兵庫津は奈良期から整備された名津で清盛・重源の大改修の後も延々と江戸期に至るまで港湾都市として連綿と続いていますし、江戸後期に豪商高田屋嘉兵衛が出現したことでも有名です。そんだけ歴史があるのですが、実際に回ってみると由緒ある建物は殆ど残っていません。そりゃ清盛時代とは言いませんが、江戸期のものさえ皆無に近い気がします。理由は戦火による焼失で良いようです。明治期以降は兵庫津は港湾としての繁栄は神戸港に奪われましたが、一方で川崎重工・三菱重工の二大造船所が作られています。そのために第二次大戦では当然のように戦略目標として米軍の空襲を受けており、兵庫津も炎上したであろうことは誰でも推測できます。
さらに阪神大震災の被害も大きかったようで、寺周りをしたのですが少なからぬところがコンクリート造りになっていました。辛うじて能福寺の本堂の月輪影殿が残っていましたが、これは明治の建物でこれまた阪神大震災で大破したものを修復したもののようです。大破の修復ですから、建て直したに近いぐらいに思っています。それでもかなり立派な建物で、
この能福寺ですが江戸期から場所が変わっていないのは間違いないようですが、由緒は清盛時代どころか最澄開基まで遡ります。私の関心は清盛時代にどこにあったかです。清盛時代の能福寺の位置がわかればそこは陸地であったことがわかるからです。そういうスタンスでムックし始めたのですがちょっと違う方に話は広がります。
これは兵庫津遺跡第52次発掘調査報告からですが、
これも基本は摂州八部郡福原庄兵庫津絵図(元禄絵図)から推測しているものです。たぶん見にくいとは思いますが、原図はA4一枚ぐらいあってこれぐらいの精度でしか引用できないのを遺憾とします。少し注釈を加えたいのですが、湊口惣門から柳原惣門を越えてぐるっと取り巻いているのは都賀之堤と呼ばれているもので、天正8年(1580年)に池田恒興が兵庫城を築いた時に設けられたものとされています。一種の惣構えみたいなものでしょうか。ざっと調べてもそれぐらいしか書かれていないのですが、都賀之堤はともかく兵庫城の築造にちょっと興味をひく話がありました。
ザッとにしますが、能福寺は最澄開基はともかく大発展したのは清盛の保護によるものとして良さそうです。この能福寺の寺伝として、
こんなものがあるそうです。そんな本があるのなら、せっかく能福寺まで行ったのですから買ってくれば良かったと思いましたが後の祭りです。そこは置いといてこの本から必要な資料を清盛の墓はどにあるか様が詳しくまとめられておられるので、大いに参考にさせて頂きます。この本の信憑性もどうかと思うところはあり、たとえば仁安2年(1167年)に、ここについては清盛が病になったのは仁安3年(1168年)であり、出家した時に受戒を行ったのは天台座主明雲となっています。この時の病は都を震撼させたようで、熊野行幸中の後白河法皇が急遽引き返して六波羅で清盛を見舞った話も残されています。つまり清盛は六波羅で病になり、病の平癒のために六波羅で出家したってことです。もっともこれぐらいは寺伝として飾っても良いとは思います。清盛時代に栄えた能福寺は平家没落後は有力な保護者がなくなり苦闘時代に入るのですが、晩年の一遍上人が兵庫津を訪れそこで亡くなります。
一遍上人は正応2年(1289年)に能福寺の観音堂で亡くなったらしいのですが、一遍上人が起こした時宗の勢いは強く、宗祖一遍上人が亡くなった観音堂は時宗の聖地的なものになったと考えて良さそうです。そのために一遍上人の没後から間もない時期に能福寺の西半分を時宗の寺として分割し真光寺としたとなっています。能福寺にすれば庇貸して母屋取られる的な世界ですが、そういう立場に追い込まれたとしか言いようがありません。その真光寺の由緒も調べてみましたが、たぶん小さくはなってはいますが、基本的に場所は移動していないと見て良さそうです。もちろん今だって健在です。
能福寺は寺伝によると
1341年に全焼してから1574年に廃絶するまで200年以上あるので「有力な保護者」いなくとも小規模でも再建はしたのでしょうが、ついに廃絶となり跡地は来迎寺が管理したとなっています。もちろん能福寺は現在も存在しているのは冒頭に書いた通りですが、再興されたのは廃絶から25年後の1599年の伝承があるそうです。ここら辺はハッキリとは書かれていないのですが、この再興の時に真光寺の東隣から現在の地に移転したと考えて良さそうです。再興時に移転することは珍しくもないお話なんですが、それでも「なぜ」の疑問はでてきます。この「なぜ」ですが能福寺ではある程度わかる可能性があります。寺伝にはこんな記述があります。天正8年(1580年)は池田恒興が兵庫城を作ったとされる年です。でもって寺伝ですからこの時は真光寺の隣に能福寺があるとして見てのものと受け取ることは可能と考えます。池田恒興は兵庫築城にあたって市街地を取り壊して城を作ったのではなく、兵庫島(築島)の南側を埋め立てて新たな城池を確保したと私は見ます。まあ兵庫津の命と価値はその港湾機能にありますから、市街地の保全は必要と判断したぐらいに考えます。この築島の南への拡大の結果として従来の築島堀が狭くなり過ぎたために行われたのが「堀を南方へ延ばして入江建設」でないかと思います。兵庫城の位置や規模は発掘調査で元禄絵図に等しいことがわかっていますから地図をにらんでみます。兵庫津遺跡発掘調査の推測図より、
私の推測にすぎませんが、兵庫城を中心にこれぐらいの規模の埋め立てを行ったんじゃないかと考えています。そうやって南に広がった築島ですが、兵庫津は南の入江側にも船着き場を持っていたと考えています。兵庫津の船着き場は来迎寺付近にある築島船入江、佐比江にある川崎船入江がありますが、南側の入江にも持っていても不思議とは言えないからです。これを兵庫城建設のために埋めて立ててしまった代わりに、さらにその南に新たな船入江を作ったのが「堀を南方へ延ばして入江建設」と見るのは無理とは言えないと思います。
この時に真光寺の東半分にあった旧能福寺跡地は召し上げになったぐらいを想像します。召し上げにならなくとも削られたぐらいはあると思います。どうやって能福寺が再興できたかの詳細な経緯は不明ですが、再興時には新たな寺地を現在地に確保したんじゃなかろうかぐらいです。
毎度のことで摂津名所図会ぐらいしか頼れないのですが、
まず元禄絵図から薬仙寺の位置は名所図会の道向かいの気がします。真光寺は示されていませんが、清盛塚や八棟寺のある道向かいの建物がそれに該当するはずです。摂津名所図会は1796〜1798年に発行されたとなっていますから、兵庫城が作られ築島が南に拡張された後の景観を描写したものになります。ここで気になるのは八棟寺が描かれていることです。まあ故事にちなんで書き加えた可能性は否定できませんが、能福寺が1599年に現在地に再興された後に旧能福寺跡に末寺として作られた可能性は残ります。
つうのも八棟寺は能福寺の末寺として書かれていることがしばしばあるからです。能福寺が八棟寺と呼ばれるようになった経緯は寺伝より、
兵庫の里人、福原寺(能福寺の俗称)を忌避し、八棟寺と称す。
こんだけじゃわかりにくいのですが、まず本名はは能福寺だったのですが清盛が大整備して八棟寺と美称で呼ばれるようになったと寺伝にはあります。さらに平家の菩提所になり福原寺というさらなる美称がつけられとなっています。ごく単純には
-
能福寺 → 八棟寺 → 福原寺
元禄5年(1692)年日付の八棟寺除地堂址13.5間×36.5間の文書があり、また、 明治7〜8年築島新堀開設用の川敷として字八棟寺耕地1町6段5畝13歩外一筆の文書もあって、 八棟寺の末路を示す。
この旧能福寺跡は寺伝によると来迎寺管理になったとしていますが、能福寺が移転再興された後に清盛塚の近くにでも能福寺の末寺を築き、それが八棟寺と呼ばれたぐらいの可能性はありそうに思います。とりあえず寺伝をどれぐらい信じるかになりますが、これぐらいは考えても良さそうな気がしています。