兵庫津ムック6・神功皇后伝説と駒ヶ林

福原会下山人氏の町名由来記が面白かったのでまたまた補足編です。


務古水門

神功皇后三韓征伐は伝説の範疇になるのですが、あれだけ広範囲に伝承が残っているところを見ると何らかの事実の反映ぐらいの可能性は残すと考えています。さて兵庫県の摂津部分の古社といえば長田神社、生田神社、広田神社になるのですが由緒を較べてみます。

生田神社 長田神社 広田神社
生田神社の御創建は神功皇后(じんぐうこうごう)元年(西暦201年)と日本書紀に記されており、「『日本書紀神功皇后条巻第9(神功皇后摂政元年2月)」に下記のように記されています。

「吾は活田長峡国(いくたながをのくに)に居らむとす」とのたまふ。
因りて海上五十狭茅(うなかみのいさち)を以て祭(いわ)はしむ。

神功皇后が海外外征の帰途、今の神戸港にてお船が進まなくなったために神占を行ったところ、稚日女尊が現れられ、「私は活田長狭国に居りたい」と申されたので、海上五十狭茅という者を神主として祀られたと伝えられます。同じくこの時に、天照大神の荒魂(あらみたま)が西宮市の広田神社に、事代主神(ことしろぬしのかみ)が神戸市長田区の長田神社にお祀りされたと伝えられています。
神功皇后(じんぐうこうごう)摂政元年春2月、皇后が新羅より御帰還の途中、武庫の水門に於て「吾(あ)を御心(みこころ)長田の国 に祠(まつ)れ」とのお告げを受けて、山背根子の女・長媛(ながひめ)を奉仕者として創祀された全国有数の名大社である。(日本書紀 神功皇后摂政元年条 西暦201年と伝える)古来、皇室をはじめ武門の崇敬あつく、延喜式の制では名神大社 更には祈雨八十五座に列し、神戸(かんべ)41戸もって奉祀護持され、今日の神戸発展の守護神と仰がれている。神戸の地名はこの神戸(かんべ)に由来する。日本書紀に云う長田国は、東は湊川(現新開地)、西は須磨一ノ谷(摂津・播磨の国境)を云い、その中央を流れる苅藻川の中州に奉斎された。現在の長田区、兵庫区須磨区、北区南部を云う。 廣田神社は、神功皇后摂政元年(西暦201年)、国難打破の道を示し、皇子(第15代應神天皇)のご懐妊を告げ、安産を守り、軍船の先鋒となり導き、建国初の海外遠征に大勝利を授けられた天照大御神の御神誨を受けた神功皇后(第14代仲哀天皇のお后・右の出陣図参照)により、御凱旋の帰途、武庫の地・廣田の国(芦屋・西宮から尼崎西部)に大御神の『荒魂』を国土の鎮め外難の護りとして鎮め祭ったと、『日本書紀』に記されている兵庫県第一の古社です
三社の由緒はある意味共通していまして、神功皇后三韓征伐の帰途に作ったとの内容になっています。典拠は日本書紀なので簡単で、

時皇后、聞忍熊王起師以待之、命武内宿禰、懷皇子横出南海、泊于紀伊水門。皇后之船、直指難波。于時、皇后之船廻於海中、以不能進、更還務古水門而卜之、於是天照大藭誨之曰「我之荒魂、不可近皇居。當居御心廣田國。」卽以山背根子之女葉山媛、令祭。亦稚日女尊誨之曰「吾欲居活田長峽國。」因以海上五十狹茅、令祭。亦事代主尊誨之曰「祠吾于御心長田國。」則以葉山媛之弟長媛、令祭。亦表筒男・中筒男・底筒男三藭誨之曰「吾和魂、宜居大津渟中倉之長峽。便因看往來船。」於是、隨藭教以鎭坐焉。則平得度海。

三韓征伐の帰途に忍熊王の謀反のエピソードに関連してのもので良さそうです。忍熊王の反乱を聞いて武内宿祢が応神天皇を抱いて紀伊の水門に向かわせ(武内宿祢は紀伊の出身の伝承あり)、神功皇后は難波を目指したとなっています。あえて航路を推測すれば神功皇后明石海峡を進み、武内宿祢は鳴門海峡から紀伊に向かったぐらいと解釈して良いのでしょうか。この時に神功皇后の船は途中でグルグル回って進まなくなり、務古水門に戻らざるを得なくなったぐらいとしています。そこで神託を立てると

    天照大神:「私の荒魂は広田国にいたい」
    稚日女尊:「私は活田長峽国にいたい」
    事代主尊:「私は長田国にいたい」
これらの神々の願いをかなえたって伝承です。ちょっと問題としたいのはこの時に神功皇后が押し戻された務古水門はどこなのでしょう。どうも説としては武庫川河口説は広田神社の存在と「務古 = 武庫」の音の一致として良さそうです。大輪田の泊については長田神社記

御鎮座に関係して当神社付近に御船山の旧跡あり。又務古水門は現兵庫和田岬周辺とす。

これぐらいが出典の一つように思います。大輪田の泊を務古水門としているのはwikipediaより、

なお、「大輪田」の地名は津泊の意におこるとも理解されており、上記の河尻泊の所在した摂津国神崎川の河口にも「大和田」の地名があるのをはじめ日本列島各地に同様の地名がのこり、そうしたなかで単に「大輪田」といえば概ね務古水門のことをさすのは、この地が古くから最重要港湾として認められていたことを示しているとも考えられる[1]。

これの根拠がわからないのですが「務古 =大輪田の泊」もかなり有力というか定説のように扱われています。まあ歴史としてはどっちでもエエようなものですが、ちと興味を惹いたのが大輪田の泊の西側というか、和田岬の反対側にある駒ヶ林です。


会下山人氏は

駒ケ林、旧名小馬島とある、此地が島であったということは慥に其地形を見ても知れる、即ち現今の駒ケ林の東端東の町出在家町の地は漸々に低くなって、真野の入江の口を扼している、又西の町の西、野田村界も又一段低い、又北方も一帯低地で溝がある、此溝の水は村の中央を流れないで、東と西とに分流している、これ明かに島であった俤が残っているのである、さて小馬は高麗泊りの名から出たので、往古から、駒留松という古木がある、今のは植継ぎではあるが、源氏松とか、茶筌松とか又は二葉松ともいうている、高麗泊り松といったのが最初の名らしい、此地は彼の三韓の貢船が頻年入朝した時代には唯一の舟泊地で、無論大輪田泊りの一部である、海岸近くには鹿の瀬、馬の瀬という二条の潮流が千古変ぜず存しているので如何な大艦巨船でも此水道を利用することが出来る、林とは速吸の意味で潮流を意味したものであろう、又室の津や江口、神崎にある通りの昔の船着場にお定まりの遊君の住んでいた事も此駒ケ林に女郎憐という地名が存しているので知られる、又水の子という地名があるのは何れも水夫どもの居住していた遺跡である、現今にても駒ケ林の水夫は独特の操櫓術を有していることなどは古来の因襲の然らしめた結果であろう、要するに此地は茅渟海沿岸に於て最も早く開けた土地である

会下山人氏は

    此地が島であったということは慥に其地形を見ても知れる
こう明言されていますが明治期の地図を見ても

20160327145501

サッパリわからなかったとさせて頂きます。当時の現地(今でもわかるのかなぁ)に行けばまた違ったのかもしれません。それはともかく

    此地は彼の三韓の貢船が頻年入朝した時代には唯一の舟泊地
もしそうなら三韓征伐が行われたのは「三韓の貢船が頻年入朝した時代」の前ですから、神功皇后が停泊したのは駒ヶ林の可能性も出てきます。つうか大輪田の泊を目指していて引き返したと仮定すると可能性は残るぐらいです。ただなんですが、駒ヶ林が湊であった時代なんてあるのかと思ったのですが駒ヶ林まちづくり協議会に、

駒ヶ林は、奈良から平安時代にかけて遣唐使の出入りが大輪田泊にあったころ、その船繋所であったと言われています。駒ヶ林の地名の由来には、神功皇后が朝鮮に出兵した時に、高麗(こま)からやってきた多くの帆船の帆柱が林のように見えた、あるいは「高麗返し」が転訛したなど多くの説があります。治承3年(1179)年には、平清盛が宮島へ参詣する際に「小馬林」に上陸したとの記述が残され、また源平の戦いでも平家の軍船が沖に集まったといわれるなど、大変古い歴史があるまちです。

どうもなんですが会下山人氏も駒ヶ林まちづくり協議会も微妙な表現を行っています。駒ヶ林のことを会下山人氏は「舟泊場」、駒ヶ林まちづくり協議会は「舟繋場」とし、どちらも大輪田の泊に関連している港湾施設みたいな言い回しです。「う〜ん」てなところですが、探せばあるもので駒林神社の由緒に

当社は務古の水門の一部にあたり治承2年(1178)には平清盛が上陸したとの記録(『山槐記』)もあり、古代の要津であった。そのため、来朝する外国人を検問する玄蕃寮(現在の税関にあたる)の出先機関があり、当社は、その役所内に奉斎された事に始まると伝えられる。

どうもなんですが駒ヶ林大輪田の泊に入津する前の検問所的な機能があったようです。そういう意味で務古水門の一部の表現が使われているで良いようです。正直な話、まったく知りませんでした。ちなみに玄蕃寮は駒林神社の由緒には税関としていますが、お手軽にwikipediaより

度縁や戒牒の発行といった僧尼の名籍の管理、宮中での仏事法会の監督、外国使節の送迎・接待、在京俘囚の饗応、鴻臚館の管理を職掌とした。

税関というより「外国使節の送迎・接待」が主だった気がします。駒ヶ林大輪田の泊は陸路でも近いので、まず駒ヶ林で応接し、その間に大輪田の泊に連絡して本格的な饗応の支度をさせる段取りだったのかもしれません。つうか大輪田の泊の接待準備が整うまで駒ヶ林で待ってもらっていた思います。そうなると大輪田の泊ににも玄蕃寮の施設はあり、駒ヶ林には大輪田の泊のさらなる支所みたいな形態であったとも推測されます。

うんにゃ、そういうケースもあったかもしれませんが、全然違う気もします。当時の外国船がそれほど律儀に駒ヶ林に立ち寄ったかどうかが疑問だからです。別に外国船だけではなく、当時の航海術は風と潮に大きく左右されますから、条件さえ整えば駒ヶ林に立ち寄らずに大輪田の泊に直行すると考える方が自然です。とりあえずの目的地は大輪田の泊のはずだからです。にも関わらず玄蕃寮の施設がわざわざ駒ヶ林に設けられた方を重視すべきの気がします。なにが言いたいかですが、

    大輪田の泊を目指す船は、少なからぬ頻度で駒ヶ林に寄港せざるを得ない状況があった
大輪田の泊に入津するには和田岬を回り込む必要があります。これが結構な航海上の難所で、ある程度の航海上の条件が整わないと難しかったぐらいを想像します。想像も何もこれを解消するのも目的で兵庫運河が明治期に作られているぐらいだからです。つまり当時の航海者の感覚として和田岬を回り込むには、まず駒ヶ林で風待ち・潮待ちして条件が整ってからトライするのが定石ぐらいがあったんじゃないかと考えます。駒ヶ林まちづくり協議会に地名の由来の一つとして「コマカエシ」が挙げられていますが、この意味はひょっとしたら和田岬に挑んだ船があきらめて引き返す事が少なくなかったことを示しているとも思えなくもありません。

さて神功皇后の伝説ですが

    于時、皇后之船廻於海中、以不能進、更還務古水門而卜之
この「皇后之船廻於海中」は駒ヶ林から和田岬を回ろうとして失敗した表現と読めないことはありません。でもって「更還務古水門」とは駒ヶ林に引き返したぐらいに読めないだろうかです。日本書紀が成立した頃には駒ヶ林に玄蕃寮はあり、さらに務古水門の一部として管理されていたと考えられますから、駒ヶ林に戻っても務古水門と表現する可能性は残るぐらいです。


ただなんですが駒ヶ林説には弱点があります。神功皇后伝説が少ない点です。神功皇后伝説は広範囲に点在しますが、書紀に書かれるぐらいのクラスなら駒ヶ林にももっとあって良いと思います。たとえば神功皇后が腰かけた石とか、髪飾りを落とした場所とか、食事を取った場所とかです。つうか占いをやった場所が絶対存在するはずだからです。なにせうちの故郷には御酒を献上したから地名が「みき」になったって伝承があるぐらいだからです。ここも強いてこじつければ、

    而卜之
読み下せば「而して之を卜す」ぐらいでしょうか。この卜した場所が駒ヶ林の陸地の上ではなく、船上であった可能性はありそうです。つまりは神功皇后は船上で占い、その結果を実践することを神に誓うことで、そのまま駒ヶ林で下船せずに大輪田の泊に向かったぐらいです。足跡がないので駒ヶ林の地には神功皇后伝承が生まれる余地がなかったぐらいでしょうか。これに関連するかどうか微妙なんですが会下山人氏より、

三石神社は神后皇后を祭神としてある此祭神をお産の神だとするのは、何れの所でも民俗間に久しく行われている風習である、神功皇后が此地に上陸されたのは、慥かな事実であった、そして三つの神実をここに置き給い、やがて其神実を広田、生田、長田に斎き給うたのである。

しっかし神実とは聞きなれない言葉でググる天理教関係で使われていることが多いのですが、会下山人氏は天理教徒やったんかしらん。そんな事はともかく、これを強引に卜の結果を大輪田の泊で実践したと読めないこともありませんが、一方で三石神社の由緒には

三石神社の鎮座地である和田岬は、神功(じんぐう)皇后摂政元年(200年)、凱旋の帰途上陸され、三つの石を立てて神占いをした結果、廣田・生田・長田・住吉の神々を其の地に祀らしめた儀式の地である。

三石神社になれば、こういう由緒にするよなぁってところです。神功皇后が着いた務古水門が武庫川河口であれ、大輪田の泊であれ、はたまた駒ヶ林であれ「大して変わらない」のだけは確かですが、駒ヶ林が源平期にも重要な湊であったらしい事を確認できたのは収穫でした。