延喜式の海運の支払い

穎稲と舂米

律令期は貨幣は存在(和同開珎とか、皇朝十二銭とか)しても貨幣経済はなかったとして良いと存じます。一方で報酬の支払いも必要であり代用貨幣として米が使われていたと見ても良さそうです。この代用貨幣としての米ですが2つの形態で勘定されています。

  • 穎稲・・・籾米に相当。計量単位は束。
  • 舂米・・・脱穀米に相当。計量単位は石。
穎稲は籾米に相当としましたが、実際は穂先ごと切り取ったものであり容量にして舂米の2倍換算になります。換算式を挙げておくと、
    穎稲1束(容量として1斗)= 舂米0.5斗
これは確認できていませんが、律令期の標準(規定)駄載量は1駄につき5俵となっています。律令期の1俵は5斗なんですが、おそらく穎稲1俵も舂米1俵も5斗となっていたと推測しています。それはともかく諸国が租として徴収し国府に保管する時は穎稲です。これは保存性の問題も当然あったと思います。米の輸送、それも遠距離になるほど穎稲ではなく舂米になるのは自然と言うより必然とまず思います。

米は代用通貨として律令期では使われていますが、支払い時には穎稲である時と舂米である時があったようです。諸國運漕雜物功賃の海路部分を調べた時にウンザリしたのはその部分です。しかし良く考えてみると、そうなる必然性があったとする方が良いでしょう。。国府には穎稲で米が蓄えられていますから、国府から直接報酬を払う時には穎稲になります。わざわざ脱穀して舂米にして支払う手間をかけるとは思えません。では舂米で支払う時はどういうケースかになります。これは現地(出張先)での支払いの必要性が生じた時ではないかと考えます。代用貨幣として遠方に持参する時は穎稲より舂米の方が容量が半分になりますから圧倒的に便利です。米を代用通貨として使う時には、

  • 穎稲払い
  • 舂米払い
こういう形態が律令期には一般化していたと見ています。だから功賃の規定も混在して表記されていたんでしょう。見分け方は功賃が束単位の時は穎稲払い、石単位の時は舂米払いです。もう少し言えば穎稲払いの時には国府から直接支払われ、舂米払いの時には現地で支払ったぐらいの見方です。この仮説を念頭に置いて越前国海路を分析してみます。延喜式原文は、

越前國海路。【自比樂湊漕敦賀津船賃,石別稻七把,挾杪四十束,水手廿束,但挾杪一人,水手四人漕米五十石。加賀、能登越中等國亦同。自敦賀津運鹽津駄賃,米一斗六升。自鹽津漕大津船賃,石別米二升,屋賃石別一升,挾杪六斗,水手四斗。自大津運京駄賃,別米八升。自餘雜物斤兩准米。】

越前国海路の行程は

    比楽湊 → 敦賀 → 塩津 → 大津 → 京
これを延喜式に則って穎稲払い・舂米払い仮説を当てはめていきます。


比楽湊 → 敦賀

延喜式では

自比樂湊漕敦賀津船賃,石別稻七把,挾杪四十束,水手廿束,但挾杪一人,水手四人漕米五十石

すべて穎稲払いになっています。これは越前国が仕立てた船に、これまた越前国から任命された挾杪や水手が乗り敦賀まで米を運んだと見ます。越前から比楽湊までわざわざ運んだのか、越前から直接敦賀に向ったのかはなんとも言えませんが、とにかく越前から敦賀までの功賃がこれになります。もう一つですが、ここの読み方で挾杪と水手4人で50石運ぶとなっていますが、この50石は税としての米じゃないかと考えます。何が言いたいかですが、税としての米以外にも荷物はあったはずですが、これについての功賃は発生しない規定になっていたと考えています。でもって、支払いは穎稲払いですから越前から敦賀に米を運び、越前に帰国後に国府から直接支払われたとして良いでしょう。


敦賀 → 塩津

ここは陸路ですが延喜式には、

敦賀津運鹽津駄賃,米一斗六升

敦賀まで船で50石を運んで来たわけですが、敦賀で当然ですが米は荷卸しされます。越前からの船は挾杪や水手と越前に帰ったと考えるのが自然です。まあ、敦賀で待っていて帰りも越前まで一緒に帰った可能性もゼロではありませんが、そうすると路糧の支給問題が発生しますからサッサと帰ったと見る方が自然です。荷下ろしされた米は峠を越えて塩津に行かないと行けませんが、利用するのは駄賃となっていますから駄馬になります。この駄馬は越前から連れて来ようがありませんから、敦賀での現地雇でしょう。だから舂米払いになっていると見ます。

もう一つ注意が必要なのは駄賃の計算方です。越前−敦賀の海路と明らかに表現が違います。ここの表現の解釈に苦しんでいたのですが、敦賀−塩津の駄賃計算は荷物の総量にかかると解釈します。納税のための一行が持っている荷物として考えられるのは、

  1. 税の50石の米
  2. 現地での駄賃等に必要な舂米払いのための米
  3. 自分のための食料
  4. その他
これぐらいはあるわけで、それらをひっくるめて馬で運ぶ訳です。税金の50石以外の荷物量によって駄馬の数は変わりますが、延喜式で定められているのは駄馬あたりの公定料金だけだったと読むのが正しそうな気がしています。


塩津 → 大津

琵琶湖縦断になるのですが延喜式には、

自鹽津漕大津船賃,石別米二升,屋賃石別一升,挾杪六斗,水手四斗。

敦賀から駄載で塩津に着いた荷物は下されます。そこからは琵琶湖を縦断するのですが、ここでも現地雇の船と乗組員が必要です。この塩津−大津の船の単位の解釈も苦しんだところですが、敦賀−塩津と同じ解釈になると考えれば判ります。ここもまず荷物の総量での運賃であったと見ます。それだけでなく挾杪や水手の費用は明記されていますが、どういう組み合わせになり、さらにどれだけ積載されるかを書いていません。書いていないと言う事は、現地での交渉次第であったと見るべきでしょう。

たとえば越前−敦賀のように挾杪1人、水手4人で50石になるかもしれませんし、もっと多く積むケースもあった一方で、もっと少なくなるケースもあったと見ます。これがどういう契約になるかについては律令は関与していないぐらいの解釈です。


大津 → 京

ここも陸路で逢坂山を越えて京に向う道と考えて良いでしょう。延喜式には、

自大津運京駄賃,別米八升

ここも同じです。塩津から京に運ぶ荷物の頭数に応じて功賃は変動すると考えて良さそうです。


それでものシミュレーションを考える

敦賀−京は変動要素が多いので幾つかの仮定を置かないとシミュレート出来ないのですが、

  1. 現地の支払いはすべて舂米とする
  2. 納税一行は余分な荷物を極力持たない
  3. 塩津−大津は挾杪1人、水手4人で全部運ぶ
路糧に関しては若狭から京(敦賀−京)で3日、京から越前まで4日ですから敦賀時点で10升、塩津で8升、大津で6升です。これに塩が加わりますが、これらについては計算外とさせて頂きます。それと納税一行は敦賀からは監督者1人とします。

さて試算に入りますが大津−京は税金分の50石だけ運んだ事になります。駄載量は1頭につき1.5石(15斗)ですから、34頭(33.3頭の繰り上がり)必要になります。そうなると駄賃は27.2斗(2.72石)です。塩津−大津は税金に加えて大津の駄賃も運ぶ必要がありますから52.72石の費用が必要になり、、

    52.72(石)×0.2(斗)+ 52.72(石)×0.1(斗)+ 6斗(挾杪分)+ 4斗(水手分)×4人 = 37.816(斗)
敦賀−塩津は52.72石に3.7816石を加えた56.5016石の運搬が必要です。必要駄馬数は38頭(37.7頭の繰り上がり)になり60.8斗になります。煩雑なのでまとめると、
経路 輸送舂米量(石) 費用(石)
大津−京 50 2.72
塩津−大津 52.72 3.7816
敦賀−塩津 56.5016 6.08
越前−敦賀 62.5816 6.357
これはかなり安く考えた試算です。実際はもう少し高くなる可能性も十分にあると思っています。


民営の芽生えかな?

北陸からの輸送量は若狭・越前・加賀の年料舂米・年料租舂米だけで4799石になります。この米は当然ですが、

    敦賀 → 塩津 → 大津 → 京
こういうルート(若狭は勝野津−大津ルート)で運ばれるわけです。たとえば大津−京では駄馬換算で延べ4799頭必要です。これ以外にも庸・調・雑物も運ばれます。庸・調が駄馬や舟運をどれだけ利用したかはなんとも言えませんが、古代の大動脈の一つと言えそうです。でもってこのルートは功賃と言う公定価格は定められていますが、私の感触として官営ではない気がします。かなり早い段階で民営業者に委ねられている気がします。延喜式の規定でもそう読んでもとくに矛盾しません。これが官営なら比楽湊−敦賀のように積載量まで規定してしまうと思うからです。

この功賃にしてもヒョットしたら最低価格の可能性もある気もしています。上で試算した通り、50石の船が1艘入港しただけで30頭以上の駄馬の需要が生じます。たまたま2艘入港したら70頭からの需要になります。実際にどれぐらいの需要が生じたかを試算してみます。

凡諸國舂米運京者,伊勢、近江、丹波、播磨、紀伊等國二月卅日以前,尾張、參河、美濃、若狹、越前、加賀、丹後 四月卅日以前,但馬、因幡、美作、備前、讚岐六月卅日以前,備中、備後、安藝、伊豫、土佐八月卅日以前,竝送納訖。若有未進者,准數奪專當郡司職田直。若不足者,亦沒國司公廨。

これをどう読むかはありますが、若狹、越前、加賀は2月30日から4月30日の間に年料舂米(たぶんですが年料租舂米も)を運ぶ規定であったと取りたいところです。この想定で単純計算で毎日フラットに入港しても80頭ぐらいの駄馬需要が生じる事になります。こういう駄馬の手配や琵琶湖の舟運の手配を先発隊みたいなものがやってくれているかと言えば正直なところ疑問です。すべて現場に丸投げの気がしています。

需要があれば供給が生じるのが市場原理ですが、敦賀でも大津でも入港した米の輸送のための駄馬手配を請け負う仲介人的なものが誕生していると想像できます。そういう存在がいないと農村を自分で駆け回って駄馬をかき集めなければならないからです。駄賃も需要が重なった時には市場原理で割増運賃が発生した可能性もあると思っています。この段階がほんの少しでも進むと、仲介人を通さないと駄馬は集まらない状況に容易に変化します。民営業者の誕生です。

敦賀−京の輸送で庸や調はどうであったかですが、正直なところ微妙です。国許から陸路利用であれば駄馬を使うなり、自分で背負って京まで陸路を使うかと思います。庸や調の運搬は公民の自弁ですから、民営運搬業者を利用したかと言うと疑問は残ります。それと庸・調・雑物以外の流通量はそれほど無かった気もしています。そこまでの経済発展はもう少し時代が下る気がするからです。民営業者の誕生と言うよりも大がかりな副業みたいに見えてしまうところです。もし専属業者化するなら与等津−京の荷車の方が早かった気はしています。


布払いの可能性は?

律令期の税金で米に並ぶものとして布があります。庸ももともとは都での一定期間の労役だったのですが、その代わりに庸米・庸布を納める制度に代わっています。調も本来は布で納める制度であったあったはずです。それぐらい布の価値は高かったと言えます。布も3サイズあったようで、

  • 庸布・・・幅2尺4寸、長さ1丈3尺
  • 調布・・・幅2尺4寸、長さ4丈2尺
  • 調絹・・・幅1尺9寸、長さ5丈1尺(正丁6人分)
調絹は置いといて、庸布は当初2丈6尺だったのが半減されて1丈尺になったとされています。ただし2丈8尺で1段と数える計算法も出てきています。どうもですが庸布は2丈8尺の1段単位(正丁2人分)が基本単位であったように見えます。ちなみに調布は1枚を1端と数えていたようで、調絹は1枚を1疋ないし1反と数えられていたようです。庸布が1段単位で集められていた傍証に

凡一駄荷率,絹七十疋,絁五十疋,絲三百絇,綿三百屯,調布卅端,庸布40段,商布五十段,銅一百斤,鐵卅廷,鍬七十口

こんな感じです。さて庸布の価値ですがwikipediaより、

改新の詔では、1戸あたり庸布1丈2尺あるいは庸米5斗を徴収する規定があり、それが律令制下でも引き継がれたと考えられている。

改新の詔は孝徳天皇が出したものですからチト古い気はしますが、この情報なら

    庸布半段 ≒ 庸米5斗
こういうレートが成立します。延喜式になるとwikipediaより、

延喜式』には正丁1名あたり米3斗とする規定がある

これがどこにあるか判らなかったのですが、庸布は正丁あたり半段ですから

    庸布半段 ≒ 米3斗
これも可能性はある訳で、なんとも言えないところです。思ったのですが、庸布も品質のバラツキは結構あったはずです。米もそうなんでしょうが、米の場合は食べる事の方が優先されて、律令期ぐらいでは品質はあまり重視されず、どこで取れても米は米で同じものとして扱われた気がします。一方の庸布は品質に市場原理が働く可能性があります。延喜式なりに公定ルートが明記してあれば良いのですが、私が読む限り見つけ出せません(つうか全部読めるか!)から、上記したようなおぼろげな公定ルートにプラスアルファ(もしくはマイナス)が生じる可能性です。

それでも布による代用通貨は魅力的です。米は上で試算したように舂米で運んでも代価分だけで結構な重量になります。庸布1段の重さですが、1駄に米なら15斗積載します。重さが「米15斗 ≒ 庸布40段」なら1段2kgになります。ここで仮に「庸布1段 = 米1石」とすれば、舂米なら60kgのものが1/30の2kgになります。敦賀−京での運賃が試算では12.6石ぐらい必要ですが、庸布なら12段ぐらいで済んでしまいます。雑物輸送の功賃は「どうも」国府負担の様ですから、少しでも安くしたいと考えるはずで、そのためには輸送物の重量軽減がコストダウンの第一歩ですから・・・やっていたと思うんですけどねぇ。


古代の輸送をやっているといつもネックになるのは米の重量です。JSJ様の指摘が「鋭い!」と思ったのですが、たとえば太平洋側では遠江が海路を使っていると延喜式には書いてあります。その輸送価格は遠江から京まで一括で23束です。これが穎稲払いなので遠江国内から出航したのか、後世の様に熱田あたりから出航したのかは不明ですが、単純には「とにかく海路があった」です。価格は1石あたり23束(11.5斗)ですから米輸送には向きません(やったら大赤字)が、雑物なら功賃の節約になります。

遠江から海路を使えば安くなるのなら、駿河以東の国も利用すれば良さそうなものです、ただしこれを駿河以東の国が利用しようとすれば一遍に難しくなってしまうの指摘です。遠江は穎稲払いに出来る条件があるようですが、他国になると輸送量は現地払いの舂米払いになってしまいます。そうなれば1駄を米15斗相当の雑物を運ぶとして、これとは別に7.7斗ぐらいの舂米を運ぶ必要が出て来ます。単純化すれば雑物2駄につき1駄の運賃用の荷駄が必要になると言う事です。細かくは試算しませんがたぶん「割に合わない」とされた気がします。それぐらい舂米払いの重量負担は半端じゃないと言ったところです。ですから布払いへの要求が強くなはず・・・ぐらいはまず想像します。


ここでなんですが、仮に舂米払いから布払いにまで進めば、次は貨幣って流れになるのがある種の原則と思っています。その方が便利なのは現代人である私たちは良く知っています。しかし日本史的には銭経済が「それなり」でも普及するのは室町期からが定説です。通貨である銭の発行も平安期までは細々でもやってましたが、鎌倉期・室町期には行われず、必要になった銭は中国からの輸入品でした。その点を考えると不便そうに見えても、律令期にはさほど深刻な問題ではなかった・・・んでしょうねぇ。。きっと。