年忘れ歴史閑話・後編

前編を簡単にまとめておくと、

  1. 平家陣地の西の木戸は塩屋ではなく長田神社周辺ぐらいまで東に寄っていた。
  2. 一の谷は西の防衛線にあった大きな谷であり、これを中心に城郭が西部防衛線が作られていた。
  3. 三草山は平家陣地の山の手防衛の要であり、陥落により山の手方面の防衛に不安が生じた
  4. 義経の戦術もそこにあった。
これらから推理を飛躍させます。義経率いる源氏搦手軍はそもそも明石に向かわなかったです。搦手全軍が山の手ルートに向かったです。これの傍証は兵庫歴史研究会が引用している平家物語・延慶本の

其勢七千余騎は義経に付け、残三千余騎は土肥次郎田代冠者両人大将軍として山の手を破り給へ、我身は三草山をめぐりて鵯越へ可向とて歩せけり

素直に読むと全軍が山の手攻撃であり、なおかつ主力軍(2/3)は義経が率いています。それとさらに読みようですが、残りの1/3は二人の大将軍が率いています。これは別働隊をさらに2つに分けていた可能性も考えられます。最大3つに分かれて山の手方面に進撃したんじゃないかです。つまりは誰も明石を回って塩屋を攻めたりしていないです。


藍那

三草山から義経の足取りはサッパリわからないのですが、これは神戸文書館にある江戸時代前期の主要道です。

平家物語を信じれば、宿原から衝原に向かい、山田から藍那古道を通って藍那に出たとされています。ここで鷲尾三郎伝説が生れていますから、これを信用する事にします。藍那と言う所はそこから3本の道が神戸に通じています。
  • 烏原道
  • 白川ルート
  • 鵯越
これが源平当時も存在したかですが、まず烏原道はこれもまた神戸文書館より、

雪御所から清盛が丹生山の明要寺(山王神社)に月参りした道が烏原古道といわれる道である。

福原から明要寺まで丁石を設置したまで言われてますから、一の谷合戦当時は立派なルートであったとして良いでしょう。現在はハイキングコースどころか、アドベンチャーコースに荒れ果てているそうですが、当時は言うまでもなく通行可能です。次に白川ルートですが、途中に妙法寺と言う寺があります。神戸市HPより、

平清盛は福原遷都の際、平安京の鞍馬になぞらえて、ここを新鞍馬といって王城鎮護の霊場とし、寺領として一千石余りを寄進したと謂われますが、足利尊氏が西国に敗走する際、高師直らの兵火によって全焼、復興して現在に至ります。

白川ルートは板宿に至る道で、現在も車道が走っています。ここままた源平当時も立派に使える道であったと判断できます。問題は鵯越道なんですが、これも兵庫から三木方面の主要ルートであったとされます。鵯越道が源平当時も健在であった傍証として、wikipediaの明泉寺の記述より

宝永2年(1705年)の寺記によると、僧行基畿内に49院を建てたうちの一つで、本尊も行基の作と伝えている。もとこの寺は長田村から白川村を経て太山寺へ通じる長坂越東山の字古明泉寺の地にあった。

さらに

この長坂越は、夢野から明泉寺を経て、播州への交通路、鴨越本道の支道であり、建武3年(1336年)の湊川の戦いにも、足利直義の山手軍は鷹取山の北の鹿松峠からここに出て、夢野の除路を突破して楠軍をおそったなど、重要地点であった。

支道が健在であれば本道もまた健在であったとしても良いかと考えます。現在は旧西神戸有料道路から鵯越墓園の前を通り、夢野に抜ける道として健在です。つまり検証する限り藍那に進出すれば3つの山の手ルートをどれも選択できた訳です。平家側も三草山を破られて山の手の藍那まで進出されると3方向からの脅威にさらされる訳です。


ツテ

どうも義経にはこの地域に有力なツテがあったようです。これは兵庫歴史検証会が掘り起こしたものですが、

そこで戦をするためには、平家の陣容と地勢などの情報が必要であることを訴えたところ、院より参議の久我道親卿を訪ねるようにとのお言葉を給わり、道親卿を訪ねると、卿の甥といわれる久我興延氏(白川鷲尾家『系図』記載)を紹介された。

 彼は「斧の柄の妾」と渾名を持つ男であり、仁徳天皇の弟君、額田大中彦皇子の血を受け継ぐ家柄で、斧の柄が朽ちるほど遠い昔、貴い方の妾であったところから「斧の柄の妾(『延慶本』)」と呼ばれているのだが、道親卿の父久我雅通卿に御奉公する祖母と若き日の雅通卿との間に子が生まれ、その子(鵯越の翁)を父とするのが興延氏であった。

 彼の実家は鵯越の麓にある白川であり、鵯越は彼の狩場であって、平家の山手の陣に下る道を彼は知っていた。つまり、義経鵯越の翁との出会いは鵯越であると『平家物語』に書かれているが、実は京都で翁の倅に会い、「鹿の通程の道、馬の通わぬ事あるべからず(『延慶本』)」と義経が言ったのは、実は都での話であり、義経がいくら強運の男とは言っても、偶然を期待して戦略を立てたと考えるのは誤りである。

要は後白河法皇派の有力公卿である久我道親の親戚が白川の豪族としており、これを利用したです。そうなると考えられるのは、

  • 義経搦手主力軍は白川に
  • 別働隊である土肥次郎と田代冠者は鵯越道、烏原道に進撃
こうなっていてもおかしくありません。道が3本だから総大将は3人で軍勢は3分割です。


平家の対応

平家も三草山陥落によって山の手ルートからの源氏軍進撃を予想しています。では平家はどこから攻めてくると予想していたかです。3つの道の神戸到着点は、

  • 烏原道・・・兵庫区4丁目東山商店街の北側ぐらい。要は福原の真北。
  • 白川道・・・板宿。長田神社付近を西の防衛線とすれば、さらに西側。
  • 鵯越道・・・会下山のあたり。福原の西側。平家西部防衛戦の内側。
でもって平家物語になりますが、山の手ルートへの平家側の新たな配置としては、

能登殿の返事には、「戦は狩りなどのように、足元の良さそうな方へ向かおう、悪そうな所へは行かない等と言っていたのでは、勝てなくなってしまう。 何度でもお申し付け下され。危険な方へはこの教経が仰せの通りまかり出て、その一方を打ち破って差し上げましょうぞ。心安く思し召されよ。」と申されたので、大臣殿は殊の外喜ばれて、越中前司盛俊率いる一万余騎を能登殿に付けられる。能登殿は兄の越前三位通盛卿を伴って、山の手へと向かわれる。この山の手と言うのは、一の谷の後ろ、鵯越のふもとである。

三人の大将を山の手補強に向かわせています。能登守教経、越中守盛俊、越前三位通盛です。そいでもって向かった先が、

    この山の手と言うのは、一の谷の後ろ、鵯越のふもとである
wikipediaの明泉寺には、

寿永3年(1184年)2月7日の一ノ谷の戦いで、平盛俊義経の来襲に備えてここに陣を布き、寺は焼失し、盛俊は討死。生田の森を守っていた平知章もこの地で戦死している。

平家は山の手として明泉寺付近に進出したとして良さそうです。では明泉寺がどんな位置関係にあるかです。

鵯越道はあくまでも会下山方面に下りていたの伝承での適当な推測図です。ちなみに現在の鵯越道は鵯トンネルが作られ、まっすぐに夢野の方に抜けられますが、これが作られる以前は急な崖にすぎません。それも相当なものです。だからこそ鵯越道は尾根筋を伝ってもっと東側に下りているのです。

さて越中守盛俊はどこを守ろうとしていたのかです。もっと言えば能登守教経はどこにいたか不明なんですが、鵯越道を守るのであれば会下山辺りが可能性があると考えます。能登守教経はともかく、越中守盛俊は鹿松峠を警戒していたんじゃないでしょうか。ここは長柄越とも呼ばれ、白川から妙法寺を経て登る事は可能です。今でもクルマで走れます。

ただし物凄い急坂です。これは妙法寺方面からもそうですが、長田方面に下りる道の方がもっと凄くて、九十九折のウンザリするような道です。今はバイパスが出来てかなり快適になりましたが、それ以前はクルマで抜けるのも一苦労の道でした。どうも平家側は長柄越を突破されると困ると判断した可能性があります。ただ可能性として高いとは言えず、もし源氏が来なければ単なる後衛になるために、平家物語にある、

大臣殿(宗盛)は、安芸右馬助能行を一門の人々への使者に立てて、「九郎義経が三草方面を打ち破ってすでに攻め入って来たという。山の手が大変なので、各々方、向かってくだされ。」と仰せ遣わされたが、みな辞退してしまわれる。

こうなったんじゃないかです。


鵯越は長柄越

義経は長柄越をポイントとして見た可能性が高いと考えます。その前に義経が白川方面に進出した傍証ですが、やはり熊谷直実の話になります。熊谷直実義経搦手軍に属していたのは確実です。さらに先駆けは抜け駆けであっても、その軍勢が進み戦うところに行わないと意味がありません。平家の西の木戸に白川から向かうのなら白川道を単純に下り、板宿から西に向かえば容易です。

熊谷直実らは先駆けですから、後に本隊が進みます。義経搦手軍は搦手全軍の2/3いますが、その大半は西の木戸に進んだんじゃないかです。でもって義経は長柄越のために妙法寺辺りに待機です。こういう構図で合戦が始まれば、

  • 範頼大手軍は生田の森を攻撃
  • 土肥実平、田代冠者は鵯越道、烏原道を通って攻撃
  • 搦手軍の一部は西の木戸を攻撃
こういう状況がしばらく続いたと考えます。義経は長柄越で攻撃、つまり鵯越の逆落としは長柄越ではないかです。


源氏の兵力

正直雲をつかむようなお話です。それでもあえての推測をやっておきます。当時の人口の推測もまた諸説あるのですが、多くて700万人ぐらいなんてのがあります。男性なら350万人になり、全男性人口の1割で35万人になります。そういう点から源平共に2万ぐらいの可能性は出てきます。おおよそ男性人口の1%程度が一の谷に集結したです。この場合、とくに源氏の食糧補給が問題になりますが机上では可能であるとしておきます。

源氏軍は大手軍と搦手側に分かれますが、平家物語や吾妻鑑を信じれば大手軍が56000騎、搦手軍が20000騎です。ここで宇治川の源氏軍は平家物語から、

1月20日、範頼は大手軍3万騎で瀬田を、義経は搦手軍2万5千騎で宇治を攻撃した。

源氏の総勢は55000騎となっています。吾妻鑑での一の谷は76000騎なので21000騎の兵力増です。古来、合戦に勝つと言うのは「勝ち馬に乗る」現象が起こるので増えてもおかしくありませんが、宇治川が1月20日で、一の谷への京都出発が2月4日なのでチト増えすぎの感じがしないでもありません。ここで平家物語のうち延慶本は義経の搦手軍は10000騎としています。

延慶本説を取れば大手の56000騎はそのままにしても源氏の総勢は66000騎となり、宇治川からの増加は11000騎で勝ち馬分としては「まだしも」ぐらいになります。チト強引ですが、源氏の実兵力を2万とし、平家物語の大手と搦手の軍勢を「比」と考えると、

    範頼大手軍:17000
    義経搦手軍:3000
私の説では藍那で軍勢を3分割しますが、延慶本の比で考えると、こうなった可能性はあります。義経は長柄越の東側の麓である妙法寺でさらに兵を分割する事になります。主力からのさらなる別働隊は平家の西の木戸の攻撃隊になりますから、こちらの方が多いとも考えられ、
    西の木戸:2000
    長柄越え:400
最終的に義経の手には400人が残りますが、これをもって鹿松峠を落とし、一の谷城郭の背後に襲い掛かった・・・のかもしれません。とりあえず2月4日に京都を出発してその日に80kmを踏破して三草山に夕方に着いたらしいは平家物語ですが、これをやるには1万騎なんて大軍勢では大変で、3000ぐらいなら現実味が出てくるぐらいのところでしょうか。


ただなんですが源氏2万でも過剰な気がします。源氏軍の主目的は平家討伐ではありません。主目標は義仲戦です。それも義仲が水島で敗北を喫し、京都での軍事勢力を小さくしている情報を確認した上での出陣と考えます。これだけの大軍を関東から遠征させるかです。実際はもっと少ないんじゃないかです。当時の人口的にも源平4万の動員はかなり過剰の印象はあります。

そうなると2万ではなく半分の1万と言うのも現実味を帯びてきます。1万だって義仲を圧倒するには十分すぎる数です。仮に1万とすれば上記の搦手軍の分割試算をそのまま適用すると、搦手軍は1500、義経が最後に長柄越に率いたのは200程度になります。さらにもっと少ない試算も可能です。平家物語吾妻鏡の騎数を一桁落とした上で「人」とするです。

そうなると義経搦手軍は1000人です。えらい少なくなりましたが、これはこれで合理性があります。源氏の戦略はあくまでも大手攻撃であり、義経の搦手軍は期待されていなかったです。そもそも搦手軍は戦術的にも無理があり、

  1. 2月4日に京都を出発して2月7日の一の谷攻撃に間に合わなければならない
  2. 搦手軍進路には三草山が頑張っている
三草山攻略に少しでも手間取れば一の谷の決戦に間に合わないです。また三草山をスルーして一の谷に向かえば、後方(退路)に有力な敵を残す事になり、一の谷戦が長引けば、挟み撃ち、または退路を経たれて袋の鼠になる懸念が在ります。義経の戦術を源氏首脳陣は受け入れたかもしれませんが、兵力的には最小限しか与えなかったです。間に合えばラッキーぐらいの感じでしょうか。

もし搦手軍が1000人であり、これも上記した分割を行っていれば最終的に義経が「鵯越」に率いた兵力は150人程度になります。この数字が逆に妙に信憑性が出てくるのは、一の谷の合戦を少しでも知っている人間なら「う〜む」ぐらいの感想が出るんじゃないかと思っています。


鷲尾三郎伝説

当時の感覚は今となっては不明ですが、長柄越は道として存在してもあまりに険しく、平家側にしても「来る可能性は高くない」と踏んでいたと見ています。しかし義経が白川まで進出してくると、長柄越の可能性は捨て切れなくなります。とは言え長柄越に過剰な手当を行えば生田の森の主力決戦とか、鵯越道、烏原道の山の手の手配が手薄になります。

越中守盛俊が明泉寺に陣を敷いたのはその辺の判断の迷いもあった気がします。明泉寺は長柄越から下った谷の出口付近の狭隘部に位置します。ここで白川の義経の動きを見定め、義経が板宿から西の木戸に向えば他の方面の援軍にしようの腹積もりです。もし長柄越に攻めてくれば険しいと言ってもさしたる高さではありませんから後詰に向かうです。

越中守盛俊の下にも情報が寄せられていったと思います。生田の森の決戦の始まり、山の手の鵯越道、烏原道への源氏軍出現の情報、さらには熊谷直実らが少数とは言え先駆けとして西の木戸に現れたとかです。そして最も大きな情報は搦手の主力らしき兵力が熊谷直実の先駆けに引き続いて現れたです。つまりは源氏は長柄越には来ないの判断の補強です。


鵯越伝説では山中を夜間踏破し、平家の陣営を見下ろすところに進出し、やがて時期を見て鵯越の奇襲を敢行したとなっています。通説では壮大に山中を踏破する感じになっていますが、「鵯越 = 長柄越」でもスケールは小さくなって実現の可能性は出てきます。義経の戦術目標は、長柄越の鹿松峠の平家防衛拠点をいかに効率よく攻略するかです。

義経率いる最後の部隊は白川を決戦前夜に密かに出陣し、鷲尾三郎の道案内の下にこれも密かに鹿松峠に近づき、さらに潜伏していたんじゃないかです。もう少し言えば、長柄越の道からさらに山中に分け入り、平家の陣地を見下ろせる位置まで進出していたです。やがて一の谷の決戦が始まり、平家が長柄越の防備を不要と判断した頃を見計らって襲撃です。


長柄越防備担当の越中守盛俊の目は他方面に向いており、さらに援軍要請にある程度兵を向けていたかもしれません。そんな頃合を見計らって一挙に鹿松峠の平家陣地を落し、さらに急坂を駆け下って麓の明泉寺陣地を覆滅したです。でもってなんですが、明泉寺を抜けば後は長田神社方面へは平地です。つまりは平家の西部防衛戦の要である一の谷城郭の背後に進出が可能であり、思わぬ奇襲に混乱した平家軍は総崩れになっていったです。


これも神戸文書館より、

元暦元年二月八日条

未明人走り来りて云ふ、式部権少輔範季朝臣の許より申して云ふ、この夜半ばかり、梶原平三景時の許より飛脚を進めて申して云ふ、平氏皆悉く伐り取りおわんぬと云々、その後午刻ばかり定能来り、合戦の子細を語る、一番に九郎の許より告げ申す<搦手なり、まづ丹波城を落とす、次いで一谷を落とすと云々>、次いで加羽の冠者案内を申す<大手、浜地より福原に寄すと云々>、辰の刻より巳の刻に至る、猶一時に及ばず、程なく責め落としおわんぬ、多田行綱山方より寄せて、最前に山手を落とさると云々、大略籠城中の者一人も残らず、但しもとより乗船の人々四五十艘ばかり島辺に在りと云々、廻らし得べからざるにより、火を放って焼死しおわんぬ、疑ふらくは内府等かと云々、伐り取る所の輩の交名いまだ注進せず、よって進らずと云々、剣璽・内侍所の安否、同じくもっていまだ聞かずと云々、

まず梶原景時からの報告は合戦の翌日にもたらせたものです。さらに使者の報告を直接聞いたのではなく、

    その後午刻ばかり定能来り、合戦の子細を語る
つまり又聞きかそれ以下の状態です。さらに梶原景時は大手の範頼軍に属しています。合戦の後半は追撃戦ではありましたが、大手・搦手の源氏軍が錯綜した状態になったのも容易に想像されます。つまりは梶原景時の報告は「取り急ぎ第一報」程度の精度と言えます。

景時の報告は後の論功行賞にもつながるので、一番確実なところを報告していると考えます。注目しておきたいのは、報告が大手の範頼でなく搦手の義経が筆頭である点です。つまり功績は「義経 > 範頼」であるです。義経の一の谷合戦の最大の殊勲は、

    まづ丹波城を落とす、次いで一谷を落とすと
つまり一の谷を落としたのが最大の殊勲であるです。大手・搦手の両大将の手柄を述べた後に多田行綱が出てきます。行綱は御大将にはなっていません。範頼・義経より序列の低い武将クラスの身分の手柄の筆頭と見ます。内容は、
    最前に山手を落とさると
ここで気になるのは「最前」です。これは最も前にの意味で、所謂「一番乗り」を意味しているんじゃないかです。「一番乗り」は大将軍の仕事ではありません。司令官である御大将は、部下の武将が「一番乗り」を行うのを見聞し、督戦するのが役割です。源平時代であっても御大将は将棋の「玉」であり、一番後ろに控えているものです。

私はこう解釈します。一の谷合戦の帰趨を分けたのは義経による一の谷要塞陥落であり、一の谷要塞陥落が可能となったのは鹿松峠の平家方防衛拠点を突破できたからになるです。この鹿松峠の攻防戦で「一番乗り」の目覚しい功績を立てたのが行綱であり、御大将より下の武将クラスの手柄の中では第一等であるの意味です。


三草山の意味を考え直す

平家物語ではオマケの様な三草山が非常に存在が重いと感じています。三草山は平家にとって山の手の守りの要にしたと言うのは前編で推測しましたが、源氏にとっても京都に突きつけられた匕首に見えたんじゃないかと思っています。京都から三草山まで80km、当時の進軍速度で2日程のものとされます。

三草山に有力な平家軍が存在すれば、源氏は一の谷に進撃しにくいです。一の谷の平家が大軍であるのは源氏も情報として知っており、そのためには在京する源氏軍を総動員する必要はあります。しかし京都を空にすると三草山の平家が京都に攻め寄せてこないかの懸念です。京都を平家が制すると、生田の森に出向いた源氏軍の退路を絶たれてしまう危険性も出てくるです。


一の谷は院宣もありやらなければならないのが前提ですが、当然の事として三草山をどうするかが源氏軍の課題になったと推測します。ここで源氏軍にはもう一つ問題があります。時期的に農繁期が近づいており、まず三草山を攻略して、それから一の谷に転じるみたいな悠長な作戦はやってられないです。さらにを言えば兵糧の問題も出ていたかもしれません。

また三草山に有力な軍勢を差し向けて攻略しようとしても、その隙を突いて一の谷の平家本隊が北上してくる懸念も出てきます。少しでも三草山攻略に時間がかかれば、主力決戦がかなり不利な状態で行わざるを得なくなるです。

そういう状況を考慮して義経の搦手軍に与えられた役割は三草山の牽制ではなかっただろうかです。生田の森の主力決戦には大兵力が必要なので、まともに三草山を攻略する兵力を割くわけにはいかないので、大手に較べて1/5ぐらいの小勢せざるをまず得ないです。その上でその兵力で守り難い京都で防ぐのではなく、攻める形を取って三草山の動きを封じておこうです。


こんな感じの軍議の流れになり、生田の森は範頼が総大将になり主力決戦を行なう事になり、地味な三草山牽制戦を義経が総大将になって行うことが源氏の戦略として決まったんじゃないかと推測します。ここで義経が軍議で念を押したんじゃないかと考えます。

    三草山の牽制はもちろん行うが、機会があれば攻め落としても構わないか?
そりゃ牽制のままで三草山が健在であるより落としてくれた方が源氏に取って望ましいですから、「無理しない」ぐらいの意見は出ても了承されたと考えます。さらに義経は念を押したと推測します。
    三草山が早々に落ちれば一の谷に加勢しても良いか?
史実では一の谷は1日で覆滅していますが、1週間程度はかかると見れば、主力決戦の日には間に合わなくとも、北方や西方からの脅威として動いてくれれば申し分はありませんから、源氏首脳陣は基本的に了承したと考えます。


義経は搦手軍の三草山方面を担当した瞬間から一の谷の同時攻撃を閃いたと考えています。いやそれ以前の軍議の流れ、総大将の割り振りから自分が三草山担当になると考え、途轍もない奇襲攻撃を思いつき、そのための情報収集と準備を行なったのかもしれません。義経の目には三草山さえ落とせば平家陣地の北側の弱点がありありと見えたです。

搦手軍は少数ですから、急ぎに急いで三草山を急襲してこれを落としたのは史実です。まだ来ないはずの源氏軍が夕方に到着し、これに慌てた三草山平家軍は敗走してしまいます。一種の奇襲です。そこからは最短距離で藍那を目指して進んで行ったです。


ここで玉葉を考えたいのですが、義経の手柄が一番に挙げられているのは平家の重要陣地である三草山や一の谷も落としたのはもちろんですが、主力決戦の日に間に合うはずもなかった義経が間に合ってしまったのも含まれている気がします。間に合っただけでも驚異的なのに、その上で平家陣地を崩す決定的な役割も果たせば、大手の範頼より評価は上に来るです。

行綱の名が総大将以外に唯一出ているのも考え様によっては興味深いところです。功名手柄でわかり安いのは先駆けもありますが、敵方の高名な有力武将を打ち取ると言うのがあります。平家方はこの戦いで幾多の有力武将が討ち死にしています。そういう手柄が目白押しにあるところに、筆頭が行綱の山の手一番乗りです。行綱の手柄は逆落としからの平家陣地覆滅につながるものであり、これが非常に高く評価されたんじゃないかです。


感想

あくまでもこれらは仮説に過ぎません。仮説に過ぎませんが、幾つかの知見がありました。平家は山の手が弱点であることを戦略的に承知していたことです。だからこそ三草山に派遣軍を送り、三草山が落ちれば山の手防備を固めています。もう一つは、山の手の道は険しいでしょうが、十分に通行可能の道であったです。福原から清盛が月参りに丹生山まで行けるぐらい整備されていたです。鵯越道だって福原発展のために整備されていても不思議ありません。

それと何より藍那の重要性です。ここに進出することが山の手を制します。これは隠密である必要性さえ、ある意味ありません。むしろ平家側に藍那に源氏ありと報せるぐらいの価値さえあります。そうすれば平家側は源氏搦手軍の進攻のために、山の手の三道に手厚く防衛兵力を配置しなければならなくなります。それだけでも生田の森の主力衝突に有利になります。

前後編にわたる大作でしたが、お楽しみ頂けたでしょうか。今年はこれにて千秋楽です。皆様におかれましても、来年が良いお年になりますように心から願っています。