元寇みたいなお話

 作品の都合で調べていたのですが、元寇の時に対馬と壱岐も攻められています。その対馬での戦いです。通説では、対馬守護代の宗助国が迎え撃ったものの、多勢に無勢で助国も戦死しています。この話自体は間違っていないと思っています。ここから疑うと話が一歩も進まなくなります。

 問題は助国が元軍を迎え撃った場所です。通説では佐須浦となっていますし、そこには元軍を迎え撃った助国の騎馬の銅像があります。それぐらい通説と言うか定説なのですが、調べてみると疑問がテンコモリです。

 対馬の中心は今も昔も厳原です。ここには国府もあったはずで、守護代である助国の屋敷もあったはずです。ですが佐須浦は厳原の西側の海岸にあるのです。島の反対側にあって、距離にして12kmぐらいです。

 今は県道があって、そうですね、クルマで20分ぐらいのようですが、当時は山道です。12kmと言えば3里ですが山道なら3時間はかかる事になります。

 なにが言いたいかですが、元軍の船団が佐須浦に現れたのを見て急報を送っても厳原に届くのは3時間後です。どんなに急いでも2時間を切るのは難しいはずです。かなり険しいそうですから。

 守護代屋敷なりで急報を受けた助国が佐須浦に急行したとしてもやはり3時間が必要のはずです。それだけあれば、元軍は上陸を済ませ厳原に進軍中になってるはずです。どう考えたって、浜辺で迎え撃つのは無理になってしまいます。

 そう考えると、そもそもどうして元軍は佐須浦なんかに上陸したのかの疑問が出てきます。元軍の目標は対馬制圧です。対馬制圧をするには厳原制圧を目指すはずです。佐須浦から山越えで厳原制圧を目指したとするのもありですが、そんな小細工をする必要がないと思うのです。

 高麗と対馬の間は交流もあったはずですが、高麗も対馬を目指すなら厳原を目指したはずです。つまり船を対馬に東海岸に沿って南下させる航路です。つうか対馬の西海岸なんて普通は立ちよりもしないはずです。

 それに佐須浦なんて行ってしまうと、船団を厳原に回す必要が出てきます。そのためには、対馬の南側なりを回航する必要が出てきます。そんな手間をかけるより、行き慣れた厳原に元軍の船団を直行させたんじゃないかです。厳原に元軍の船団が来航して上陸をしたのなら、宗助国も水際で迎え撃つのは可能です。

 これはさらなる傍証も加わります。元軍は対馬の次に壱岐に上陸しますが、壱岐に上陸したのは壱岐の北側である勝本とされます。そこから勝本から少し内陸部にある樋詰城を目指したなっています。おそらく樋詰城は守護代屋敷であったはずです。

 勝本は朝鮮通信使も立ち寄ったところで、これもおそらくになりますが、高麗から北九州を目指す伝統的な航路は、

    釜山 → 厳原(対馬)→ 勝本(壱岐)
 こうではなかったかと考えています。なのに、わざわざ対馬では厳原を外して佐須浦に上陸したのは不自然過ぎると考えます。

 ではでは、佐須浦がまったく無関係であったとするのも言い過ぎの気がします。推測に推測を加えることになりますが、厳原で敗れた宗助国は佐須浦に落ち延びようとしたのじゃないかと考えています。助国首塚は佐須浦に近いところにりますが、これがもし自害の場所なら、厳原から落ち延びようとして、そこで逃げ切れないと観念した場所じゃないないだろうかぐらいです。

 だからどうした的なお話ですが、調べながらそう感じた次第です。