)
  • 新羅、遣上臣大阿飡金春秋等、送博士小紱高向鄢麻呂・小山中中臣連押熊、來獻孔雀一隻・鸚鵡一隻。仍以春秋爲質(647年)

おおまかに意味を取れば形骸化していた任那の調を廃止し、新羅から金春秋(新羅の王族)を人質に受け取る代わりに軍事同盟を結ぶぐらいの話として良いと思います。孝徳天皇外交政策は親新羅にシフトしていたと解釈されます。外交だけやっていた訳でなく、八省百官の官制の整備にも活躍したようで、

是月、詔博士高向玄理與釋僧旻、置八省百官

最後は唐への使節団長(654年)となり唐で客死しますが、最終的な高向玄理の冠位は

遣大唐押使大錦上高向史玄理

これには注釈があり「或本云、夏五月遣大唐押使大花下高向玄理」こうなっています。と言うのも孝徳紀には冠位十九階を定めた記述があるのですが、

制冠十九階。一曰大織、二曰小織、三曰大繡、四曰小繡、五曰大紫、六曰小紫、七曰大花上、八曰大花下、九曰小花上、十曰小花下、十一曰大山上、十二曰大山下、十三曰小山上、十四曰小山下、十五曰大乙上、十六曰大乙下、十七曰小乙上、十八曰小乙下、十九曰立身

ここには「大錦上」がありません。注釈にあるように大花下であれば19階級の8位ぐらいになります。ただ冠制はコロコロ変わるようでwikipediaより、

天智天皇3年(664年)2月9日の冠位二十六階で、以前の冠位十九階にあった大花上と大花下の2階を大錦上、大錦中、大錦下の3階に改めて設けられた。そのまた前の大化3年(647年)の七色十三階冠には大錦という冠位があって、大化5年(649年)の冠位十九階で大花上と大花下に分割された経緯があり、大錦上などはその名を復活継承したものである。

なんとなくですが647年の時に大錦だったんじゃないかと思います。大錦上もややこしくて天智が冠位二十六階にした時に十九階の大花上、大花下を大錦上・中・下の細分化して復活した冠位です。でもってどれほどの冠位かと言えば、wikipediaから、

やたらと贈位が多いのですが、生前に受けていた者には左大臣、右大臣の肩書が見えますから、かなり高いぐらいに思っても良さそうな気がします。高向玄理自身も非常に有能な人物であったと考えて良さそうですが、孝徳の信頼も厚かったとも見れます。厚かった傍証がありまして、最後に高向玄理が唐への使節団長になったのが654年です。実はその前年に大事件が起こります。wikipediaより、

皇太子(中大兄)が倭京に遷ることを請うたが、天皇は許さなかった。皇太子は、皇祖母尊(皇極前天皇)と皇后(間人)、皇弟を連れて倭飛鳥河辺行宮に行った。公卿大夫・百官の人らが皆随って遷った。天皇は恨んで皇位を去りたいと思い、宮を山碕に造らせ、歌を皇后に送った

これが653年の事です。ある種のクーデター騒ぎなんですが、その騒ぎの中で高向玄理は孝徳の下に留まっていた可能性がありそうに思います。


父系と母系

また話が飛ぶのですが歴史解釈の難しいところは、一般に父系が表向きには重視されますが、現実的には裏の母系も無視できない存在としてあります。これはどちらかを重視すると言うより、時と場合によって重視するものが変わるぐらいに思っています。言い切ってしまえば当事者の中の意識の問題です。中大兄皇子は母系を優先した人じゃなかろうかと推測しています。中大兄皇子の母は宝女王なんですが、どうも宝女王の母系を優先したとは思えません。祖母の息長真手王の娘の広姫の母系(息長氏)を優先していたんじゃなかろうかです。

推測分は山ほどありますが、祖父の押坂彦人大兄皇子は最終的に押坂に住居を構えた事から「押坂」の名がついたと解釈します。この押坂の地は伝説の息長大中姫時代から息長氏の影響の強そうなところです。押坂彦人大兄皇子が財源としたとされる忍坂部(刑部)は記紀では息長大中姫のために設けられたものです。皇位継承争いに敗れて隠棲した地が押坂であるのなら、そこが安全圏であり、安全圏を担保したのが息長氏の力ぐらいの見方です。これは中大兄皇子がと言うより、父の舒明もそうだったからと見ても良いと思います。つまり中大兄皇子に取って実母の宝女王は他所から来た人ぐらいの意識が強かったんじゃないかと見ます。

そういう中大兄皇子の息長母系優先思想が端的に現れているのが近江遷都と見れるんです。大津は琵琶湖の水上交通に大きな影響力を持つ息長氏にとっては十分な勢力圏です。天智の近江遷都については様々な理由が挙げられますが、政治的に苦しくなった天智が一番安心できる安全圏に逃げ込んだとも解釈できるからです。もう少し言えば奈良の息長の出店である押坂の息長勢力だけでは足下が不安との判断です。息長氏の本当の勢力圏でないと安心できない心理です。まあ、孝徳が難波に都を置いたのと似たような理由とも受け取れます。


高向玄理の話を長々とやったのは、孝徳とはどういう位置づけになるのかです。孝徳は乙巳の変の直後に皇極から譲位されて皇位に登ります。一般的には乙巳の変中大兄皇子主導のクーデターと解釈され、孝徳は傀儡に過ぎないと見られる事が少なくありません。ただとても傀儡とは思えないのです。一番の理由は即位後に継体以来の飛鳥を去り難波に都を遷している点です。これを中大兄皇子が影で主導していたとは思いにくいところです。むしろ内心反対であったために、後に孝徳を置き去りにして飛鳥に行ってしまうクーデター騒ぎを行ったと見る方が自然そうに思います。つまりは中大兄皇子に孝徳の政策に反対する力が乙巳の変後にはまだ無かったんじゃないかです。

そんな孝徳の支持勢力とはなんだったんだろうです。孝徳は茅渟王の子どもですが、茅渟王の時代から河内の茅渟宮に住んでいた可能性が高そうです。茅渟王の母は漢王の妹の大俣王であるしかわかりませんが、まずこの漢王と言う人物が河内の有力者であった可能性ぐらいはあります。田村皇子と茅渟王は異母兄弟ですが、田村皇子が押坂で当主となった時に、茅渟王は母系を頼って河内の茅渟宮に移ったぐらいの想像です。そんな茅渟王が河内で勢力拡張のために行った婚姻政策が娘の宝女王を高向王に嫁がせる事です。

高向王と高向氏が結びつくかどうかは「なんとも言えない」ぐらいのところも多々あります。可能性として漢王(母の兄)の息子かもしれません。ただ高向玄理の事績を調べると孝徳にかなり重用されている気配はあります。もちろん留学帰りのバリバリのエリートですから、その才能で重用されたと考えるのが一番ですが、プラスアルファで母系の漢王系列の人間であった可能性も否定できません。なんとなく漢王、高向王、高向氏はつながっているんじゃなかろうかと感じます。まあ近所同士の有力氏族は身分による結婚対象の制限もありますから、一つ釣れれば後は芋づる式ってところはある気がします。

これは妄想に近いのですが、茅渟王の子は本当に宝女王と軽王だけだったかも疑問と言えば疑問です。実はもっといて、河内方面の婚姻政策を手広くやっていた可能性はないだろうかとも考えています。端的には高向王に嫁いだ宝女王と舒明に嫁いだ宝女王は別人の可能性はないだろうかです。無理のある想像ですが、かすかな傍証だけあります。皇極紀と斉明紀の冒頭部を引用します。

皇極紀 斉明紀
天豐財重日(重日、此云伊柯之比)。足姬天皇、渟中倉太珠敷天皇曾孫、押坂彥人大兄皇子孫、茅渟王女也。母曰吉備姬王。天皇順考古道、而爲政也。息長足日廣額天皇二年、立爲皇后。 天豐財重日足姬天皇、初適於橘豐日天皇之孫高向王而生漢皇子、後適於息長足日廣額天皇而生二男一女、二年立爲皇后、見息長足日廣額天皇紀。
同じ人物の紹介なのですがかなり違います。皇極紀では宝女王の家系紹介になっています。一方の斉明紀は宝女王の婚姻歴の紹介になっています。また婚姻歴は舒明紀から引用みたいな体裁になっていますが、舒明紀には葛城皇子、間人皇女、大海皇子が生まれた事を書いてはいますが、高向王、漢皇子については記載がありません。あくまでも妄想ですが書紀の編集方針が微妙に揺れ動いた可能性を考えています。皇極紀時点では初婚の話をどう扱うか決まっておらず、斉明紀を書く段階では強調する判断が出て来たんじゃなかろうかぐらいです。もっとも重祚しているのですから、最初の時は家系を書き、二度目の時に婚姻歴を書いて重複を避けただけかもしれませんが、見ようによっては奇妙なところです。この辺を穿って考えると、斉明紀段階になって急遽書き加えられた初婚の相手である高向王は、案外重要な人物の可能性も出てくると言う訳です。もちろん息子の漢皇子もです。

とにかく茅渟王は孝徳に取っても、宝女王に取っても重要な人物であるにも関わらず記紀に記載の少ない人物で、本職の研究者も困っている人物です。しかし茅渟王の力が小さかったとは到底思えません。上述したように宝女王は田村皇子に嫁いでいるだけでなく、舒明即位の翌年に皇后になっています。これに対し蝦夷大臣が反対した気配が見受けられないぐらいのところです。


この先は小説的な話になるのですが、茅渟王も中央進出、皇位継承を狙っていた可能性もある気がしています。そのための足掛かりの一つが田村皇子と宝女王の結婚です。これは望外の成果を収め、蘇我氏全盛の世の中であるにも関わらず、宝女王の旦那である非蘇我系の田村皇子が皇位に就くという結果を産みます。舒明崩御の頃には茅渟王家は軽王の手にあったと考えますが、この軽王が中大兄皇子を唆して起こったのが乙巳の変じゃなかろうかです。いわゆる孝徳黒幕説です。

まあ異論の一つですが、可能性はあると見ています。乙巳の変時の中大兄皇子はまだ19歳です。一方の軽王は49歳。古代であっても19歳では信用がイマイチ薄い気がします。19歳の中大兄皇子の信用背景に49歳の軽王がいる構図の方が安定します。それとクーデター全般に言えるのですが、本当の黒幕はクーデターの惨劇に無関係の立場を装いながら、一番おいしいところを持っていきます。乙巳の変後の最大の利益享受者は冷静に見たら皇位に就いた孝徳です。現場で奔走した中大兄皇子は黒幕に対する実行犯クラスであったぐらいです。


次はまたにします

いろんなところに伏線を張っているのですが、乙巳の変後の抗争劇(孝徳置き去り事件、壬申の乱)は二大勢力の争いに見えて仕方がないのです。単純には河内の茅渟王家と大和の押坂王家です。ただその話に持って行くなら、天武をどう考えるかになります。私のプロットでは河内系にせざるを得なくなります。これまた難儀なお話で、今日はこれ以上考えられません。そういう事で次回に続くです。