- 遠江國,【卅五束。】海路米一斛充賃稻廿三束
- 參河國,【卅三束。】海路米一石,充賃稻十六束二把。
こんだけしか書いてない訳で、具体的にどこから出航し、どこに着いたかは不明です。そのうえ愛知や静岡の土地勘は乏しいと言うのがあります。そういう時にはまず地形図を見たいところです。
こういう地理関係になります。
律令期の東海道は国府を結んでいたとなっています。陸路で遠江から京を目指せば三河国府を通り、さらに尾張国府を通り、伊勢方面に回り込んで鈴鹿関を目指す事になります。この陸路の難所の一つが尾張方面だったとされます。ここには木曽三川(木曽川、揖斐川、長良川)が流れ、当時の事で橋もなく渡っていくのが大変だったそうです。これは江戸期の東海道でもそうで、宮宿(熱田)から桑名は七里の渡として海路でした。熱田神宮は景行天皇の時代に遡る古社で律令期にももちろんありましたから、ここを目指して江戸期と同様に七里の渡であった可能性は一つあります。
ただ七里の渡を想定すると功賃設定が謎になります。遠江を概算してみます。延喜式の陸路の上り日数ですが、
あくまでも概算なので御了解頂きたいのですが、こうなりますから海路は3日分の陸路の代償になります。3日分の陸路功賃は1駄(15斗)につき3束/日(= 2束/石)と概算できますから、陸路部分だけで24束/石になり、海路の功賃である23束/石に匹敵してしまいます。日数短縮を考えた時に尾張国府より熱田の方がかなり南寄りです。三河−尾張は4日ですが、三河−熱田なら3日ぐらいで着くと考えてもおかしいとは言えません。一方で尾張−伊勢の方は桑名に着きますから、差し引きするとドンブリですが同じぐらいと言ったところになります。もっともですが私の概算では海路代は捻出できませんが、実際には石あたり1束程度の海路代が出る可能性はあります。海路の概算として挾杪1人、水手2人で50石運ぶ播磨モデルを想定すれば、播磨−与等津で1石あたり2.84束になります。播磨−与等津より七里の渡の方が距離が短いので、これが1石あたり1束程度になれば成立する可能性は無いとは言えないぐらいは残ります。
諸國運漕雜物功賃には束単位と石単位の支払いが混在しています。これについてあれこれ推測した結果、
- 束単位・・・穎稲払い。国府が運送者に功賃として渡す
- 石単位・・・舂米払い。現地で調達した駄馬や舟の運賃として支払う
それと実際の支払ですが現地での舂米払いでは現実的には米ではなく、ある程度布で代用していた可能性はあると思っています。重量の桁が違いますからね。一方の国府からの穎稲払いはもろ穎稲で支払われたと考えています。国府の倉には支払い用の穎稲が積み上げられている訳ですから、延喜式の規定通りに穎稲で支払うのが最も楽だからです。この穎稲払いが太平洋航路の案外なポイントの気がしています。
もう一つですが、穎稲は束単位で数えますが、容量としての石単位にも換算できるとします。「1束 = 1斗」なんですがそのまま「10束 = 1石」として荷物として扱われたの仮定です。
ここでまず問題なのは請負業者はどこに住んでいたかです。請負業者の目的は57.5石の米を入手する事ですが、それを自分のところに持って帰らないと意味がありません。とりあえず請負業者が遠江に住んでいれば話はまだシンプルです。京まで運んで帰った時に功賃として57.5石を受け取れば良いからです。ただ請負業者は荷物を伊勢に運んで終わりではありません。そこから駄馬で京まで荷物を運ぶ必要があります。その点を考えると請負業者の本拠は伊勢にあったとしたいところです。請負業者は、
- 遠江方面の舟の手配
- 京方面の駄馬の手配
- 海路:遠江−伊勢
- 陸路:伊勢−京
いろいろ試算してみたのですが、ポイントは功賃の量が莫大である点です。当時の舟のサイズが謎で平安後期には230石積みの舟も誕生していたなんて情報もありますが、延喜式が想定しているのは挾杪1人、水手4人の50石積みぐらいが標準サイズの気配があります。そうなると1艘では功賃を持って帰れません。そのために功賃運搬用の2艘が追加され、なおかつ功賃運搬用の人件費も功賃として加算されていた可能性がありそうです。功賃を持って帰る費用なんて国府は出さない(今だって出ない)のが常識ですが、
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条件を飲んでも陸路より安かった!
- 税金分の50石
- 功賃分の1150束(115石)
- 1艘は挾杪1人、水手4人乗り込みとする
- 舟は3艘
- 石あたり1.5束、挾杪40束、水手30束
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3(人)×60束(挾杪)+ 12(人)×40束(水手)= 660束
三河、遠江は海路規定がありますが駿河はありません。だから推測になりますがやってみます。基本は税金分の荷物が50石単位としますが、まず伊勢−京の陸路は共通ですから400束になります。もちろんこの400束は功賃の穎稲として駿河から伊勢まで運びます。次は駿河−伊勢の功賃分の穎稲です。船員や荷物に対する料金は・・・仕方がないので大宰府モデルでやってみます。それと試算段階で駿河になると3艘では無理で4艘が必要になるので、そうしています。まず税金分の50石に対する功賃計算です。まず船員代です。
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4(人)×60束(挾杪)+ 16(人)×40束(水手)= 880束
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50(石)×1.5束 = 75束
仮説と推測の上に立ったお話ですが、北陸や瀬戸内航路と太平洋航路の差は、海運業者の技術と存在の偏在であった気がします。どうにも伊勢湾沿岸と言うより、伊勢に偏在していた気がしています。遠江にしても、三河にしても自国から舟を出し、伊勢に税金の荷物を送れれば、北陸・瀬戸内航路並のコストで済んだ気がするからです。駿河だってそうです。功賃輸送の支払いは自国払いですから、それに伴う運搬コストが発生しようがないからです。それがある時期までは出来なかったと見て良い気がします。もちろん太平洋航路を北陸、とくに瀬戸内と同列の難度にしたら怒られますからねぇ。