1ヶ月児AS急死訴訟

謹んで亡くなられた乳児の御冥福をお祈りします。これ難しいと言うか、ちょっと筋の悪い訴訟で私はスルーするつもりでした。正直なところ触れたくないです。ただ「どうしても」の抵抗できない強大な圧力が私に押し寄せ、あくまでも記録のために書かせて頂きます。でもってこれまた強力無比の助っ人を頼もうと思ったのですが、扱ってるものがモノですから断念しております。


AS知識

大動脈弁狭窄(AS)だけでなく先天性心奇形の知識がかなり怪しくなっています。そりゃ最前線から20年以上離れれば記憶も欠け落ち、知識も曖昧になります。実戦的には、

  1. 心雑音を見つければ精査依頼
  2. 全身症状が怪しければ精査依頼
2.が結構微妙な時が多々あるのですが、これが出来れば小児科開業医的には必要にして十分な知識だからです。でもってそんな怪しい町医者のAS知識ですが、基本的に非チアノーゼ系心疾患と理解しています。他の奇形の合併がなければ右左シャントが生じないからです。重症度はASの狭窄度に依存し、狭窄が高度ならば大動脈と左室の圧較差から心雑音が生じ、左室の代償機能が落ちれば心雑音が消えるです。

ここも実はそんなストレートなものではなく、狭窄の進行は時に緩徐であり、有効な心雑音が聴取されないにも関らず左心不全が進行し、心症状として確認された時には手遅れの場合もあるとされています。ですから最初に心雑音が聴取できて、これが消えたにも関らず心不全症状が進行するときには要注意ぐらいでしょうか。TOFもそんな感じの症状進行だったはずです。

えっらく雑なんでお叱りの言葉も出そうですが、心雑音が聴取できた場合はともかく、出来なかった場合は殆んど診察時のカンみたいなものに依存します。カンと言っても別にASを特定しているわけではなく、「何かありそうな」な感触を感じるか否かみたいなものです。従ってしばしば外れます。なんにも無かったで紹介から帰って来る患者も悔しいながら少なからずいます。


AS知識 その2

ASの場合は大動脈弁の狭窄を跳ね返す左室機能があるうちは、心雑音が聴取されても他の所見的には問題なしはありうるはずです。つうか、自分で見つけた重症AS患者なんて残念ながらいませんから、そうらしいとしか言い様がありません。理論上はそうです。では心雑音が聞こえないASで所見上元気であればどうなるかですが、そりゃ普通に元気な子として扱います。他に考えようがないからです。

医療で検査に進むのは当たり前ですが、児になんらかの症状が現れては初めて対応します。何も無ければ何もしません。先ほどカンとしましたが、カンの大元は微細であっても症状であり、その症状を大きく評価するか、小さく評価するかの違いであって、無から有をとくに健常新生児からは捻くりだす事はまずありえません。ましてやルチーンでやったりすると問題とされることもあります。おっと、ここは語弊があった、保険診療として行えばです。


経過

こういう怪しげな知識の上での考察ですから、その点はバーゲンセールぐらい割り引いて欲しいのですが、とりあえず経過を

day event weight
0 出生 3256g
6 退院 3340g
16 ベビーマッサージ
23 ベビーマッサージ
30 1ヶ月検診 3685g
37 検診後の指導 3990g
38 急死


1ヶ月検診時にもベビーマッサージを看護師より受けております。それと入院中の診察は産科医である院長、1ヶ月検診については副院長が行っており(細かい点はあえて省略)、1ヶ月検診の後のフォローについては医師は診察を行っておりません。児は死後に監察医による剖検が行われ、死因として、
  1. 急性左心不全(短期間)
  2. 大動脈弁狭窄症及び閉鎖不全症(1ヶ月以上)
  3. 二尖大動脈弁(1ヶ月以上)
こういう死体検案書が書かれています。病理所見としては、
    肉眼:標準の約2倍弱の重量、右室の肥大
    組織:左心室内側において、内膜の線維性肥厚、心筋細胞の空胞変性、壊死性心筋線維残存、小血管周囲の繊維化、弁の線維性肥厚
これ以外に肝腫大も認められたとあります。


訴訟的真実

ほぼ後方視的な原告側の主張が全面的に認められています。とはいえトンデモでは決してりません。私の及ぶ範囲で再検討を加えましたが、これを論破するのはチト難しそうです。だから助っ人が欲しかったのですが、泣き言を言っても始まりませんから、解説してみます。結果はASからの急性心不全であることに争いはなさそうです。

剖検所見から遡ると右室肥大と肝腫大は注目されます。これもどうやらその他の心奇形が合併していないようですから、ASでここまでの症状が出現するには、

  1. 左室圧が上昇する
  2. 左房圧が上昇する
  3. 肺静脈圧が上昇する
  4. 右室圧が上昇する
ここまで症状が進展している必要があります。右心への負荷が上昇した結果の肝腫大です。いわゆる鬱血性心不全状態が児に起こっていたと言う事です。その結果のday 38の急死ですから、死の前日はもちろんの事、その8日前の1ヶ月検診時にも何らかのAS症状進展による諸症状、多呼吸、哺乳不良、傾眠傾向、四肢末梢の血色不良等の症状が「ないはずがない」です。

体重記録から見ると、day 8までの体重増加は順調であり、一方で退院後から1ヶ月検診までの体重増加はプアです。結果から考えると、入院時期は左室が代償機能として働いていたと考えるのが妥当であり、退院後に代償機能が衰えた考えるのがこれまた妥当です。入院中の児の状態にとくに問題を認めなかったのは争いの無いところであり、この時期は十分に代償機能が働いていたであろうです。

入院中に左室の代償機能が働いていたのであれば、後の結果から考えて左室と大動脈の圧較差はかなり大きかったと考えるのがこれまた妥当です。圧較差はおおよそ25mmHg以上の時に心雑音を呈するとされていますが、後の結果から考えて余裕で心雑音発生レベルを越えているはずであり、入院中に心雑音が「聴こえないはずがない」です。よって病院側は、

  1. 入院中の聴こえるはずの心雑音を聞き逃した
  2. 1ヶ月検診時の存在するはずの左心不全症状を見逃した
高裁判決でも確定していますから、ほぼ司法的には確定していると見ても良いかと存じます。


医学的な可能性

あくまでも可能性であり、さらに言えば今回の件さえ離れたものです。被告である産院側はあくまでも心雑音は存在しなかったとしています。またASによる左心不全およびさらにこれが進展した右心不全症状も一切存在しなかったとしています。今回の事件で本当にそうであったかどうかについては判断できません。医師の間、とくに産科医の間で恐慌を来たしているのは心雑音などの症状の無いASによる急死があり得るんではないかです。この点が非常に懸念されています。

私も聞かれたのですが、最前線からかなり遠ざかっているので正直なところ「わからない」です。心雑音にしても3度以上ならともかく、2度程度なら聞き逃す懸念はありえるです。今回の件も仮に心雑音があったとしても、2度以下のもので、その後速やかに消失し、左室の機能が低下しながらも拍出量として維持できている状態であれば見逃す懸念が無いとは言えないぐらいです。

出産から退院までは今回の件では出産日を含めて7日間ですが、ケースによってはもっと短くなる時もあります。心雑音は小さいほど聞き逃しやすく、ASでは心雑音があったものが消えるとは重症化というより危機的なんですが、間違いなく聴取できるかどうかは自信をもって言えないです。少し心雑音があると思っても、速やかに消え、他の全身状態に問題が無ければ目出度く退院と相成ってしまうです。

何が言いたいかですが、原告側の主張は非常に精密ですが、必ずしもそうなるのであろうかです。心雑音についてはかえってより重症なケースの方が聴取しにくい事もあるんじゃないかです。まあ、左心不全にともなう症状については、これが右心不全まで波及していて「気が付かない」はさすがにどうかと思いますが、心雑音の聴取に関しては微妙と言うところです。

また心雑音が聴取できたとしても、これをASによるものかどうかを判断できるかどうかも付いて回ります。ある意味、心雑音が聴取できる間のASは他の症状が問題ない事が多いとも言えなくはありません。心雑音は聞こえるが、他の所見に問題なければ果たして高次救急に送る判断が出来るかどうかです。私に出来るかと言われれば正直なところ自信をもってそう出来るとは言い難いところです。

やはり心雑音に加えて、他の症状による補強が欲しいところです。このあたりについて、経験豊富な小児循環器医のアドバイスが欲しかったのですが、これを得られなかったのを遺憾とさせて頂きます。


この訴訟を触りたくなかった理由

どうにも被告病院の法廷戦術に過ぎた部分が嫌なんです。たとえば入院中に心雑音が聴取されなかった点ですが、新生児の診察は院長だけでなく副院長(どちらも産科医)もほぼ連日行なったとしています。もちろん看護師も(たぶん助産師も含まれるのかな?)連日行っていたとなっているのですが、院長と副院長が別々に同じ日に診察するのも考え様によっては不自然です。理由は簡単で「そんなにヒマじゃない」です。

もっともその辺は院内慣行もあるかもしれませんが、診察が必ず先に院長であり後が副院長で、なおかつカルテ記載は院長だけと言うのもかなり不自然です。先に診た院長の記載に問題が無ければ、後に診た副院長はあえて記載しなかったは説明にはなりますが、疑惑の目をもって見れば副院長は診てないんじゃないかにつながります。ここは誤解無い様にお願いしますが、別に2人も診察する必要は無いので、院長だけが診察すれば医療的には必要にして十分です。

記載内容も言われて見れば非常に不自然で、裁判所の指摘によれば、

  • 新生児カルテ


      略語にカッコで和訳まで付けてある上に、「読みやすい日本語」を中心にした罫線に副った整然とした妙に詳しい記載内容


  • 産科カルテ


      ドイツ語とその略号を中心にしたと考えられる、罫線を気にしない簡潔かつ非常にラフな記載
これを同じ人物が同じ時期に記載しています。産院側は医師の記載法は自由であり「そういう流儀である」と主張していますが、記載法が自由である点は認めても不自然さは否めません。そのため丁寧な日本語部分は後から加筆されたものであると事実認定されています。この加筆認定は非常に詳細に検証されていますが、検証に不自然さはなく感触として「やらかしたんだろう」と思わざるを得ないものです。


これも非常に奇妙な事実ですが、1ヶ月検診は副院長が行っています。ここで体重増加不良が出てくるのですが、どうもこの件について副院長は院長に相談したと産院側は主張しています。もちろん相談しても構わないのですが、カルテに1ヶ月検診の記載を行ったのは院長です。では院長が診察に加わったかと言えば裁判所は慎重な考察の上で「その事実は無い」としています。原告母親に記憶が全くなく、母親にしてもこの点でウソを敢えてつく必然性が乏しい状況であるのは同意です。

ここも何の証拠も無いのですが、実際に診察を行った副院長が何も記載を行っていないのは不自然です。裁判所も指摘していますが、院長に相談するにしても自らが診察した所見をまず記載の上に相談するのが自然です。それを実際に児を診察していない院長が記載している点に大きな疑惑と言うか、裁判長の心証を揺るがせるものがあったとするのが自然な見方と考えます。


後は心雑音が無かったASの病態説明です。1審ではASは結果としてあったが、心雑音もなく全身状態も良好であり、突然の致死性のvfが起こったためとしています。これが2審になると重症大動脈弁狭窄症と言う概念を持ち出しています。重症だから心雑音も聴取されず、見た目上の所見も問題ないのに急死したです。これは良く知らないのであえて置いておくとしても、ここでPDA残存説も持ち出しています。

これは私でも珍妙と思いました。重症のASであるから大動脈の圧が十分に上らず、残存していたPDAから血流が流れ込み、見た目上の元気さを保っていたです。ちょっと待ったと言いたいところです。主張通りの血行動態では、通常のPDAの左右シャントではなく、右左シャントが起こっていた事になり、静脈血がかなり大量に流れ込んでいる事になります。チアノーゼはどうなるんだです。PDAから右左シャントが起こるような状態であるなら、肺循環を経た動脈血が流れ込む量が極端に減り、これで呼吸以下の他の症状が起こらないはずがなかろうです。


つまりは産院側の2つの主張である「入院中に心雑音無し」「1ヶ月検診でも体重増加不良以外に所見無し」についてどうにも信用が置き難いです。置き難いとは、医学的に本当にそういう状況が前提として存在した上での急死として検証しにくいです。どっちかにウソはないであろうかの疑惑がどうしても出てくるのです。せめて裁判の展開が、

  1. 入院時は心雑音を確認できず
  2. 1ヶ月検診時に異常を認め高次医療機関に搬送するも手遅れだった
こういう経過の上で、入院中に心雑音を確認できなかったのが注意義務違反として事実認定されたのであれば検討される余地はあるかと存じます。新生児の出生直後1週間の心雑音が必ず聴取できるかどうかの医学的問題になるからです。今回はそうでなく1ヶ月検診だけではなく、急死の前日まで産院は児の状態を確認(前日は医師の診察はありませんが・・・)しながら心不全徴候を全く認めなかったになっています。

そういうケースもありそうにも思ってはいますが、今回が本当にそういうケースであったか否かについて疑惑を持たざるを得ない展開になっていると感じてなりません。あくまでも個人的な感想に過ぎませんが、裁判所判断は心雑音も1ヶ月検診時の心不全症状も存在したはずだの事実認定を行っていますが、より重きを置いたのは1ヶ月検診の所見の気がしています。心雑音についてはついでの事実認定みたいな感じです。

1ヶ月検診時の病院側の証拠に深い疑惑を裁判官が心証として抱き、これが判決の決定打になったんじゃなかろうかです。まあ、左心不全から右心不全まで起し、急死する8日前の時点で救命の可能性が高かったとする判断については、ちょっと微妙な気がしないでもありませんが、その点については知見不足で保留とさせて頂きます。

とにかく医療訴訟として取り上げるには筋が悪いと思わざるを得ないものと考えている次第です。