幻の三木城天守閣を追う

「無かった」が定説の三木城天守閣ですが、故郷への愛で存在したわずかな可能性を追いかけます。まず別所氏時代はたとえあったとしても、本丸御殿の上に設置された望楼程度であったと考えています。その程度のものを天守閣と呼ぶのかどうかは学問的な分類の話になりますが、我々が一般的に思い浮かべる天守閣がもし存在したとすれば落城後の秀吉による整備改修の時です。存在したかすかな可能性はまず諸国古城之図播磨三木城でwikipediaより、

そこに「天守臺六間四方」と記されていることです。この諸国古城之図ですがwikipediaには

軍学に精通していた安芸広島藩第7代藩主、浅野重晟の命によって作成したと思われている。諸国古城之図の一部の絵図は現地を踏査していなものもあり、原本の粗図を写したものある。

信憑性を疑わせる説明しかないのですが、諸国古城之図には秀吉の平井山本陣の記録も残されています。広島市立図書館より

この平井山本陣なんですが、最近の調査でかなり合致している部分が多いのが確認され、これによって従来の平井山本陣の跡の比定位置が変更になっています。たったこれだけの根拠では何も言えないのですが、平井山本陣の図がそれなりに正確なら三木城天守台が六間四方で本当に存在していた可能性は残ります。想像というより妄想に近くなりますが、浅野家には三木合戦のかなり詳細な記録が残っていたのかもしれません。そりゃ、浅野家の御先祖様も秀吉に従って三木合戦に参加していたはずだからです。ですから強引でも力業でも六間四方の天守台に天守閣が築かれていたと仮定します。つうか六間四方の小さな天守台ならかえって作られていた可能性が「むしろ」あるぐらいの考え方です。

六間とは10.8mぐらいですが、現存する天守閣の中で近いサイズのものは前にも出しましたが丸岡城です。参考までにこれも再掲しますが、

丸岡城の1階部分は6間×7間ですからおおよそこれぐらいの天守閣ならあった可能性は細々ながら残ります。近世城郭の大型隅櫓程度ですからね。


船上城と明石城

三木城は1615年に廃城となり、1618年に始まった明石城の資材に利用されたのは地元の伝承でも残されています。wikipediaにも三木の新町の町名由来として、

1619年に三木城を明石に移築するために参勤交代し、民衆や行列の「かかし道」として道路が出来た場所である。由来は豊臣秀吉によって、1580年に城下集落策をとって、城地を縮小し、城下町を広げたことから名付けられた。

ただ問題は廃城から明石城が作られ始めるまで3年ぐらいあることです。残っていた石垣は運んだとしても、廃城時に主要な建築部は破却されていたとするのが自然な気がします。そうでなければ廃城にする意味がありません。明石城小笠原忠真が築いたのですが明石城の前の根拠地は船上城です。wikipediaより、

元和2年(1616年)には池田光政らは鳥取城に移動(鳥取藩)、代わって小笠原忠真が船上城に入城し東播磨明石藩が新設された。元和5年(1619年)に明石城を築城したため、船上城は廃城となった。

船上城は高山右近が作ったのですが、右近はキリシタン禁制に引っかかって国外追放となり、その後変遷がありましたが池田氏が播磨から国替えになった時に小笠原忠真明石藩10万石として入部しています。当時の明石藩は三木郡も支配しているのですが、忠真が入った船上城の状況も微妙でwikipediaより、

慶長20年(1615年)の大坂の陣大坂城が落城すると、江戸幕府は「一国一城令」で船上城は支城としての機能は失ったと思われている。そして翌元和2年(1616年)には池田光政らは鳥取城に移動(鳥取藩)、代わって小笠原忠真が船上城に入城し東播磨明石藩が新設された。

三木城も船上城も池田氏の支城としてあったのですが、たぶん一国一城令の廃城処分としては同じような扱いを受けていたと思われます。まあ池田氏転封の後に明石藩新設を目論んでいて船上城は残されていた可能性も十分あります。そこら辺は確認できないのですが、確認できないので大喜びで仮説を立てます。小笠原忠真は後の経歴を見ても幕府からかなり目をかけれていた有能な譜代大名であったと思われます。つまり池田氏転封と忠真の明石藩新設は幕府としてセットとして計画されていたの見方です。それだけでなく明石築城もセットだったして良い気がします。wikipediaにある本田家記より

元和六年午の春明石ニ新城を築可申旨、上意ニ而本多美濃守殿右近様御相談、地形見立言上可被成との儀ニ而美濃守明石ヘ両度御方々御見分塩見分塩屋与申処浜ニ少し入江有之ニ一所、亦明石より西かまか坂与申処高き岡あるに一処、又明石人丸山ニ一所御見立有之、御相談之上人丸山ニ極リ

元和6年は1620年になってしまうので元和4年(1618年)の誤記ではないかとされていますが、1616年に入部して1618年に明石築城計画がスタートしていますから、タイムスケジュール的にはやはり当初から明石築城までセットで計画されていたと考える方が妥当な気がします。そうなると忠真が最初に入った船上城はもちろんのこと、三木城も明石城の建築資材として保全されていた(壊されていなかった)としても不思議ありません。建築資材として残されていたのなら、もし三木城に秀吉時代からの天守閣があればその再利用は明石築城計画に織り込まれていたとするのが自然です。


本丸の4つの三重櫓とその伝承

明石城には天守台は築かれましたが天守閣は建設されませんでした。その代わりに本丸の四隅に三重櫓が設けられています。現在残っているのは巽櫓と坤櫓の2つで

この2つは本丸の南側にありますが、北側にも2つの三重櫓がありました。ちなみに明石城の櫓は全部で20ヶ所ありましたが三重櫓は本丸の4つだけです。このうち巽櫓は忠真が明石築城時に船上城から移築したとの伝承があります。ただこれについては明石公園HPに、

昭和57年の大改修で柱や垂木、梁等の木材はすべて統一された規格品による建築物で、当時の最新技術で新築され廃材などは使われていないことが明らかになった。

伝承は否定的と見て良さそうです。忠真が明石築城の前に船上城にそんな立派なものをわざわざ作るとは思えないからです。巽櫓については築城時の新築と私は判断します。もう一つの坤櫓ですが

  • 昭和57年の大改修で、構造上、他から移されたものであることが明らかになり、伏見城からの移築説が裏付けられた。
  • 木目のそろった松の木が多く使われ、移築前の豪華なつくりが偲ばれる。

伏見城の遺構伝承も基本的に根拠はないそうですが、伏見城の廃城が決定したのが1619年で翌年から解体が始まったとなっていますから、明石築城が幕府の肝いりであるのは確実なので可能性はタイミングとして十分あり得ます。この幕府の肝いりについてですがwikipediaに、

本丸、二の丸、東の丸は明石城の主郭部分で、この部分の石垣、土塁、堀などの作事は徳川幕府が担当し、三の丸と町屋に関しては、小笠原氏と徳川幕府の共同事業として進められた。

こういう具合です。可能性と言えば坤櫓は天守閣の代用として用いられたとあり、廃城となった伏見城は家康が再建したものですから由緒から天守閣扱いされた部分はあるぐらいに指摘させて頂きます。


巽櫓も坤櫓も船上城・三木城天守閣との関連性は薄いと判断せざるを得ませんが、船上城天守移築伝承はなんらかの根拠があったと思っています。巽櫓にそれが残ったのは、後世に残っていた三重櫓が2つしかなかっただけで、実は残りの2つの櫓のどちらかがそうであった可能性は残ります。そもそも船上城に天守があったかどうかですがwikipedia

小笠原忠真一代覚書』によると大坂の役までの遺構として、門、塀、殿主(天守)がある。

この天守閣は忠真が作ったと思えません。そうなると高山右近時代からのものの可能性が高いことになります。巽櫓が船上城の遺構の可能性が低い理由は外観からも推定できます。形式は層塔型で高山右近の時代のものとしてはチト合わない点です。改築もされていないことが確認されていますから、確実に否定できます。肝腎の残り2つの三重櫓ですがwikipediaより、

  • 1881年明治14年) - 神戸相生小学校(現在の湊川小学校)の建築用材とするため、北東の艮櫓が解体された。
  • 1901年(明治34年) - 巽櫓と坤櫓の修理が行われ、北西の乾櫓が解体された。また傷んでいた本丸や二の丸本丸土塀が取り壊された。

1881年に艮櫓が解体され、1901年に乾櫓が解体されています。でもってネットで懸命にググったのですが古写真は見つかりませんでした。仕方がないので希望的観測を含めた強引な推理を重ねます。艮櫓か乾櫓のどちらかが船上城天守閣の遺構だったとまず考えます。そこからもう一歩飛躍してさらに残りの一つが三木城天守閣の遺構だったんじゃなかろうかです。理由はコジツケに近くなりますがまず明石城の縄張りを見てもらいます。

太鼓門は大手門と考えてよく城の玄関口にあたります。大手門をくぐると広大な三の丸があるのですが、本丸は高石垣の上にあります。つまり坤櫓、巽櫓は城の真正面に聳える位置になります。今でもJR明石駅からよく見えます。当時も大手門の前に町割りを考えていたはずで、城の見栄えを考えて一番豪華つうか家康由緒の伏見城の遺構の坤櫓を移築し対として新築の巽櫓を据えたとみたいところです。一方の乾櫓、艮櫓は城の裏手にあたります。ここにも三重櫓を置くにしても、人目に付きにくいところですから、船上城や三木城からの移築天主閣で間に合わせたぐらいをまず考えます。

それと様式の問題もあったと思っています。まず天守閣代わりの坤櫓があり、巽櫓はこれに似せながらやや小型にすることでバランスを取ったぐらいです。つうか最低限層塔型として様式の統一性を保ったぐらいに解釈します。一方の乾櫓・艮櫓は船上城・三木城からの移築とすれば年代からして望楼型の天守閣であったとするのが自然です。つまり正面に並べるとマチマチになって見栄えが悪いってところです。明治期になって艮櫓・乾櫓が解体され、坤櫓・巽櫓が保存されたのは、城跡整備として最低限残すのなら正面の坤櫓・巽櫓が良いだろうとの判断が一つ、もう一つは艮櫓・乾櫓の状態がかなり悪かった可能性があります。

坤櫓・巽櫓は解体修理でも確認されたように良材を用いたしっかりした建築です。一方の艮櫓・乾櫓が船上城・三木城からの移築と仮定すれば、時代が時代ですから寄せ集めの材料での急ぎ仕事であった可能性があります。スタート時点から出来上がりに差があった上に、城にはメインテナンスが必要です。明石藩も御多聞に漏れず財政難で、城の見栄えになる坤櫓・巽櫓にはそれなりに手を入れても、艮櫓・乾櫓は可能な限り後回しにされたぐらいは考えられます。その状態の差も明治の保存か解体の差につながった可能性はあります。

あくまでも細い細い可能性を手繰っただけですが、明石城本丸の4つの三重櫓は

本丸三重櫓 由来
坤櫓 伏見城から移築
巽櫓 新築
乾櫓 船上城・三木城から移築
艮櫓
こういう構成であったことは完全には否定できないぐらいです。


消えた伝承

明石城主は頻繁に入れ替わります。そもそも初代の小笠原忠真も1620年に完成させた後、1632年に小倉に転封となっています。その後も50年間の間にクルクルと城主が入れ替わります。これだけ城主が変われば築城時の伝承も失われたり混乱して当然と思います。その中で生き残ったのが

  1. 伏見城遺構の移築伝承
  2. 船上城天守閣の移築伝承
他にもあるかもしれませんが天守閣関係ではとりあえずこの2つであったと思っています。伏見城伝承が残ったのはわかりやすいところです。そりゃ家康の遺構ですから城主が変わってもしっかり伝承されたと思います。船上城伝承は、いうても初代城主だったのでなんとか残ったぐらいでしょうか。ただ伏見城伝承に比べると船上城伝承は変化した可能性がありそうです。現在でも巽櫓が「そうだ」の説が残っていますが、私の検証する限りかなり否定的です。つまり船上城天守閣が移築された伝承は残っても、どの櫓が船上城の遺構だったかは途中から「わからなくなってしまった」ぐらいはあり得ると思います。

三木城天守閣の伝承は・・・あったかもしれませんが、扱いは船上城以下だったとしても良い気がします。いや以下というより伏見伝承と逆で遡れば秀吉所縁の天守閣になりますから、むしろ伏せられる方向のベクトルが働いた可能性さえある気がします。とにもかくにも途中で完全に伝承は失われてしまったと思いたいところです。今日は故郷愛から明治期に解体された艮櫓・乾櫓のどちらかが、秀吉時代に築かれた三木城天守閣の遺構だった可能性が、

    非常に低いがゼロではない
こういう結論にさせて頂きます。古写真がどっかに残ってないかなぁ、自分の仮説にもう少し酔えるのに。