兵庫津ムック5・須佐と佐比江

福原会下山人氏の町名由来記が面白かったのでまたまた補足編です。検討したいのは

佐比江町、昔は佐比の入江とて須佐備という意味らしい兵庫古津の名である「御選集」忠岑の歌に

    としをへてにごりだにせぬ佐比江には玉藻かり得て今ぞすむべき
此地維新前までは、酒楼妓家軒を並べ昼夜絃歌の声を絶たず、其来歴は余程古くからあったものと見える、寛政の頃の狂歌
    兵庫まげ紅おしおいの花の顔さび江といえど日々に新し
此花街が西に遷りて柳原が二代の佐比江となったのは天保の年代からということだ、今の柳原に一種の上品な妓風のあるのは以前の佐比江が大阪島の内の妓家と同格だといって派振をきかせていた遺風だとしている、尤も昔の兵庫には磯の町、湊の土堤下、逆瀬川、真光寺前などに娼家があったが、いつとはなしに亡びてしまった。

須佐ノ通、須佐の入江は古い地名である、「万葉集」に

    あぢのすむ須佐の入江のこもりぬのあないきづかし水ひさにして
とあり又
    冬くれば須佐の入江のこもりぬも風寒からしつららいにけり
    夜をさむみすさの入江にたつ千鳥空さえ氷る月になくなり
    みさこねるすさの入江にみつしほのからしや人に忘らるる身ぞ
などの古歌が多い、さて此の入江は和田岬の東から深く陸地に湾入していたので、平相国が兵庫島を造ったとき埋立てたのは此須佐の入江の一部であった。

藤原通、蘆原という古名があったのを其まま町名にした訳で、由来此地は水門川の落ち口と、須佐の入江の汀などで、蘆荻の叢生していたので直覚的に名を呼んだのである。

松原通、これも古名其儘を町名とした、福原遷都の頃、公卿達に和田の附近に邸地を給わるにつき、中山大納言が湊川を高瀬船で上りつつ和田の松原西の野を点検し云々とある、昔の水門川の西岸及び和田山へかけて一面の小松原であった、松原口という地名が旧西柳原の西にある、これは和田の松原へ通ずる口であったからである。

江川町、江川というのは旧湊川の支流が佐比の入江に流れ込んでいたので其名が起った、此の川は絵下山下から流れて入江に落ち込むまでは、田圃の用水として一働きをした上で其落し水や下水までを一纏めにして入江に注ぎ込むのであるから、入江にある北浜の船繋ぎ場は汚泥塵埃の堆積に苦しんだ、そこで船方からは醵金もし或は奉行所からの助成金をも得て、年々に浚渫した事の記録がある、今では入江の地も埋め立てて仕舞ったので江川の旧態はおぼろにしか認められない、佐比江町の北に菖蒲が淵という地名もある、又『北浜船繋ぎ場』という標石が残っていた、桑滄の変の甚だしい事は誠に電光石火の世の中じゃ。

こっちの知識が追いつかないのですが、冒頭の

    佐比江町、昔は佐比の入江とて須佐備という意味らしい
これが何を意味しているのかサッパリわからへんのが悲しいところです。嬉しいことに吉田茂樹氏の「神戸における名儀不詳地名の分析」に解釈が書かれていました。かいつまんで引用していくと

『西摂大観』には「佐比江の佐比は須佐備の意義である、西の入江を須佐といひ東の入江を佐備というのは対称である」とし、須佐とはアレ(荒)スサブという。

会下山人氏は西摂大観のこの解釈を踏まえてのものとして良さそうです。どうも全体で須佐備の地名がまずあって、西側を前半2文字を取って須佐とし、東側は後半2文字を取って佐比としたぐらいの受け取り方で良いようです。西摂大観の解釈の根幹は「スサ」と「スサ(荒)び」が同じ意味から来ているところに立ったもののようですが、吉田氏は若干の異議を唱えています。

「スサ」という地名は少なく、島根県須佐神社を除くと、山口・兵庫・愛知の「須佐」は、いずれも湾入した海岸に立地し、和歌山県周参見(スサミ)も湾入海岸にある。

すげえな、全国の「スサ」の地名の地形を吉田氏は調べられたようです。結論的に「スサ」の地名がつくところは湾入海岸が多いとしています。そこから

川辺賢武によると、「スサ(洲砂)」の意としているが、少なくともスサの「ス」は洲の可能性が強い。

この説を採り上げています。ここも他のスサの名がつく地形に洲砂があったかどうか気になるところですが、兵庫津の須佐にはあった可能性は高いと私は考えます。理由は単純で経が島や築島を作るときに完全な人工島を作ったかどうかが疑問だからです。やはり元に洲があってそこに作ったと考えた方が合理的だからです。この考えをもう少し広げると、スサ自体に湾入海岸と意味合いがあり、そこにさらにス(洲)がある地形だったんじゃなかろうかと想像します。

湊川和田岬方面に河口をもっていました。現在の新湊川から想像するのは大変(それでも近年になって大水害を2回起こしています)ですが、活発な堆積活動を行っています。スサの古兵庫湾に注ぐ古湊川河口部付近には早くからス(洲)が形成されており、これは湊川本流だけではなく逆瀬川みたいな支流でも起こっていた可能性を考えます。平家物語の描写に

その前年(寿永二年)の冬の頃から、平家は讃岐の国八島の磯を出て、摂津の国難波潟に押し渡り

難波潟の本家は河内の難波ですが、難波も大和川や淀川の堆積作用により河内湾・河内湖に多数の洲を形成しています。平家が押し渡ったのは大和田の泊ですが、そこの地形の描写として摂津の国(の)難波潟って表現を使っているのは示唆的な気がします。平家物語の成立は鎌倉時代に入ってからですが、鎌倉時代でも兵庫津の風景として難波潟の表現が相応しいと判断されたと見れないこともありません。もう一つ出せば定番の一遍上人縁起の

銭塘三千の宿、眼の前に見る如く、范麗五湖の泊、心の中におもい知らる

これも兵庫津が難波潟状態であった傍証になる気がします。そうなると古兵庫湾は中ほどにあった洲により南北に分かれていたと考えても良いんじゃなかろうかです。中ほどにあった洲をスサと呼び、北側をサビエ(佐比江)と呼んでいたぐらいの想像です。古代の大和田の泊は和田岬の付け根ぐらいに遺構が見つかっていますから、北側の佐比江は吉田氏の論文にある

『西摂大観』による「スサビ」とほぼ同儀の「サビ(荒・寂)」と考え、「荒涼たる淋しい入江」あったから地名化したかもしれない。

古代大和田の泊付近は人も住み、船の発着もあって古代なりに繁華であったのに対し、北側の佐比江は住む人もいない寂れた入江であったぐらいに読み取れそうな気が私にはします。古代の大和田の泊は南東風が弱点とされていますが、もう一つ古湊川の堆積作用による水深低下も問題になっていた気がしています。清盛は大和田の泊の根本的な改修を考えた時に須佐(洲砂)に大堤防(= 経が島)を築き、その北側に新たな湊を作ろうとしたのが原案だった気がしています。



これに関連してもう一つ気になることがあります。兵庫津の研究は元禄絵図が中心になっていますが、兵庫津遺跡発掘報告書の地図を引用します。

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兵庫陣屋は築島を拡張して作られたとなっています。それはエエのですが、兵庫陣屋の東側に

    関屋町 → 新在家町 → 出在家町 → 和田神社
こういう風に続く陸地があるのがわかってもらえると思います。この部分の陸地は人工的に埋め立てたと考えにくいところがあります。つまりは砂州が出来で自然に陸地化した個所と考えるのが自然かと思います。これが清盛時代からあったかどうかは確認する術もありませんが、可能性として須佐と呼ばれた砂州は相当大きなものが清盛時代にも形成されつつあったかもしれません。古くからあった傍証として吉田氏の論文より、

須佐の入江は『万葉集』に「渚沙の入江」としてみえる古地名である

「渚沙の入江」が古兵庫湾全体を表している可能性も否定できませんが、佐比江もまた相当な古地名ですからやはり洲砂が形作っていた入江と考えます。古代の大和田の泊とは須佐の入江を利用したものであったと素直に考えても良いんじゃないかと思っています。最後になんですが、

    西の入江を須佐といひ東の入江を佐備
ここも解釈に頭を悩ませました。元禄絵図でも須佐の入江と佐比江は南北関係であって東西関係に見るのは無理があります。これを東西に見るためには、須佐の入江がかなり奥深く入っている必要があります。そんな状況証拠があるかどうかですが、まず佐比江は佐比江帳あたりにあったとしても良さそうです。七宮神社も場所は変わっていないと考えます。佐比江がそのあたりとして、会下山人氏の地名由来で
  • 藤原通、蘆原という古名があったのを其まま町名にした訳で、由来此地は水門川の落ち口と、須佐の入江の汀などで、蘆荻の叢生していたので直覚的に名を呼んだのである。
  • 松原通、これも古名其儘を町名とした、福原遷都の頃、公卿達に和田の附近に邸地を給わるにつき、中山大納言が湊川を高瀬船で上りつつ和田の松原西の野を点検し云々とある、昔の水門川の西岸及び和田山へかけて一面の小松原であった

藤原通は明治期の地図でも芦原通であり現在も芦原通になっています。このあたりも葦が生い茂る入江の一部であったと考えられます。芦原通の北側に松原通は位置し、この辺に海辺の松原が生い茂り、この松原はおそらく和田山の松林に続いていた可能性があります。明治期の地図で示すと

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ここで和田山とは

和田山通、和田山という一丘阜があった、其区域は東西七百十二間、南北五百間、面積十一万四千百九十一坪の松林竹叢であった、中に寺山というて平濶な地もあった、これが輪田寺の址である、後世に福原内裡の跡と見誤られたのはここである、此和田山湊川戦役のとき足利尊氏が上陸して楠氏の退路を扼した所、坪井という地に『尊氏旗立松』という巨木もあった。

この和田山も現在はわかりにくいのですが、摂州八部郡福原庄兵庫津絵図(元禄絵図)がわかりやすくて、

現在は川重関係の工場が立っていて、行ってもサッパリわからないってところです。ここでの理解は和田岬は和田宮も含めた一帯に大きな森があり、江戸期でも1km四方ぐらいの規模があったってところでしょうか。そう考えると須佐の入江は佐比江より西側(西南側)にあったといえなくもないかなぁ。。。そうそう古地図の表記を見ても佐比江には「江」がつきますが、須佐にはあんまり「江」がつきません。須佐は「須佐の入江」と表現されることが多いのですが、これは佐比江が最初から入江自体の地名であったのに対し、須佐が砂洲を指し、入江が砂洲によって形成されていたかもしれません。まあ、想像なんですけどねぇ。