兵庫津ムック3・経が島はどこだ

兵庫津は確認する限りで60回以上の遺跡調査が市教委によって行われていますが、未だに清盛が築いたとされる経が島の位置は不明となっています。この不明というのが嬉しいところで様々に推測の翼を広げられる楽しさが出てきます。


経が島の巨大さ

経が島の規模や形についても不明な部分が多く、手掛かりは平家物語などになってしまいます。ピックアップしておくと

  1. 規模は36町歩
  2. 形は扇型
これだけでは雲をつかむような話になりますが、とりあえず規模の大きさに目を剥きます。尺貫法の面積や長さは直感しにくいのですが、
  1. 1町とは60間四方の面積を指す
  2. 1間は6尺で、1尺は平安造営尺で0.2999mである
計算を単純化するために「1尺 = 30cm」としますが、1間が1.8m、60間が108mです。ちなみに距離としての1丁は60間であり108mぐらいになります。36町歩は条里制で1里になり、1里は6町四方の面積をさします。メートル法に直すと648m四方になり、約42万?で42haって換算になります。メートル法でもこれぐらいの数値になると、どんなものか実感しにくいと思いますから、実際の兵庫津の地図に1里(= 36町歩 = 42万ha)を置いてみます。地図は兵庫津遺跡発掘調査報告書のものを使わせて頂きます。

20160326164558

36町歩の巨大さを実感して頂けたでしょうか。直感的にデカ過ぎるとしたいところですが、経が島は正確な位置こそ特定できていませんが幻の島ではありません。清盛時代から明治期に神戸港が台頭するまで連綿として栄えていますから兵庫津のどこかに経が島はあるのだけは間違いありません。発掘調査では特定できていないのは冒頭に書いた通りですから、別の角度から考えてアプローチしてみたいと思います。


福原会下山人

別の角度といっても特殊な方法ではなく地図と地名からヒントが得られないかの思いつきです。このうち地図だけでは難しいと思います。兵庫津は清盛以降も開発が行われ、現在どころか明治期の地図でも経が島を推測するのは困難です。もっとも古いとされる元禄絵図でも清盛時代を推測するのは正直なところ無理です。そこで地名との合わせ技で何か出てこないかってところです。ただ地名もいつの時代に付けられたかの考察が必要です。調べ始めたら大きな壁が出てきたのですが、福原会下山人氏の研究が出てきました。福原会下山人氏とは切り貼り帳様より、

会下山人は一八七〇年、同町の生まれ。神戸市内の会下山のふもとに居を構え、太平洋戦争の末期には、郷里篠山に疎開し、定例研究会を開くなど、現在の郷土史研究の基礎をつくった。「多紀郷土史話」や「西摂大観」「有馬郡誌」などの著編書を数多く残して、一九四九年に死亡。

戦前に活躍された郷土史家の先達ぐらいの理解で良さそうです。この福原会下山人氏が大阪朝日新聞に1916.5.9から1916.7.25にかけて町名由来記を連載していたようで、それが神戸大学電子図書館に残されていました。これが実に詳しいうえに興味深くて面白いものでした。読んでもらえれば一番良いのですが、豊富な文献資料を踏まえておられるのはもちろんですが、会下山に住んでいたのはダテではなく、現地での聞き取り調査も併用されているようです。これをモトダネにして考えてみたいと思います。


湊川

湊川には3期あります。

    第1期・・・古湊川和田岬方面に流れていた
    第2期・・・旧湊川、川崎方面に流れていた
    第3期・・・新湊川、会下山に隧道を作り苅藻川に合流させた
湊川になったのは明治ですが、古湊川から旧湊川にいつ変わったのか不明でしたが、

川崎町、湊川は三度の変遷がある、第二期の湊川は川崎の名で何時までも残る湊川を川崎に落ち込ませたのは、慥に天正八年池田信輝が兵庫を城郭地とした時東の要害として設けたためである併し要害の為めに造った川は平和の時代には大の厄介者であって、兵庫の町は此の湊川の川床が年々高くなって、住宅の屋根より上に川が流れるので、一朝大雨のあった節には兵庫の町は湊川の決潰程恐ろしかった事はないので、平素から湊川土堤の警戒は町割にして持ち場が定めてあった、又万一暴雨で横漲決潰の場合には都賀堤へ避難する様にとの心得は三尺の童子にまで警めてあった、

天正8年(1580年)とは荒木村重の反乱が終息し、兵庫津が池田恒興(信輝)の支配となり兵庫城が作られた年になります。恒興の時代は2年ぐらいだったようなので、恒興がすべて作ったのかは確認しようもありませんが、恒興の次の片桐勝元と合わせて兵庫津の市街の拡張整備が行われ、これが江戸期の兵庫津、たとえば元禄絵図の原型となったぐらいの理解で良さそうです。秀吉は流通にも力をいれた人ですから、兵庫津の整備にも関心が深かったぐらいに考えても良いかもしれません。旧湊川の流路は元禄絵図でも確認できますが、古湊川の流路のヒントを地名から拾うとまず古湊通が出てきます。

湊川の水は古湊通の辺へ流れ込みたいのが水の性質と見える、天然の水流に逆らうのが水難を招く原因と覚悟していなくてはならない。古湊通、湊川の流れを川崎の浜に落したのは天正八年の頃と見える、此流れが昔の通り和田へ落ちていた頃には、兵庫の佐比の入江の東に今一つの入江があった、これが即ち古湊の名の残った所以である

湊川は古湊通方面に流れており、そこには入江があり湊でもあったぐらいの解釈で良さそうです。古湊通の入江は佐比江の入江の東側であったのもポイントと見ます。この古湊通からどこに流れていたかですが、

羽阪通、昔は今の八王寺の西一帯の小高い地であったという、彼の平相国が須佐の入江の海面三十町歩を埋め立てて経ケ島を築いた特に、塩槌山を潰したと言い伝えておるが、此塩槌山というのが宇治野山や安養寺の如く独立丘であって、今の羽阪通辺にあったものと見える、埋立に潰した残りの地が後でも少し小高くなって、羽阪と呼んでいた、羽阪の突角が入江に突き出た所が、浜ケ崎とも、針ケ崎とも呼ばれていた、旧湊川は此崎の西手を流れていた、渡り瀬という名があったのも此の為である

経が島の埋め立てに塩槌山を切り崩したのは史実のようですが、塩槌山がどこにあったのかも現在は不明となっています。会下山人氏はこれを羽阪通に特定した上で、切り崩した塩槌山の残りがそれでも小高く残っていたので羽阪と呼ばれただけでなく、古湊川の本流は羽阪の西側を流れていたとしています。西側の本流はかなり幅が広かったようで入江という表現が用いられています。塩槌山があった頃は古湊川は塩槌山の西側を流れていたと言い換えても良いかもしれません。

川にちなむ地名は他にもあります。まず

江川町、江川というのは旧湊川の支流が佐比の入江に流れ込んでいたので其名が起った、此の川は絵下山下から流れて入江に落ち込むまでは、田圃の用水として一働きをした上で其落し水や下水までを一纏めにして入江に注ぎ込むのであるから、入江にある北浜の船繋ぎ場は汚泥塵埃の堆積に苦しんだ、そこで船方からは醵金もし或は奉行所からの助成金をも得て、年々に浚渫した事の記録がある

佐比江にも古湊川の支流が流れ込んでいたようです。天正8年の古湊川の流路変更とは、もともと支流であった佐比江への流れを本流に切り替えたのかもしれません。次に

三川口町、三川口も江川口、永沢口と同じく兵庫の廓外であった、兵庫廓外の水流が此地方い集って東にも西にも南にも分れていた、由来兵庫地方は経ケ島築造以前は水戸川の水脈が網の目のように混乱していた、天平の時代には此辺を総称して宇治の郷と呼でいたのは、渡頭の多い地であったからである、平相国も経ケ島を築いたものの、治水一件には甚だ頭を痛めたらしい、兵庫の七弁天といって、所々に弁天の祠を勧請したのも、治水上の困難した反映と見ることが出来る

三川口町はその名の通り3つぐらいの川が集まった遊水地みたいなところだったと読み取れます。もう一つ、これは前から気になっていた地名なんですが、

逆瀬川町、平家物語重衡落ちの条に逆手川とあるものこれである、逆瀬川は旧湊川の支流で、此川も名の如く随分厄介な川であったと見える、東の御土堰川というのがある、俗にオトヨ川という、都賀堤という御土居の外を流れる川で、柳原が分水地であった、東の水は御土堰川に、西の水は逆瀬川に落ちるのだ、分水地の岡は所謂昔の岡方で此地方は一段高い、清盛時代に花見の岡の御所というのがあったのもここである、又宝積の岡といっていたので、能福寺の山号に宝積山とつけているのも此ためである、此岡の西手に逆瀬川があって、兵庫の浜が満潮になると、河の水が逆流してどうにも始末に困ったと見える、延享五年から宝歴三年まで六年間此川の治水に心血を濺いだ壷屋源右衛門の功績は今之を忘れているものが多いのは甚だ遺憾である。

逆瀬川が古湊川時代からあったのかどうかですが、逆瀬川天正8年に作られたとされる都賀の堤の内側に存在します。つまりもともとは羽阪の西側を流れる湊川本流から分かれて羽阪の東側に分岐する支流だった可能性があります。これが都賀の堤を作るときに改修されて、柳原から和田岬方面に逆瀬川、川崎方面に御土堰川として流れるように変えたぐらいが考えられます。同時に逆瀬川方面を西側に市街を拡張したぐらいの理解で良さそうです。もう少し言えば古湊川時代には逆瀬川町に逆瀬川が流れていたぐらいを想像します。

これぐらいの情報を地図に落としてみると、

20160327092951

あくまでも推測ですが、ポイントは逆瀬川で、天正8年以前は逆瀬川が現在の逆瀬川町を流れていたとすれば、経が島は逆瀬川町の東側に存在していた事になります。


経が島と築島

経が島関連の地名ですが、会下山人氏は興味深い指摘をされています。

  • 島ノ上町、島ノ上とは築島の上に在る町の名である、築島は平相国清盛の築いたものである、兵庫を経ケ島という、此経ケ島と築島とは同じく清盛の築いたものではあるが、場所は異っている、経ケ島は応保元年に畿内の課役五万人を使役して、塩槌山を取り潰して須佐ノ入江を埋め立てて護岸の工事に着手した
  • 大納言とは当時清盛公の股肱の臣で、其上大福長者であった五条邦綱卿のことである、兵庫島築造の時も福原内裡造営の時も所司職であって、中々よく働いた人であった、経ケ島の築造が畢って、第二期の工事は築島の造作であった、これは経ケ島気候から十三年目の承安三年巳正月に成就している、当時此夫役の頭分に兵庫三郎昌保という人があった、清盛から与えた感状に「摂津国和田築島被為之成就条神妙也働也早縄可有候喜悦焉加之乎」とある、これで以て経ケ島と築島とは全く別であることを呉々もいうておく。

会下山人氏の指摘は

    経が島と築島は別物である
従来の大和田の泊は和田岬付近にあり、和田岬が西からの風を防いではくれますが、南東の風に弱点があり、そのために難船することが多かったとなっています。当然ですが清盛の改修計画もこの弱点の改善を主眼に置いたはずです。清盛の改修計画は2段階考想となっており、
    第1段階・・・南東風対策のための防波堤建設
    第2段階・・・海上港湾施設の建設
こうであったと会下山人氏は指摘され、有名な経が島は第1段階の防波堤に位置づけられるとしています。言われてみれば「なるほど」で、港湾建設として2段階考想であったとすれば、あちこちに散らばっている経が島の解釈が説明可能になります。経が島には2つの役割が書かれており、一つは風除け、波除けの目的です。一方で海上港湾施設の目的も書かれています。さらにいえば清盛が完成させたのではなく、これを受け継いだ重源が完成させたともなっています。

経が島が第1段階の防波堤であれば風除け、波除けの目的は正しく、後世になって第2期工事の築島と経が島が混同されたのであれば、清盛が築島まですべて完成させたわけではなく、これを受け継いだ重源が最終工事を行ったとのも不思議はありません。とりあえずの結論としては、清盛時代に第1期工事の経が島は完成し、第2期工事の築島もかなり進んでいたぐらいを考えて良さそうです。次の地名ですが、

  • 切戸町、これは経ケ島と築島とが後世地続きとなって仕舞ったが、矢張別々であった時の記念の名に切戸を存したのである、鎌倉時代の文書に屡見えておる所の「兵庫経ケ島升米の事」とか「兵庫経ケ島札狩の事」などあるのは築島から船瀬へ入船して経ケ島へついて入津料を払った事をいうのである、此町附近は兵庫の変遷を見る上に最も注意を払うべき地点である。
  • 関屋町、これは兵庫関を設けられていた遺址である、兵庫の関は海関で税関の事務所であった、建久七年に東大寺の俊乗坊重源が兵庫の港を改修して其結果東大寺鎮守八幡宮の修復料として兵庫港へ入津の公和船に対して石別一升の課役を徴したのが、永い間の恒例となった

切戸町は経が島と築島の間にあった水路みたいなものを思い浮かべればよいのでしょうか。これが埋め立てられて経が島と築島が一体となったときに地名として残ったぐらいです。この切戸町の東隣に関屋町があります。関屋町は兵庫関の跡となっており、重源の時代に由来が遡るのであれば、清盛時代の経が島ないし築島の上にあったと考えるのが妥当です。でなんですが切戸町は水路で、関屋町は地図上で気持ち南側にあります。切戸町の北側に港湾施設である築島があるわけですから、兵庫関のあった関屋町は経が島にあり、兵庫津に入津してくる船から税金を徴収していたんではないかと考えます。

関屋町の北隣に新町がありますが、

新町、兵庫の船入場は経ケ島時代の面影が幾分残っていた、新川開鑿の頃に此船入場は埋立てられた、そこに新町は出来たので、幾念経っても新町である、浜新町も同様である。

つまり新町は江戸期でも入江であったことになります。入江になったのはそこから奥に続く水路が埋め立てられてしまったからで、元は切戸町からさらに奥に続く水路があった傍証になります。ここまでわかれば経が島の全体像が浮かんできます。防波堤を作るのであれば本来は陸地から延伸するのが常套手段ですが、陸地側には逆瀬川があってそれができなかったぐらいをまず想像します。そのために海上に島を作ることになったわけです。また経が島の東の端には兵庫関が設けれ、そこから入津するのが手順であったと考えて良さそうです。新町の入江の存在を考慮すると、関屋町の北側に入津のための水路が切戸町に向かって続いていたぐらいが想像されます。

関屋町の北側の新町の由来は紹介しましたが、関屋町の南側の新在家町や出在家町に至っては紹介すらされていません。それだけ新興の町なんだろうは想像されるところで、清盛時代は経が島の南側の海だったぐらいに考えて良いかもしれません。これぐらいの知識を地図に落とすと

20160327103206

築島はこのあたりに作られていたぐらいの目安ですが、経が島は明治期の道路に沿うとやや湾曲していた可能性があり、経が島が扇型であったという記録に整合します。


36町歩考

計測してみると、おおよそですが500m×100mぐらいの島になり、面積として5万平米ぐらいで36町歩の記録にくらべると1/10程度の規模になります。この点については36町歩はそもそも巨大すぎる面積あるのは上記した通りですし、防波堤だけに36町歩の島を作るのは余りにも大きすぎ、経が島の北側に作る予定の築島を合わせてぐらいのものをまず想像します。ただ築島を合わせても36町歩にはまだ遠い感じが正直なところあります。ここでなんですが清盛が計画していたもう一つの壮大なプランがあります。幻の和田京計画です。推測図を再掲しておくと、

地名ムックの知識を基に考えると、和田京は羽阪の西側に作るプランであったと考えられます。ただ羽阪の北側に作っても羽阪の西側には古湊川本流が流れています。とにかく湊川は厄介な川で、和田京計画が幻に終わったの一因として湊川の水害の影響はあったとされます。古湊川天正8年に池田恒興によって流路を川崎に変更されていますし、その変更に伴って逆瀬川の流路も変えられたと私は推測しています。清盛も同様の構想を持っていたんじゃなかろうかと思い始めています。和田京を実現するには古湊川をなんとかしないと話が進まないからです。

湊川の流路を旧湊川に変更できれば、兵庫津の西側に土地を確保できます。これは狭いと評判が悪い和田京の拡張が可能になりますし、和田京と兵庫津を一体化した海に向かった都が作れるなんて見方はいかがでしょうか。清盛の大和田の泊の改修計画は第1段階の防波堤の経が島、第2段階の港湾施設である築島に留まるものではなく、第3段階として古湊川の流路変更により、和田京と一体化した新都にする構想があったぐらいです。そこまでの計画が完成すれば36町歩の兵庫津が出現するぐらいです。

本当に清盛がそこまで構想していたかは永遠の謎ってことで今日はオシマイです。