元寇みたいな話 その2

 文永の役、弘安の役と二度に渡った元寇ですが、本格決戦があったのは文永の役だけだったと考えています。この合戦の様相は私が遠い昔に覚えたものなら、

    百道原に上陸した元軍に対し、日本軍は麁原山に本陣を置いて迎え撃った。一騎打ち戦法の日本軍に対して元軍は集団戦法で優位に立ち、さらに鉄砲を繰り出してきた。押された日本軍は麁原山の本陣まで攻められ、さらに赤坂を守り切れず元軍の博多侵入を許してしまう。

    敗れた日本軍は水城まで後退を余儀なくされたが、元軍はなぜか船に引き上げ帰国しようとする。そこに嵐があり大損害を喫した。

 これは八幡蒙童訓がモトネタだそうで、他に戦いの詳細を記録したものがないので、これが真相と長い間信じられ、わたしもそれを覚えたぐらいです。この従来の説の最大の問題点は、

    元軍謎の反転
 ですが最近になって新しい説が出ているようです。まずですが、元軍は博多の西部に上陸はしたはずです。これは当時の地理的な基礎知識になりますが、博多の西側の丘陵地帯が赤坂(福岡城のあるあたり)で、赤坂の西側は寒村があるぐらいのイメージです。

 なにぶん推測の多い話で、この時に元軍は博多への敵前上陸も行った説もありますが、私は日本軍の主力が博多方面にいるのを海上から偵察し、手薄な博多西部から上陸をしたと考えています。

 上陸した元軍は博多を目指します。その時にポイントになったのが赤坂です。ここも説が分かれるところで、元軍の博多進出を予想して部隊を配置していた説と、元軍の赤坂出現に対して日本軍が動いた説もあります。

 そして赤坂で両軍が激突。これも主力決戦というより元軍の先鋒部隊との戦いじゃなかったかと推測していますが、これを日本軍は撃退したとなっています。

 撃退された元軍は赤坂から程近い麁原山で体勢を立て直します。おそらく後続部隊も加えて迎え撃つ体制ではなかっとかと考えています。この戦いは双方が死力を尽くす激戦になったようですが、この時に日本軍にラッキーが起こります。

 参陣が遅れていた肥前の軍勢が駆け付け、ちょうど元軍の側背部を衝く格好になったようなのです。これにたまらず元軍は崩れ百地原に敗走です。

 つまりって程の話ではありませんが、この日の戦いで日本軍は上陸して来た元軍に押し飼っていた事になります。かなりの規模の会戦ですから、人的被害も出たでしょうが、矢などの消耗も激しく、再上陸戦を断念して帰国を試みたぐらいでしょうか。


 この日本軍が勝っていたの説は説得力があります。元軍の戦略目標は大宰府であったはずです。百道原から大宰府まではおおよそ六里ぐらいあります。つまりは歩いて六時間ぐらいですが、この距離を待ち構える日本軍を蹴散らして進もうとするのは無理があり過ぎます。

 だから従来の説でも博多まで進んだぐらいで謎の反転を行います。ですが本当に勝っていたのなら、素直に考えて元軍の作戦通りです。翌朝を期して水城に攻めかかり大宰府を目指す以外に考えられません。そのために高麗から海を渡って来たのですから。

 ですが上陸戦が失敗に終わっていたのなら話はシンプルで、自軍の損失を鑑みて再上陸戦を行っても勝ち目はないと判断しただけでになります。その帰国途中に海が荒れて大きな損失が出たのは日本軍にとってラッキーでしたが、そこはボーナスみたいなものでしょうか。

 そうなると話の焦点は、どうして日本軍が勝ったのかの話になっていきます。