ツーリング日和16(第8話)八幡蒙童訓

 朝食はお寺の朝食だったけど上品だったかな。まさか座禅体験とかやらかすかとヒヤヒヤしたけど、

「宗派が違うのよ」

 だったら泊まるなよ。やっと本格的な対馬ツーリングだけど、アリスがまず行きたいのは、

「みなまで言うな。わかっとる、わかっとる」

 だいじょうぶかな。厳原から国道三八二号を北上して、

「小茂田って方に行くで」
「次の信号を左ね」

 ここからは山越えで島の反対側に向かってくれた。目指しているのは佐須浦のはず。

「その通りやねんけど、ホンマかいなと思うとこはあるねん」
「だよね。ソースが八幡蒙童訓だもの」

 南港からのフェリーの時にも出たけど、その八幡蒙童訓ってなんだ。

「まずやけど歴史には合戦の結果は記録されても合戦の詳細な様子は記録されへんねん。たとえば一の谷の合戦で鵯越の逆落としは有名やけど、どこを義経が下って、どこに奇襲をかけたんかもわからんぐらいや」
「そうよ。桶狭間の合戦だって、信長が善照寺砦から中島砦まで移動したまでは確認できるけど、そこからどこをどう通って義元本陣に襲いかかったかも不明なの。ついでに言えば義元の本陣がどこにあったのかもね」

 そうなんだ。元寇も似たものらしくて、その中で唯一合戦全体の経過まで記録に残されてるのが八幡蒙童訓なのか。

「だから長いこと実際もそうやったと信じられとってんけど、最近では歴史資料としては役には立たんとなってるねん」
「そういうこと。あまりにも作者の意図が入り過ぎ」

 どういうことかと思ったけど、原因は元寇の後だったんだって。とりあえず勝ち戦だから誰もが御褒美を欲しがったのか。蒙古襲来絵詞が作られたのもそういう理由だものね。八幡蒙童訓は石清水八幡宮の神官が書いたみたいだけど、

「日本中の寺社が必勝祈願やっとるようなもんやんか。寺社が御褒美貰おうと思たら、祈願が神なり仏に通じて加護があった理屈にせんとあかんやろ」
「だから武士たちは必要以上に苦戦したとされて、その時に神風が吹いて日本が勝ったストーリーを作ったのよ」

 なるほどね。神風の話はアリスだって知ってる。日本軍が苦戦しているところに都合よく台風が来てくれたぐらいの話だよね。その台風を呼び寄せたのが寺社による必勝祈願だから御褒美寄越せみたいな話ってことなのか。

 ここでなんだけど対馬も元軍に攻められたけど、その戦闘記録の詳細が書かれているのが八幡蒙童訓だけなのか。たしか元軍に立ち向かった対馬の守備隊は全滅したみたいな話になってたと思うけど、あれも空想の産物だったとか。

「そこまでは言わん。元軍は対馬に上陸してかなりの虐殺をやったんは史実やろ」
「後々まで語り継がれるぐらいだもの」

 元軍の言うよりモンゴル軍は世界帝国を作ったけど、敵国を征服するのにしばしば大虐殺をしてるのよね。敵軍が皆殺しにされたとか、占領されたら人口が半分どころか三分の一になったとか。

「ホンマにやったとこもあるはずやけど、そういう大虐殺をするのも謀略として使ったんもモンゴル軍やねん」

 逆らえば皆殺しされるの宣伝で戦わずして相手を降伏させてた部分もあったのか。だから対馬に上陸して虐殺をしていてもおかしくないし、

「口碑として今も残ってるわ」

 じゃあ、どこが疑問なの。

「なんでわざざわざ佐須浦に上陸したかや」
「水先案内は高麗人じゃない。対馬なら厳原を目指すはずでしょ」

 言われてみれば。今でこそ県道もあって、距離にして十二キロぐらい、バイクなら二十分ぐらいで行けるところだけど、元寇の頃なら山道も良いところだったらしい。今でも古道の跡が一部たどれるみたいだけど、コチコチの山道みたいらしい。

「高麗人かって対馬への航路を知っとっても、佐須浦から厳原への道まで知らへんと思うで」

 高麗人も対馬に来てたはずだけど、目指すなら国府も守護代屋敷もある厳原を目指すはず。この厳原を目指すと言うのもポイントみたいで、

「厳原に行くんやったら船を対馬の東海岸に沿って南下させるはずやんか。そやから西海岸なんてあんまり知らへんと思うねん」

 上陸作戦として、人の少ない守りが薄いところを選んだぐらいの理由は付けられないこともないけど、

「これが対馬攻略だけが目標で、兵力がもっと少なかったら、それもありや。そやけど対馬なんか行きがけの駄賃みたいなとこやんか」

 目的は博多だから、少々の損害より時間が優先されるはずか。言い出したらキリがないかもしれないけど、対馬攻略とは厳原占領みたいなもので、たとえ佐須浦から上陸しても厳原に船を回さないといけないのよね。

「それとホンマに佐須浦に元軍が上陸しとったとしても、八幡蒙童訓みたいな展開には絶対にならん」
「佐須浦から厳原まで三里もあるのよ。どうしてみんな無視するのか不思議だもの」

 どういうことって思ったけど、

「スマホなんかあらへん時代やで。情報は人が進む速度に依存してるねん」

 昔の距離は里で言うのは知ってるし、一里は四キロぐらいのはずだけど、コトリさんに言わせると、

「とくに鎌倉時代やったら三里は三里のはずや」

 どういうことかと言うと、一里とは人が一日に歩ける距離の十分の一の距離だけど、今みたいに長さが基準じゃなくかかる時間が基準だそう。だから一里とは地形の影響を受けても、

「そういうこっちゃ。佐須浦から厳原まで三里つうことは、三時間ぐらいの距離って事になる」

 さらに険しい山道だから、

「平地みたいに早馬を走らせたり、人かって無暗にペースは上げられへんと思うで」

 そうなると佐須浦で元軍の船団を見たと言う急報が厳原まで来るのに三時間もかかるのか。つまり朝に元船を見つけて急報を送っても、

「その時の宗助国の対応なんかどこにも記録は残ってへんけど、たとえ平和的な出迎えを想定したとしても、装束や供回りをそろえなあかんやんか。武装するのも一緒や。ありそうなんやったら、まず佐須浦まで行くかどうかの相談をやるやろ」

 急使を受けてから出発するまで一時間ぐらいはかかりそうな気がする。そうなると。

「元軍の船団が佐須浦に姿を現してから、どんなに急いでも六時間後に駆け付けるぐらいが目いっぱいちゃうか」

 片道だけで三時間だから六時間じゃ無理な気がする。元軍だって佐須浦の沖でのんびり遊んでいるはずがないから、その間に上陸してしまうものね。そうなると駆けつけて来た対馬守護代の宗助国が見るのは、押し寄せる元軍になるはずか。そうなると実相は、

「こんなもん想像やけど、戦略的にも戦術的にも元軍は厳原沖に姿を現したはずやねん。ビックリしたと思うで」
「どう見たって使節の船団じゃないものね」

 元軍の大船団なんて当時の人ならまさに想像を絶するぐらいのはず。

「あのなぁ、今でもそんなものが厳原沖に現れたら腰抜かすわ」

 御意。そこから上陸戦が始まるけど、

「対馬の守護は少弐氏やねんけど、遥任みたいなものやから守護代が守護として軍事権は揮えるのは揮える。そやけど当時の軍制で常備軍みたいなものはおらへんねん」

 守護は国内の軍事力の招集権みたいなものがあったのだけど、軍事力である武士は在地の小領主だったんだって。守護が軍事力を招集するには命令を小領主に下し、これに応えて武士が集まることでようやく出来るぐらいかな。

 だからこの緊急事態に守護代の宗助国が行使できる軍事力は、守護代屋敷に居合わせた者だけになってしまうそう。いわゆる家の子、郎党にプラスアルファぐらいってやつで良いのかな。

 こういう軍事体制は鎌倉時代もそうだけど、室町時代もそうだったみたいで、これが常備軍的な形態になったのは戦国時代になってからって聞いて驚いた。

「そやから城下町が形成されたと思うても良いと思う。即応体制の常備軍にするには家来を城下に住まわすしかあらへんやん。家来が城下に集まって住んだら、その家来相手に商いする人も集まるやろ」

 なるほど。その辺はともかく宗助国の対応は、

「まったくわからんが、これだけは八幡蒙童訓が正しいと考えとる。結果だけで言うたら死んどる。これも戦って討ち死にしたかどうかもわからんが、首塚がホンマやったら自害やろ」

 討ち死になら元軍に首を持って行かれるし、返してくれるはずもないか。

「そこなんだけど、八幡蒙童訓がわざわざ佐須浦を持ち出した点を考えると・・・」

 宗助国は厳原から落ちようとしたと考えるのか。ここも泡食って逃げたも考えられるけど、

「守護代屋敷で敵わぬまでも戦った可能性ぐらいはあると思うのよ。単に逃げ遅れただけもあるかもしれないけど、屋敷の住人を先に逃がすために戦ったぐらいは想像しても良いと思ってる」
「そやな。宗家の息子は生き延びとるし、宗家は現在ですら続いてるもんな」

 そこから血路を開いて逃げようとしたのが佐須浦ってことだね。でもさぁ、佐須浦に逃げなくとも北側に逃げても良さそうじゃない。

「厳原に姿を現した元軍の船団やけど、厳原から北に向かってずらっとおるのが見えたんかもしれん。そんなんが見えたら、北側に逃げてもアカンと直感しそうやんか」

 それはありそう。宗助国は対馬から落ち延びるために佐須浦を目指したんだろうけど、追い迫る元軍に追い込まれて自害したぐらいか。そう言えば対馬から壱岐や博多に決死の急報を送った話もあるけど、

「あれも佐須浦上陸説の否定材料になってまうねん。佐須浦に元軍が現れたの急報が厳原に届いたら、その情報を壱岐や博多に送るのを当たり前やし、それかって余裕で出来るやん」

 たしかに。元軍は山道で三里も先にいるし、まだ厳原は平和だもの。

「そやけど厳原を襲われたら話が変って来る」

 まず厳原から舟など出しようがなくなるものね。そうなると佐須浦まで落ち延びた連中が舟に乗り込んで、

「そのはずやねん。だから宗家の息子は生き延びたんやろ。そやけどな、佐須浦から南に回って壱岐を目指したりしたら、元軍の大船団とガッチャンしかねへんやんか」

 そ、そうなるかも。

「そうなると北に回り込んで壱岐を目指したか、それとも危険を承知で南側から壱岐を目指したかになるわ」

 どちらにしても決死の思いで壱岐を目指したのか。でもさぁ、でもさぁ、八幡蒙童訓の内容は怪しいとしても他に資料はないんでしょ。そしたらコトリさんは、

「だからおもろいねんやんか。全部わかっとたら単なる聖地巡礼ツアーにしかならんやろ。わからんとこにあれこれ想像の翼を広げるのが歴女の醍醐味や」

 佐須浦に着いたけど鄙びた漁港ぐらいしか感想が出ないな。宗助国公の騎馬像もあるけど、ここで部下を従えて沖合の元軍と対峙していたって意味だろうけど、現実的に考えたらあり得ないよな。

「宗助国が元軍を浜辺で手勢を引きいて迎え撃った可能性はゼロやないねん。文永の役の前に幕府から異国警固の指令が出てるんよ。これに応えて守護代屋敷にそれなりに常備軍を置いとった可能性はあるからな」
「でもね、水際で迎え撃てるのは厳原だけと思うよ」

 アリスもそんな気がしてきた。