兵庫津ムック4・西摂大観と福原会下山人氏

福原会下山人氏の町名由来記が面白かったので補足編です。検討したいのは

島ノ上町、島ノ上とは築島の上に在る町の名である、築島は平相国清盛の築いたものである、兵庫を経ケ島という、此経ケ島と築島とは同じく清盛の築いたものではあるが、場所は異っている、経ケ島は応保元年に畿内の課役五万人を使役して、塩槌山を取り潰して須佐ノ入江を埋め立てて護岸の工事に着手した、元来兵庫の地を相して一大舟泊地を造らんとの大願を起したのは、中々周密な理想と計画とがあったのである、併し東南の風波には頗る困難な地であるので、埋立の工事は再三失敗に帰した、例の安倍の泰氏が陰陽頭でいた頃、占の結果が人柱を三十人要するとの事で、大問題が起った、松王小児の哀史は此時の事である、畿内の寺々に命じて一切経を一石一字に記せしめて徴発したのも此時であった、人柱という犠牲と経文の功徳という二つが痛く当時の人の脳裡をそそって、空前の大工事も無事に成就したのであった、犠牲となった松王の菩提の為には経ケ島山来迎寺不断院を建立し島成就の供養の為には泰平山八棟寺を建立した、古文書に左の如くある

    泰平山経島山此の両寺修造の儀於其他住持観如和尚と相談にて可然之様首尾能調法可為専要者也
     長寛三癸未孟春十八日
     平和国判
     大納言邦綱卿
大納言とは当時清盛公の股肱の臣で、其上大福長者であった五条邦綱卿のことである、兵庫島築造の時も福原内裡造営の時も所司職であって、中々よく働いた人であった、経ケ島の築造が畢って、第二期の工事は築島の造作であった、これは経ケ島気候から十三年目の承安三年巳正月に成就している、当時此夫役の頭分に兵庫三郎昌保という人があった、清盛から与えた感状に
    摂津国和田築島被為之成就条神妙也働也早縄可有候喜悦焉加之乎
とある、これで以て経ケ島と築島とは全く別であることを呉々もいうておく。

切戸町、これは経ケ島と築島とが後世地続きとなって仕舞ったが、矢張別々であった時の記念の名に切戸を存したのである、鎌倉時代の文書に屡見えておる所の「兵庫経ケ島升米の事」とか「兵庫経ケ島札狩の事」などあるのは築島から船瀬へ入船して経ケ島へついて入津料を払った事をいうのである、此町附近は兵庫の変遷を見る上に最も注意を払うべき地点である。

新町、兵庫の船入場は経ケ島時代の面影が幾分残っていた、新川開鑿の頃に此船入場は埋立てられた、そこに新町は出来たので、幾念経っても新町である、浜新町も同様である。

年代の整合性が今日のテーマです。会下山人氏は明快に築島と経が島は別物と断言されたうえで、島の上町は築島上に兵庫は経が島とされています。その根拠として経が島は応保元年(1161年)に工事が始まり、築島は経が島に引き続いて着工され承安3年(1173年)に完成としています。その根拠として清盛から兵庫三郎昌保に与えた感状を示し

    摂津国和田築島被為之成就条神妙也働也早縄可有候喜悦焉加之乎
ただなんですが通説とこの年代は異なります。通説では承安4年に経が島は着工され、会下山氏のいう「畿内の課役五万人を使役」とはwikipediaより、

実際の工事は清盛生存中には完成せず、清盛晩年の治承4年(1180年)は近隣諸国や山陽道南海道に対して人夫を徴用する太政官符が出され、最終的な完成は平家政権滅亡後に工事の再開を許された東大寺の重源によって建久7年(1196年)になされたとされている。

これに該当しそうな気がします。経が島の工事開始自体を承安4年(1162年)にしている説も多く、会下山人氏の見解と相違します。もう一つ

    泰平山経島山此の両寺修造の儀於其他住持観如和尚と相談にて可然之様首尾能調法可為専要者也
     長寛三癸未孟春十八日
     平和国判
     大納言邦綱卿
長寛3年とは1165年になります。この時に来迎寺と八棟寺(能福寺)の整備が命じられた古記録があるともしています。ここで前に取り扱った能福寺の寺伝によると、

承安2年(1172) 平清盛能福寺菩提寺として泰平山と号する七堂伽藍の巨刹を築く。人呼んで八棟寺と俗称。この頃経ヶ島建設着手

ここは実は寺伝ではなく西攝大観(明治44年(1911)発行、仲彦三郎編の郷土史)によるとなっています。私は兵庫津ムックを書くまで会下山人氏をまったく存じなかったのですが、西摂大観は兵庫津や大和田の泊関連を調べるとチョコチョコ顔を出します。この西摂大観と会下山人氏の関係ですが吉田茂樹氏の神戸における名儀不詳地名の分析

神戸の町名解説については『西摂大観』に福原潜次郎執筆の「神戸市地名考」があり,その後,福原会下山人と名乗って,3)『神戸市内町名由来記(上中下3巻)」を発表されている。これらは主として神戸の旧市内の地名解説であるが,福原会下山人は明治時代からの郷土史家として知られ,神戸に限らず,西摂一帯に幅広く地名の由来を解かれている。部分的に検討の余地があるけれども,早くからこれだけの解説には敬意を表したい。

西摂大観は仲彦三郎の編纂となっていますが、福原会下山人氏も加わっていたの理解で良さそうです。つうか西摂大観の神戸の地名については会下山人氏の手によるもので良さそうです。これもおそらくになりますが、大阪朝日新聞に連載されていた町名由来記も西摂大観の神戸市地名考そのものか、これを踏まえてのものと考えても的外れではなさそうです。グタグタいうより西摂大観を読めば済む話なんですが、国立国会図書館データベース

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つまりネットではまだ読めないってことです。図書館に行く必要があるのですが、ちょっと無精して断片的な情報で考えてみます。検討したい項目を年表にしておくと、

元号 西暦 事柄 出典
応保元年 1161 経が島着工 西摂大観
長寛3年 1165 能福寺・来迎寺の整備 西摂大観
承安2年 1172 能福寺落成 西摂大観
承安3年 1173 築島完成 西摂大観
承安4年 1174 経が島着工 wikipedia
治承4年 1180 太政官符による人夫の動員令 wikipedia
会下山人氏の経が島と築島は別物の指摘は重要な気がします。この指摘が正しければ、現在でさえ混同、いや当時から混同されていた気がします。つまり兵庫津に島を作る工事をすべて経が島に結び付けて記録され、伝承された可能性です。それだけ経が島建設が印象深い大事業だったぐらいに考えますが、経が島と築島が別とすれば上で作った年表はほぼ説明可能と思います。

経が島工事は南東風に対する防波堤工事になりますが、これが難工事になり人柱騒動までになったのは事実と思います。また石に経を書いたのも事実と思います。史上初めての大規模人工島建設ですから試行錯誤もあって当然と思うからです。この経が島建設は応保元年(1161年)に始まって長寛3年(1165年)には既に終わっていただけでなく、築島工事も同時進行で進んでいた可能性もあると考えています。築島工事は経が島工事での技術蓄積がある上に、経が島が出来たことにより南東風による障害が低下するのでかなりスムーズに進んだと考えて良い気がしています。つうか経が島堤防だけ作っても湊として機能しませんから、経が島工事がある程度進んだ段階で港湾施設になる築島建設もスタートしたと見たいところです。

なぜに築島工事も進んでいたと考えるかですが、清盛は能福寺だけではなく来迎寺の整備も命じているからです。来迎寺は通称築島寺と呼ばれますが、おそらく創建以来位置は変わっていません。でもって山号を経島山としています。経が島には人柱伝説だけでなく死傷者が出る難工事だったと見て良さそうですから、その慰霊と鎮護のために山号を経島山とし、港湾機能のある(つまり人が住む予定の)の築島に作ったぐらいの見方です。

長寛3年(1165年)から7年後の承安2年(1172年)に能福寺の完成の記録があるのは、七堂伽藍の大寺であったとされますから建設期間と見て良さそうです。なにせ出典が同じ西摂大観と考えて良いので、着工命令と完成祝いの2つの記録がたぶんあったのだろうです。

さてwikipediaの方ですが、築島建設が1期的に終わらなかった事を示していると考えます。西摂大観で築島完成としているのは1期分のもので、最低限の港湾設備が機能する分の完成を意味している気がします。しかしそれだけの規模では人が住む町には狭すぎるので拡張工事または新たな築島建設の開始を書いているんじゃなかろうかです。探したらwikipedia

治承4年(1180年)2月に譲位して上皇となった高倉の最初の社参が、その年の3月から4月上旬にかけて、従来の慣例[注釈 8]を破って安芸の厳島神社でおこなわれた[注釈 9]。また、この年の春には大輪田泊のあらたな改修が計画された。それまでの改修が平家の私財によったのに対し、今回の計画は国家権力をあげてのものとなった。

まあ治承4年には福原京の建設も行われたので、人夫は大動員されたぐらいは想像できるところです。この第2期ともいえる改修計画は頓挫します。そりゃ治承5年には清盛は没し、源平争乱時代に移るからです。そうやって中断された兵庫津改修工事を引き継いで完成させたのが重源となっています。wikipediaより、

重源が修築事業に乗り出したのは、かれが大勧進として尽力していた東大寺復興事業にこれら港津を利用することが多かったためと思われる[1]。その成果の詳細は不明であるが、鎌倉時代には国内第一の港として「兵庫津(ひょうごのつ)」「兵庫島」あるいは「兵庫経島(ひょうごきょうじま)」と呼ばれるようになり、当時の兵庫津のようすは絵巻物『法然上人絵伝』や『一遍聖絵』にも描かれている。

年代の相違びついての辻褄はこれでおおよそ合いそうな気がします。つまり会下山人氏の説は正しそうだというところです。つうかなんですが、wikipediaだけではなく他の資料も底本は西摂大観ないし、西摂大観が引用した資料から出来ている可能性は十分あり、辻褄が合うのはむしろ当然かもしれません。そんなにたくさんの資料があるとは到底思えないからです。