ツーリング日和16(第31話)これが映画だ

 あまりの手に汗握る展開に誰もが固唾を飲んでたのだけど、そこで映像は終わっちゃったのよ。だから議員連中から口々に、

「この続きはどうした」
「故障なら早く直せ」
「もったいぶるな」

 そしたらサキ監督は席から立ちあがり、

「この先は皆様のお心一つで決まります」

 みんな黙っちゃったよ。そうだよ。この先のクライマックスはまだ撮ってないんだ。その先は見たいかって、そんなもの見たくない人がこの世にいたら拝みたいぐらいだ。ここから行われる決戦のためにタメにタメまくった筋立てだもの。

 そのために観る者の感情を高ぶらせ、悲痛なまでの共感を掻き立てたんだ。誰もが期待するのは、ここからの決戦でのカタルシス。そりゃ、勝つのは日本軍だ。歴史映画だからね。でも観る者ですら、どううやって日本軍が勝ち、どういう結末になるかの予想は出来ないと思う。

 そうさせないための伏線は十分すぎる程に張りに張り巡らせている。それは誰が生き残るかの安易な予想さえ出来ないはず。史実では少弐景資も、宗盛明も生き残っている。だがこれは映画だ。史実を越える事もあるのが映画だ。

 そこまでの史実を覆すのは禁じ手に近い劇薬だけど、それさえあるかもしれないと観る者に思わせるのも映画なんだよ。それを言えば日本軍が本当に勝てるかの疑問さえ思わせてるはずなんだ。

 こういう結果がわかっている戦争映画は安堵感を与えてはいけない。常に、まさかまさかの感情を持たせ続けるのがポイントだと思ってる。それだけのシナリオを書いたつもりだけど、サキ監督は見事に映像化してくれてる。

 これだけの映像に仕上げるのは容易なものじゃない。だからこそあれだけの撮影期間と莫大な製作費を費やしたんだ。映画は役者が演じるものだけど、役者がシナリオ通りのセリフをしゃべり、シナリオ通りの演技をすれば良いと言うものでは無い。

 それはシナリオの上っ面を映画にしただけだ。シナリオが真に目指すもの、映画にしたい物を全部、それも裏の裏まで読み取らないといけない。サキ監督は名監督だ、これほどアリスの意図を読み取れたのたんだもの。

 このシナリオを書いた時の不安もそこだった。通常は監督の能力に合わせてシナリオを書く。そうしないと、いくら工夫を凝らしても反映されないからね。反映されないどころか、出してほしいところが軽視どころか無視され、勝手な解釈でトンチンカンなところを強調されてしまったりする。

 そういう仕事がシナリオライターだし、そういう扱いをされてしまうのがシナリオなのはたっぷり学習したもの。だから誰がどれぐらいの予算で、どれぐらいの期間で撮るのかにフィットさせて書いて来たんだ。

 今回はコンペだから、そのリミットを外してみた。あははは、後は野となれ山となれの気持ちで存分に書いたもの。あんなシナリオがそのまま映像化できるなんて絶対に無理と思ってたものね。でもサキ監督はやってくれた。

 サキ監督はシナリオに忠実だったけど、その手法は滝川監督に似ているところがある。似ているどころか根本は一緒の気がする。滝川監督のシナリオ無視は有名だけど、あれはシナリオに相応しい出演者がいないからのはずなんだ。

 だからシナリオより出演者の個性を重視する。個性というより出演者の人としての本性をだ。その本性に一番フィットした映画を撮ってるとして良いと思う。そんな手法で映画が撮れて、これをヒットさせる手腕はまさに鬼才だ。

 サキ監督も実は出演者重視の手法なんだ。映画は出演者が活き活きと動いてこそのものが信条だもの。二人の違いは、滝川監督が出演者にシナリオを合わせるのに対して、サキ監督はシナリオに出演者を合わせるんだよ。

 そうだな、シナリオで産み出した役に出演者をはめ込み、育て上げると言えば良いかもしれない。それも一切の妥協なく、サキ監督が気に入るまで果てしなく行われる。だからあれだけ短編映画の評価が高いのだと思う。

 サキ監督はその短編映画の手法をそのまま長編戦争アクション大作に当てはめてる。長編、しかも戦争アクション大作ともなれば、出演者の数も膨大なものになる。対馬や壱岐だけでも千人単位だったはず。

 サキ監督の演出は一言にすれば驚異の重箱だ。こういうシーンではエキストラが動員される。鎌倉時代なら下人になり、戦国時代なら雑兵だ。数の動員が必要だから、ここの演出はどうしても手薄になる。

 サキ監督はそれが許せなかったで良いと思う。対馬の合戦からロケが始まったのだけど、元軍の上陸から守護代屋敷の攻防戦を三回も撮り直してるぐらいだ。三回だぞ、三回。こんなもの信じられるものか。

 あのシーンの撮影のために当時の府中の街並みと守護代屋敷を作り、撮影の時にはこれを大炎上させている。そうだよ、撮り直しとなれば、そのオープンセットをまた作り直さないとならいんだ。それを二回もやらせるなんて狂気の沙汰だよ。

 でもサキ監督のこの作品に懸ける気迫は出演者にもスタッフにも浸透してる。合戦シーンとなれば多人数が一度に映るのだけど、その画面の端っこの半分ぐらいしか映っていない下人役からも殺気が画面から噴き出すようだった。

 それが画面いっぱいにいるんだよ。どれだけのド迫力になっていることか。それに感心したのは、その殺気溢れる様子は元軍も変わらないんだよ。こんな殺気溢れる両軍の激突に圧倒されるのは当然だ。

 対馬や壱岐だけでもそれぐらいだから、これから始まる博多決戦がどれほどのものになるかなんて、手に汗握り、固唾を飲むしかないじゃない。そうそう、サキ監督と難産の末に産み出した清姫だけど、わざわざ尾崎美里を引きずり出した理由が良くわかったよ。

 とにかく合戦シーンの多い血腥い映画だけど、清姫は清涼剤と言うか、戦場に咲く一輪の花として映えまくっている。盛明との恋、対馬での生死を心配する様子。そして大宰府での再会。

 大宰府で親兄弟、さらには友である景隆まで犠牲にして生き残ってしまったことは慚愧する盛明を、優しく包み込み、勇気づけ、さらには奮起までさせるシーンは夢見るように美しかった。

 清姫のクライマックスシーンは、大宰府から博多に進む日本軍を都門の上から見送るシーンになる。都門の上に姿を現した清姫は光輝くオーラをまとっていた。言うまでもないけどチャチなCGなんて使っていない、尾崎美里の演技がそう見せるんだ。

 それを見ただけで日本軍兵士の表情が変るのだけど、あんなもの見せられたら変わらない方が不自然だ。そうだな、勝利の女神が祝福を与えてるシーンとして良いと思う。この時に最後に副えた、

『御武運を』

 これは日本軍全体へのものではあるけど、同時に愛する盛明が生きて還って来て欲しいの切ない女心も表し切っていた。そこまで演じられた尾崎美里も凄かったけど、あれは尾崎美里じゃないと無理じゃなかったかと思うぐらい。

 演技で意思を伝えるのはセリフが多いし、映画史に残る名セリフも幾つもある。だけどね、セリフだけで意思伝達をさせると薄っぺらいものになりやすい。どんなセリフも、そのセリフが出て来る状況の積み重ねで出てくるんだよ。

 そこまではシナリオや演出が作り上げる状況だけど、見せ場のセリフは役者の演技力の差がどうしても出てくる。ここもその場の役に完全になりきり、演じるのじゃなく魂の叫びになっているものが心に響くと思ってる。

 これだって単なる感情移入じゃなく、その場のそのシーンに魂までなりきるぐらいと言えば良いのかな。尾崎美里はあそこまで出来るのだと驚嘆したもの。そりゃ、滝川監督があそこまで抜擢した理由がよくわかったもの。

 映画はね、人が動き、人が話す芸術なんだよ。似たようなものに舞台はあるけど、似ているけど違う。舞台はあくまでも舞台の上だけで演じるものだ。映画はそれをもっと拡大した総合芸術だと個人的に思ってる。

 舞台と映画の芸術的優劣を論じる気はないけど、舞台芸術の要素の多くを含んでるのが映画だと思うもの。もっとも駄作も多い。だから舞台に遥かに及ばない作品だって山のようにある。でもこれこそが映画だと思う。ここまで出来るものこそが映画なんだよ。


 試写会場は重い沈黙が支配してた。誰が口火を切るかと思ってたけど、後で聞いたら反対派のボスみたいな議員だったらしいけど、まさに絞り出すような声で、

「これを完成させずに終わらせると博多っ子として死んでも悔いが残る」

 そこから口々に、

「見たい」
「完成させるのは我ら博多っ子の責務じゃないのか」
「私は追加出資案に賛成だ」

 そんな声が次々に広がって、最後に山之内市長が、

「この映画は博多っ子の宝になる。なにとぞ議員諸氏の御賛同を頂きたい」

 すると試写会場から、

「異議なし」

 この声が巻き起こり広がって行った。文句なしで追加支援が決議されて撮影は続行になってくれた。サキ監督に試写会の後で話を聞いたのだけど、

「まあ賭けだった。監督交代の声もあったからね」

 やっぱりあったのか。製作が難航し暗礁に乗り上げてしまった作品は過去にもいくつもあるのだよね。低予算映画ならそのままお蔵入りもあるだろうけど、大作クラスになるとそうはいかない。そこで撮影を中止したら、巨額の製作費をそれこそドブに捨ててしまうことになるもの。

 そういう時には撮影分だけで編集して一本の作品として公開する事もあるし、監督を交代させて、なんとか辻褄を合わせてデッチ上げるのもあるんだよ。まあ、サキ監督に撮らせていたら費用と時間が青天井状態だものね。

「だから挑発してまで見てもらう必要があった。ここまで撮れているサキの完成版を見たいかどうかの問いかけだよ。少しでも映画を見る目があれば、見たいはずだと思ったんだ」

 よくやるよ。

「まあ黒澤明のマネをしただけだけど」

 その話なら聞いたことがある。代表作の撮影がとにかく難航し、撮影予算も使い果たした黒澤は、会社に追加予算の要求をするのだよね。会社だって渋い顔なんてものじゃなかったそうだけど、あれこれ交渉の末に、

『ここまでのラッシュ分だけでも見せてみろ』

 こんな話になり、試写会が行われたんだけど、やはりクライマックスの寸前でフィルムが終わり、

『後は撮ってません』

 こう言ったとか。次がどうしても見たい会社はあきらめて予算措置を行ったとか。もっともこの時の黒澤はすでにヒットメーカーの地位を確立していて、会社に渋られても必ず予算は出すはずと高を括っていたともされるけど、

「サキの場合は完全に賭けだ。黒澤とは地位も実績も遥かに及ばないからね」

 だからって訳じゃないけど、黒澤はラッシュの試写会を無駄な時間と鼻で嗤ったとなってるけど、サキ監督の場合は試写会に持ち込むように誘導した賭けだったで良さそう。

「なんとかなるとは思ってたよ。あれでダメならサキの限界だ」

 それだけの出来栄えではあったけどムチャも良いところだ。

「サキはね、やっと本当の映画を撮らせてもらってる」

 なにが本当の映画かなんて議論があり過ぎるところだけど、サキ監督は映画とは絵が動くアートとまずしていて、さらに大画面の映画館で見て真価を発揮するアートと考えているよう。その大画面いっぱいに活き活きと人が動くのが映画ぐらいだ。

「その特性を思い付く限り活かさないとアリス君のシナリオは撮れないの」

 合戦シーンとかはそうなりそうだけど、それにしてもやり過ぎだ。

「そう思われてるのは知っている。でもね、これを撮れと言われてると思ってるの。こういう映画を撮るのが映画に携わる人すべての夢なのさ。これこそが映画だから出来る表現じゃないか。そのためにはなんでも出来る」

 そうは言うけど裏方は大変なんてものじゃなかったはずだ。あれだけの撮影延長の役者たちのスケジュール調整。大人数のエキストラの調達。それよりなにより製作費の確保だ。そうやって駆け回るのを東奔西走と言うけど、それこそ文字通りのものだったはず。原田プロデューサーにも話を少ししたのだけど、

『この映画に携わらせて頂いた幸せに比べれば、苦労なんて無いのと同じです』

 そうそう、これからクライマックスだけど、男優陣は馬に乗れるようになってるんだよね。それだけじゃなく、馬から弓を放てるようになってるのまでいるもの。ここはスタントでも良いところだけど、スタントに頼る部分は可能な限り小さくしたい意気込みみたい。

 それと決戦シーンは空前のものになりそう。なにしろ五百頭の馬が集められるとか。どうして五百頭も必要なのかと聞いたのだけど、

「日本軍は五千人の設定でしょ。一騎に十人の歩兵だとしたら五百騎じゃないの」

 ひょぇぇぇ、じゃあ元軍は一万人とか。

「そこまではさすがにね。一万人がカメラの入るシーンはさすがに撮れないもの。でも本当に不思議なシナリオだ。本物に拘ればこだわった分だけ映画が良くなるのだから」

 試写会で見た映像にもCGは殆どなかったんじゃないのかな。少なくともアリスが『あれはCG』なんて気づいたところはなかったもの。どこかにあったはずだけど、実写がほとんどの気がする。

 こうやって予算を確保したサキ監督はクライマックスの博多決戦の撮影に突入。公開は正月も当たり前のように延期となり、三月にようやくクランクアップ。クランクアップとは撮影終了は意味するけど公開を意味しないよね。

 そこから編集作業に入る事になる。そうそうあの試写会の時はまだ音声だって同時録音の声のみで、効果音やBGMはまだだったんだ。それをすべて盛り込むのが編集作業だ。ついにGW公開どころか、元寇博の開会にも間に合わず、夏休みになってやっと公開された。