ツーリング日和16(第16話)古戦場跡

 フェリーは芦辺港に定刻通りに十一時五分に到着。壱岐に上陸したのは嬉しいけど、なにか寂しい港だな。

「フェリー乗り場はこういうとこ多いよ」
「一日二便じゃ栄えようがないじゃない」

 それもそうだ。さて壱岐を走るぞ、

「まずメシや」

 ちょっと早いけど、こういうところって適当に走っていると食いはぐれる事があるのは対馬で学習した。だってお昼に中華屋さんに行ったけど、ツシマヤマネコを見て戻って来るまで一軒もなかったもの。

 港のあるあたりはそれでも街になってるから、この辺でゲットしておかないとヤバそうな気はするのよね。壱岐の郷土料理と言えば、

「なんやろ」
「やっぱりウニじゃない」

 ウニは好きだ。でも昼からウニはどうだろ。いくら壱岐でもウニは高いはず。港から走り出したんだけどすぐに、

「ここに行くで」

 な、なんだこの店は。でっかく壱岐牛って書いてあるけど、これって食い物屋なのか、でも肉屋にも見えにくいな。強いて言えば田舎のカラオケ屋とか。なかは小上がりの座敷とテーブルがあるから食堂だと思うけど、今から焼肉を食べるとか。

「焼肉でもエエけどステーキや」
「壱岐牛も有名なのよ」

 ステーキだって。それはそれで嬉しいけど、ステーキにしたら高級感はないな。

「サーロインステーキ」
「ヒレステーキ」

 アリスもつられて特選ロース定食にした。なんか微妙な値段だな。ランチにしたら高いけど、ステーキにしたら安い感じって言えば良いのかな。食べたら美味しいじゃない。店の見た目と全然違うもの。これなら安い。

「ワインが欲しいんやが昼やから我慢や」

 壱岐牛を腹に詰め込んで、さて向かうのは、港から北に向かうみたいだけど、

「突き当たって右やな」

 男岳石猿群ってなってるけど、猿の石像の大群でもあるのかな。まただ、道が怪しくなって来てるじゃない。でも二キロってなってたから・・・ついに一車線じゃない。

「男嶽神社や」

 とにかく由緒がありすぎる神社みたいで、古事記にも出てくるそう。やたらと猿の石像が目に付くな。展望台もあったから見晴らしたけど、

「ここで標高百六十メートルやねん」

 丘に毛が生えた程度の高さだけど、

「他もあんまり高いとこあらへんやろ」

 言われてみればそうだ。

「だから壱岐は大変やったでエエと思うねん」

 元軍は壱岐でも大虐殺をしたとなってたけど、

「ガチでやったみたいやねん。そやから壱岐で先祖をたどっても、元寇より前には遡らんともされとる」

 対馬もそうだけど壱岐も二回も占領されてるものね。壱岐がより酷い目にあったのは逃げるにも山が浅かったからなのか。

「もしかして大虐殺をやらかしたのは兵糧確保のため?」
「無理あるけど可能性だけはあるな」

 どういうこと。

「文永の役は新暦の十一月やねん」

 元史によるとフビライは一月に船団造営を高麗に命じ、六月に完成させ、八月にはモンゴル人の都元帥のクドゥンが着任したとなってるそう。軍勢も五月には集まったとなってるけど、

「そやけど攻めて来たんは十一月や。そりゃ、船団の訓練とか、兵糧や兵器を調達して、それを積み込む作業があったとしても遅すぎる気がするねん」
「ついでに言えば文永の役には台風は来てないよ」

 十一月に台風はまずないものね。でもさぁ、十一月だからと言って兵糧と住民虐殺は関係ないじゃない。

「十一月やったら作物の取入れが終わってるやん。そやから略奪するのに都合がエエやんか」
「兵糧と言っても食糧でしょ。食べる人が多いと減るじゃない。だから口減らしもしたかったんじゃない」

 あのねえ、そんなことのために、

「口減らしはあんまり関係あらへんと思うけど、食料を奪われたら飢えるやんか。飢えたら生きるために反抗するのは世界共通や。反抗が起こらんようん殺してもたんやろ」
「反抗の火種が大きいほど残していく守備隊を大きくしないといけないものね」

 元軍って人か、

「いやムクリコクリや」

 ムクリとは蒙古人、コクリとは高麗人を指すみたいだけど、

「モンゴル人はほとんどおらへんはずやから、高麗人以外の元人をムクリとした気がするわ」

 まさに鬼畜にも劣る所業だ、でもこんな島で取れる食糧なんか知れてるじゃない。

「壱岐は対馬とちゃうねん。対馬は米が五千石も取れへんとこやけど、壱岐は三万石以上やねん」

 コトリさんはあくまでも、そういう可能性も十一月に攻めて来た理由になるかもしれないとしてた。その元軍が上陸したとされてるのが島の北側の勝本のあたりらしい。

「ここら辺もようわからんかった。壱岐国府は島の中心からやや南になる興神社あたりらしいとされてるけど、元寇の頃には廃っていたでエエみたいやねん」
「勝本は江戸時代には朝鮮通信使の接待屋敷があったから、半島から来る時の玄関口だったのかもしれない」

 男嶽神社から引き返して十分もしないうちについたのが文永の役新城古戦場跡だけど、田んぼ中にあるささやかなもの。

「ここは壱岐にある六つの千人塚の一つで一番有名なもんやそうや」

 千人塚が六つもあるって、どれだけの虐殺よ。古戦場のほんの近くにあったのが新城神社だけど、

「ここが、文永の役の頃に守護代やった平景隆の樋詰城があったとこやとなってるねん」

 城って言うけど平地じゃない。

「城というより守護代屋敷やってんやろな」

 この一帯は勝負坂、唐人原、射場原、射矢本、勝負本、対陣原といった文永の役に関連しそうな地名と、実際に合戦があったとされる高麗橋、鯛の原もあるから古戦場跡に指定されてるらしい。現実の合戦は、

「八幡蒙童訓には、景隆は百余騎を率いて戦ったぐらいしか書いてあらへん。壱岐の伝承はもうちょっとあって、迎え撃った景隆はここからもう少し南の庄の三郎ヶ城まで落ち延びて自害したともなってるねん」

 対馬も壱岐も元寇では鎧袖一触みたいな扱いしか受けてないけど、

「壱岐の伝承の真否なんてわからん。そやけど、ある程度の信憑性を置くと考えると・・・」

 まずだけど、十月五日に元軍は対馬に上陸してるけど、壱岐に上陸したのは十月十四日なんだ。日数があるから対馬からの急報が届いていた可能性はあるとしてた。日数があれば守護代である平重隆は壱岐の全兵力に近いものをかき集められたかもしれないって。

 それにあれだけ古戦場ぽい地名が点在してると言うことは、それだけ広い範囲で両軍は戦ったのかもしれいかもって。それって、

「全部の地名を訪ねる時間はあらへんし、当時と今がどれだけ違うかなんて調べるのも大変すぎる。そやけど元軍が来るまでにそれなりに時間があったら、急ごしらえでも防御施設を作とったんかもしれん」

 上陸して来た元軍を要所要所で向かえ撃ちながら後退していく感じかな。

「多勢に無勢もエエとこやったんは結果が示しとるけど、元軍かってそれなりに損害が出たんちゃうやろか」
「損害に怒り狂った元軍が大虐殺ね」

 最後のところが救われないけど。

「あのな、戦争に略奪や虐殺はセットみたいなもんや。とくに外国が相手やったらそうなるねん。モンゴルやのうても皆殺しとか、辛うじて生き残っても奴隷に叩き売られるのがこの頃の戦争やねん」
「戦争に負けるってそういうことよ。だから戦争になったら、なにがなんでも勝たないといけないの。戦争はスポーツじゃなく殺し合いなのよ」

 女がどうなるかは定番か。