兵庫津ムック8・しつこいけいど経が島と築島比定

まず兵庫津遺跡第52次発掘調査報告書の掲載地図を見てもらいます。

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能福寺の寺伝に

元号 西暦 出来事
天正8年 1580 築島堀の北半分を埋め、堀を南方へ延ばして入江建設。
天正8年は池田恒興が兵庫城を作っているのでその一環であるのはわかりますが、築島掘の北半分は南半分の誤伝と私は考えます。もう一つ福原会下山人氏の福原会下山人氏の町名由来記

新町、兵庫の船入場は経ケ島時代の面影が幾分残っていた、新川開鑿の頃に此船入場は埋立てられた、そこに新町は出来たので、幾念経っても新町である、浜新町も同様である。

これも会下山人氏の勘違いと思われます。新町・濱新町は元禄絵図でも明らかなように池田恒興の兵庫築城の時に埋め立てられています。池田恒興の兵庫築城は、

  1. 築島堀の南半分を埋め立て経が島と合わせて城池を確保した。
  2. 結果として築島船入江が狭くなったので須佐の入江を拡張して船入江を整備した。
こうであったと考えます。兵庫築城のために築島堀の南半分だけではなく、経が島の南側の埋め立ても行われていたと考えるのが妥当で、さらに須佐の入江の拡張整備事業も並行していたために能福寺の寺伝の記載に混乱があると考えています。でもって後に兵庫城から兵庫陣屋に規模が縮小された時に関屋町の南側に新在家町・出在家町・今在家町が成立したと私は見ます。この兵庫築城時に清盛以来の経が島の遺構は殆どなくなった可能性が高そうで、だから今も見つからないぐらいでしょうか。もう少し付け加えると、恒興の改修前は清盛から重源時代の大輪田の泊の原型がかなり残っていた可能性があります。明治期の地図に平安時代の汀線と合わせて推測図を作ってみると

もう少し大胆な推測を行っても良い気はします。元禄絵図にある築島船入江は来迎寺の南側に水路がありますが、これは兵庫築城で南側の新町・濱新町を埋め立てたために新たに設けられた可能性がありそうです。つまりは島上町と船大工町の南北に分かれている築島は本来は一つの島であったと考えたいところです。具体的には、

  1. 経が島とは切戸町から関屋町に東西に伸びる扇型の半島状の島
  2. 築島とは七宮神社から南北に延びる半島状の島
経が島と築島の二つの半島に囲まれたL字型の船着場が清盛が着手し重源が完成させたとされる大輪田の泊ではないだろうかです。そういう構造なら経が島(≒ 関屋町)に置かれた兵庫関の意味がわかりやすくなります。ここを通らないと船は大輪田の泊に出入り出来ないからです。つうか元禄絵図にある水路があったら兵庫関の意味が低下します。池田恒興の改修は
  1. 従来のメインの船着場であった築島船入江を縮小し、築島の間に新たな水路を開鑿
  2. その代わりに兵庫城の南側の須佐の入江の船着場の整備
南側の須佐の入江の船着場は兵庫津遺跡第52次発掘調査報告書より、

出在家・今在家の間にあるT字型の構造は素直に船着場に見えます。ただ須佐の入江の船着場は意図に反してあんまり使われなかった気もします。つうか北側の築島船入江が民間用で、南側の須佐の入江の船着場が公用だったのかも? つうかつうか、兵庫城の防衛を考えると南側の入江の拡張は外堀の確保で、船着場として整備されたのは兵庫城が兵庫陣屋に規模縮小してからかもしれません。