明石城訪問記

歴史的にはさしたる話も残っていない明石城ですが、幻の三木城天守閣話の一角として訪問してきました。とりあえず明石城です。

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向かって右側が巽櫓、左側が坤櫓です。先に明石城の縄張り図も出しておきますが、

明石城は本丸・二の丸・東の丸が丘の上にあり、他の曲輪はその丘の麓を取り巻くように配置されているぐらいの理解で良いかと思います。本丸には天守台はありますが天守閣は築かれることはなく、その代わりに本丸の四隅に4つの三重櫓が建てられたとなっています。現存しているのが画像で示した巽櫓と坤櫓です。この2つの櫓は

    巽櫓・・・調査の結果、新築されたと考えられている。
    坤櫓・・・調査の結果、移築されたと考えられている。
坤櫓がどこから移築されたかについては、

  • 坤ノ櫓は伏見御城ノ櫓ナリシヲ此度公儀より公エ下サレコレヲ建テル(小笠原忠真年譜)
  • 幕府から伏見御城の三重櫓一つ下され、御本丸未申の角に立候也(笠系大成附録)

家康が再建した伏見城の遺構で良いかと思います。二つの櫓のサイズはwikipediaより、

    巽櫓・・・桁行5間、梁間4間、高さ7間1寸
    坤櫓・・・桁行6間、梁間5間、高さ7間2尺9寸

こうなっています。


艮櫓跡

本丸の東北隅にあった櫓ですが現地に行ってみると、

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昭和53年(1978年)に調査が行われたようで、櫓の大きさは4間×5間となっているので巽櫓と同じ大きさになります。明治初期に解体されたとなっていますが正確には明治14年1881年)で、神戸相生小学校(後の湊川小学校 → 湊川多聞小学校 → 湊川祇園小学校)の資材となっています。神戸相生小学校も変遷を見てもらえればわかるように建物どころか、敷地さえ跡形もなく消滅しています。でもって櫓跡ですが、

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どうも石垣の土台があったようです。かなり草が茂り始めていまして「かわりの礎石」らしきものを一つ見つけましたが、本当にそれがそうだと自信がないので画像は控えさせて頂きます。


乾櫓跡

艮櫓跡はまだ案内板があったので助かりましたが、乾櫓跡になると何にもありませんでした。西北隅にあるのは間違いないはずなので、それらしきところに行ってみると

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たぶん「ここ」です。乾櫓も石垣の上に建っていたようです。ちょっと見にくいかもしれませんが、石垣に角があり四角形を構成しています。それと向かって右手から斜面(階段のように見えました)があるのも確認できます。艮櫓の石垣は崩れているというより崩れたのが残っている状態に近いので比較が難しいのですが、どうも本丸は南から北側に向かってやや傾斜しており、さらに西側の方が低いようです。サイズは・・・メジャーを持っていかなかったので不明ですが、見たところ艮櫓と同じか、さらに小さい気がしました。


船上城の天守閣を移築し巽櫓とした伝承がありますが、これは調査によって否定されています。そうなると解体された艮櫓か乾櫓のどちらかの可能性が残ります。根拠としては1階部分の面積が同じしかないのですが、船上城の天守閣は艮櫓じゃなかったかと思っています。小学校の建築資材になぜに艮櫓が選ばれたのか今となっては不明ですが、仮に乾櫓と艮櫓の二択であったなら艮櫓の方が大きかったぐらいを想像しています。もっとも大きさだけなら坤櫓が一番のはずですが、城の正面の2つの櫓は「なんとなく残したい」の意志が働いたのかのかなぁ?


坤櫓と天守台がエライ近い

明石城天守台は作られても天守閣は作られていません。それは知っているのですが、行ってみると天守台と坤櫓がエライ近いことがわかります。

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石垣が天守台なので、ものの10メートルぐらいでしょうか。ほとんど隣接しているのがわかってもらえるかと思います。天守台から坤櫓を見るとどうなるかですが、

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この作られなかった天守閣なんですが、

  1. 最初から天守閣を作る計画はなく、天守台のみ作っただけ
  2. 将来的に天守閣を作る構想だけはあった
  3. 天守台を作った時点で本丸計画が大幅に変更された
もし2.なら天守台の位置と坤櫓の位置関係が少々不自然な気がします。ここまで隣接して作るのは無理があるからです。ちなみにwikipediaでは天守台の大きさからして「もし」作られていたら5層の大天守になったんじゃないかとしていますが、こんだけ坤櫓と近いのなら、姫路城式の連立天守閣構想があったのかもしれません。たぶんそれを踏まえての想像図がwikipediaにありますが、

これの出典が不明なんですが、これも不可解なところがあります。もしこういう構想で天守台が作られたのなら、本丸にもう一段の築山が必要になります。現在も三の丸から本丸に高石垣がありますが、その上にもう一段の高石垣の建築が必要ってところです。そりゃ作れば壮大な天守閣が出来上がるでしょうが、工事費は無限ってわけじゃないしってところです。ほんじゃ現在の坤櫓の位置に大天守を置く予定だったとしたら、なぜに現在地に天守台を作ったんだになります。まあ工事中には様々な思惑があったんでしょうが、結果として残ったのが天守台と坤櫓の妙に近い関係ってところでしょうか。


こんな本丸御殿が本当にあったんかいな?

巽櫓に展示されていたありし日の明石城復元図です。

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この復元図も注釈があって、本丸御殿と三の丸の居屋敷は並立して存在した時期は無く、経緯として本丸御殿が焼失した後に居屋敷が作られたとなっています。それより注目したいのは本丸御殿の壮麗さです。これって天守閣と呼ぶ方が適切そうな気がします。イメージとしては・・・そうですねぇ、松江城天守閣です。完成当時の明石城は巨大な本丸御殿の周囲に4つの三重櫓が設けられていたぐらいになります。たんだですが、本丸御殿はあくまでも御殿となっています。

天守閣の歴史みたいな話になりますが、始まりは天守閣は領主の屋敷の屋根に設けられた望楼であったと考えられています。そう原初の天守閣は御殿であったのです。そういう系譜は日本最初の超大型天守閣である安土城、さらには秀吉の大坂城もそうであったと推測されています。しかし現存する天守閣で内部が御殿のものは存在していないはずです。防御施設としての天守閣と、領主が居住する御殿は途中から完全に分離されています。明石城が作られた元和年間ではそれが常識だったと思うのですが、明石城の本丸御殿は天守閣の古い形態を踏襲しているように感じます。

まあ、これとて想像図になってしまうのですが、もしこんな代物が本当に存在していたのなら、築城責任者の小笠原忠真はなかなかの策士の気がします。明石築城は幕命に基づくもので、幕府も多大な協力をしています。そこで天守閣構想を巡って幕府と忠真の間に駆け引きがあったんじゃないでしょうか。忠真が出した当初案は五層の大天守を中心にした壮大なものでしたが、それを作ると莫大な費用が必要になります。これを幕府が渋ったので、四隅に三重櫓を作ることで妥協する代わりに、天守閣に匹敵するような本丸御殿建設を幕府に了承させたぐらいの想像です。


・・・てな事を思いながら明石公園を散策していました。