年忘れ歴史閑話・前編

今日が27日で明日が28日。28日は官公庁御用納めでなおかつ金曜日。医療機関も含めて明日が最終営業日のところは多そうな気がしています。月曜日は31日で大晦日ですから、そういう日も営業するところを除けば今年もいよいよ押し詰まってきたと言うところです。今年はカレンダーの関係もあって、だいたいそろいそうな気がしています。私の本業の方もそんな感じで仕事収めにする予定で、ついでにブログもそうしたいと思います。

例年の事ですがインフルエンザ接種の時期は本業が一番忙しい季節になります。本業が忙しいとブログに手が回らなくなるのですが、今年はとくにきつかったのが本音です。ブログも7年もやってる訳で、7年すれば私も7つ歳を取ります。体力・気力がどうしても7年前に較べると落ちるのは抵抗しようもない部分もありそうにも思っています。いや「ありそう」ではなく確実に存在するのが正直なところです。寂しいお話ですが、現実は見ないといけないようです。

そういう訳でもありませんが、今年のブログの〆は歴史閑話にさせて頂きます。


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もともとのテーマは「一の谷の合戦再び」でGW歴史閑話でやり残した鵯越の特定です。ところがやりだすと正直なところ大変で、前後編にして前編は主に一の谷の場所の特定、後編は鵯越の特定にする予定です。このムックの難しさ、面白さは一の谷の合戦の様相は不確定要素が余りにも多く、資料が物語である平家物語に依存する部分が多々あります。

平家物語は史実を伝えている部分は多々あると思う一方で、後世に辻褄を合わせた部分もあると見ています。どこまで信じるかは感性になり、その取捨選択で鵯越も一の谷も場所も様相は変わります。変わるからこそ諸説が並立して面白いのですが、今回もあくまでも「私ならこう考える」のものとは御了解下さい。それと鵯越の逆落としも存在しなかった説まであるのですが、今回の前提として存在するとします。その上で

    鵯越の逆落としの結果、一の谷が落ちた
つまり2つは地理的に近いと仮定します。そうなれば一の谷か鵯越が特定できればもう片方も特定できるはずなのですが、そうは一筋縄で行きません。前編はまず一の谷を考えてみます。


福原はどこだ

福原は晩年の清盛が執念で短期であっても遷都を実現させた地です。平家が義仲に都落ちを強いられ、さらに福原からも落ち延びる時に火をかけて消失しています。でどこにあったかさえ異説があります。これは福原京の前に和田京を先に計画したのが一つの原因とされています。

ここら辺も資料を読んでも微妙なのですが、福原京の位置を特定しないと後の推理が展開しにくくなります。さらに厄介なのは現在の神戸市街と源平期の福原は同じ場所とは言えかなり様相が変わっています。明治期以降に神戸が大発展したので、現在の地図と重ね合わせるのも一仕事と言うところです。ここはある程度通説によって、

解説を加えておくと湊川はもともと和田岬方向に流れ、その河口の堆積が和田岬を形成し、その岬の西側の大和田の泊が出来ています。現在の新開地は旧湊川を埋め立てて出来たので「新開地」と呼ばれるわけです。福原京と推測される一帯は雪の御所を始めとする平家の邸宅遺跡が確認されているところで、福原遷都は紆余曲折の末、とりあえず平家貴族の邸に仮内裏を作ったとされます。

そうなると東は大倉山から西は湊川の間ぐらいの地域に福原は存在していたとするのが妥当です。ここに平家の一門の屋敷があったと言うのは、要である大和田の泊から近く、また湊川の水害から当時的には安全とされたと考えています。もっとも地名の「荒田」からすると水害に無縁とは思い難いのですが、私が推測したよりもっと西側に当時の湊川は蛇行していたのかもしれません。

正直なところ「えらい狭い」と思ってしまうのですが、今回の話はこの辺りに福原があったとして話を進めます。


須磨浦公園の一の谷

ここが従来の一の谷の位置ですが、航空写真で見てもらいます。

西の端が塩屋で、たしかに六甲山系が海に尽きるところであり、ここに防御ポイントを作れば西からの攻撃を防ぐのには都合は良さそうです。で、問題の須磨浦公園の一の谷ですが、鉢伏山、鉄拐山は険しく、立て篭もるには良さそうですが、えらい西側に寄り過ぎています。平家の生命線は海です。兵糧や物資の輸送を水上輸送に頼っていた事は容易に推測されます。

平家は都落ち、福原落ち、さらに太宰府でも拒否に合い、長期の漂流生活を余儀なくされたとなっています。逆に言えば海こそ生命線の認識が強かったと見ます。一の谷陣地の生命線は大和田の泊であり、いざと言う時の退却ルートも海以外は考えないと思われます。当時の源氏は海には手も足も出せません。平家の戦術思想に山の天険に頼っての籠城戦は乏しいと考えます。

一の谷なんかに立て篭もって、大和田の泊が源氏の手に落ちるような事があれば、それこそ袋の鼠状態に陥ります。平家にとって頼るべき天険とは海であり、こんなところに引っ込むとは到底思えません。


実はここも微妙なんですが、一の谷を平家の本営と考えるか、それとも西の防御拠点と考えるかの問題はあります。本営ではなく西の防御拠点と考えると須磨浦公園でもOKそうなんですが、実際に現地に行ってもらうと判りやすいのですが、須磨浦公園から山上に登るにはロープーウェイを使うほど急峻なものです。海から山が衝立の様にある感じです。

一の谷に立て篭もれば攻められにくいでしょうが、海岸ルートで塩屋から攻められた時に有効な防御ポイントとはとても思えません。山越えの攻撃を防ぐと言っても、現在こそ登山道が整備されていますが、当時の感覚として到底軍勢が通過できないところです。陣地を作るなら塩屋の一点防御で十分で、一歩退いた一の谷に重要拠点を作るのは正直なところ「???」です。

私は須磨浦公園一の谷説を否定します。


西の木戸はどこだ

一の谷陣地の東の木戸は生田の森で争いはまずないと考えます。当時は生田川も流れており、ここを東の防衛ラインにしたで良いかと思います。では西の木戸は一体どこであろうかです。これも通説では塩屋口にするものが多いです。通説は須磨浦公園一の谷を西の重要拠点としており、そうであれば地形的にも塩屋が西の木戸でなければ辻褄が合わなくなります。

ただし気になる記述が平家物語にあります。wikipediaより、

2月7日払暁、先駆けせんと欲して義経の部隊から抜け出した熊谷直実・直家父子と平山季重らの5騎が忠度の守る塩屋口の西城戸に現れて名乗りを上げて合戦は始まった。

熊谷直実・直家父子と平山季重らの5騎は義経部隊に所属していたとなっています。当時の先駆けは重要な功名手柄であり、熊谷直実らが抜け駆けを行ったのは重要なポイントのはずで、史実の可能性はあります。義経の進撃ルートは後編でやりますが、とりあえず義経隊は六甲山の北側にいたはずです。そこから塩屋の西側に抜け駆けしようとすればどうなるかです。

それこそ三木方面に引き返し、明石方面を回って土肥実平の搦手主力軍を追い抜き、塩屋の西の木戸に出現する必要があります。これは時間的にも、地理的にも、距離的にも相当無理があります。つまりは熊谷直実らは塩屋の西側には出現していないです。平家の西の木戸はもっと西側に位置していたの傍証になりうると考えます。


西の木戸はどこだ2

平家陣営の一の谷の描写は平家物語の樋口被斬にあり、神戸文書館から現代語訳を引用します。

その前年(寿永二年)の冬の頃から、平家は讃岐の国八島の磯を出て、摂津の国難波潟に押し渡り、西は一の谷に砦を構え、東は生田の森を正面の木戸口と定めていた。その間の福原、兵庫、板宿、須磨に立て籠もる軍勢は、山陽道八カ国、紀伊・淡路・四国方面六カ国、都合十四カ国を打ち従えて呼び集めた十万余騎だという。一の谷は北は山、南は海、入口は狭くて奥は広い。周囲のがけは高く、屏風を立てたかのようである。北の山際から南の海の遠浅まで、大石を組み上げ、大木を切って逆茂木(敵の侵入を防ぐ柵)にし、深いところには大船を並べて盾にし、砦の正面の高櫓には、四国・九州のつわもの共が甲冑弓箭に身を固め、雲霞のごとく並んでいる。櫓の前には鞍を置いた馬どもが十重二十重に引き立てられ、兵どもは常に太鼓を打って鬨の声を上げている。「一張の弓の勢いは半月が胸の前に懸かったかのごとく、三尺の剣の光の冴えは秋の霜のごとし」と言ったありさまである。高い所には多くの赤旗が打ち立てられているので、春風に吹かれて、天に翻る様子はあたかも火炎が燃え上がるかのようである。

ここはどう読むかの問題が出てくるのですが、

    北の山際から南の海の遠浅まで、大石を組み上げ、大木を切って逆茂木(敵の侵入を防ぐ柵)にし、深いところには大船を並べて盾にし、砦の正面の高櫓には、四国・九州のつわもの共が甲冑弓箭に身を固め、雲霞のごとく並んでいる。
ここの描写は生田の森のことなのか、一の谷の事なのか、それとも両方の事なのかです。生田の森はまず描写が当てはまると思います。しかし文脈上、一の谷でないと取るのは無理があります。少なくとも西側の一の谷の防御線もそういう状況であったと読みたいところです。しかし塩屋ではそこまでの景観を呈するには狭隘過ぎます。つうかそこまで不要です。塩屋よりもう少し広いと言うか、長い防御線の様子を描写していると私は考えます。


一の谷の場所

樋口被斬の一の谷の描写ですが、

    一の谷は北は山、南は海、入口は狭くて奥は広い。周囲のがけは高く、屏風を立てたかのようである。
まあ神戸ならどこでも北は山になり、南は海になります。そいでもって、この地形を大きく取るか、小さく取るかです。大きく取ると六甲山系のどこかの谷になりますが、小さく取ることも可能ではなかろうかです。問題は湊川です。現在は流れも変わって新湊川となっており、普段はチョロチョロの水量ぐらいしかありません。しかし時に大氾濫を起します。新湊川の2回にわたる水害は私の記憶にも新しいところです。つまりは
    湊川は暴れ川であった
湊川が暴れ川であった傍証として兵庫歴史研究会が見つけ出した一遍上人縁起があります。

鎌倉仏教の開祖一遍の『一遍上人縁起』には、正安四年(1302)津の国兵庫島へ着いた時の兵庫の情景が記され、そこには「銭塘(銭塘江と西湖)三千の宿、眼の前に見る如く、范麗五湖(太湖)の泊、心の中におもい知らる」と語り、鵯越の麓には大きく美しい湖があったと伝えているが、これこそ大きさと美しさで「一の谷」の名をつけられた湖である。

 この湖は、湊川の一部であって、天王谷川と烏原川が清盛の雪御所の南で合流して湊川になり、大開の辺りから大きな湖を形成、真光寺の南辺りからまた狭い湊川となって和田岬の内懐より海に出る「一の谷は口は狭くて奥広し」と言われた湊川のことであった。

一遍上人の頃にも湊川は大きな遊水地を点在させる状況であった事がわかります。しかし一遍上人は一の谷合戦からおおよそ200年後の人です。この記述だけで源平の頃にも同じであったとは言いにくいと思います。逆に言えば湊川氾濫によりかなり自由な川筋を推定できると言う事です。まず平家一門が福原に邸を作っているところから、当時はかなり西よりに流れていた可能性はあります。

つまり湊川の氾濫により出来た大きな谷が福原の西側にあったんじゃないかです。福原は短期であっても都であった事があり、京都の公卿も福原の西側に存在した谷の事を知っており、さらに当時はそれを一の谷と呼んでいたんじゃないかです。つまりは天然の濠みたいなものです。平家物語には幾つかの異本がありますが、延慶本の記述を兵庫歴史研究会から引用してみます、

山陽道七ヶ国、南海道六ヶ国、都合十三ヶ国の住人等ことごとく従え、軍兵十万余騎に及べり。木曽打たれぬと聞こえければ、平家は讃岐屋島を漕ぎ出でつつ、摂津国と播磨との堺なる、難波一の谷と云う所にぞ籠りける。去んぬる正月より、ここは屈強の城なりとて、城郭を構えて、先陣は生田の森、湊川、福原の都に陣を取り、後陣は室、高砂、明石まで続き、海上には数千艘の舟を浮かべて、浦々島々に充満したり、一の谷は口は狭くて奥広し。南は海、北は山、岸高くして屏風を立てたるが如し。馬も人も少しも通うべき様なかりけり。誠に由々しき城なり

おそらく樋口被斬だと思うのですが、ここを読むと平家が籠ったのは「難波一の谷」となっています。難波はある意味一般名詞的なところはありますが、平家物語では「難波 = 難波津 = 大和田の泊」で宜しいかと考えます。一の谷自体も広く使われる地名でもありますから、難波一の谷とは難波すなわち大和田の泊に近い一の谷と解釈する事は不可能ではありません。一の谷が城砦化されたのは、

    去んぬる正月より、ここは屈強の城なりとて
平家陣地の設営がいつから始まったかははっきりしないのですが、寿永2年閏10月に行われた水島の合戦の後ぐらいからではないかと考えています。義仲は水島の敗戦により、以後の活動は京都周辺に限定されます。義仲の関心は対平家戦より、東の頼朝との決戦に向けられたぐらいの感じです。まず先遣隊を派遣し、準備が整ってから安徳天皇も含む平家首脳陣が移動したです。

首脳陣の移動時期も「木曽打たれぬと聞こえければ」を信じれば、義仲戦死は寿永3年1月20日ですから、そこから1週間内外ぐらいが推測されます。この辺は慌しくて、2月4日に源氏軍は京都を出発し、2月7日には一の谷合戦になっています。ここの記述で注目したいのは2ヵ月程度で一の谷の城郭を作ったことです。一の谷の全体の位置付けですが、

    城郭を構えて、先陣は生田の森、湊川、福原の都に陣を取り、後陣は室、高砂、明石まで続き
いろんな読み様はありますが、なんのために一の谷城郭を作ったかです。いやどこを守るために作ったかです。安徳天皇以下の平家首脳陣は女官も含めて旧福原に作られた仮御所的なところに住んだと考えるのが妥当です。野戦の陣屋ではないと考えます。それぐらいの準備は行って屋島から一の谷に移動したと考えます。一の谷は平家陣地の西の要ですから、福原及び大和田の泊を防御するためのものとするのが妥当です。

もう一つのポイントは一の谷と福原は別に記載されています。これは湊川の西側は当時の地理的概念として福原ではないがあったのではないでしょうか。力技の部分は大ですが、大和田の泊のやや西側ぐらいに当時「難波一の谷」と呼ばれた湊川の氾濫で出来た大きく有名な谷があり、これを利用して平家は西側の防御ポイントを築き上げたです。

一の谷の合戦後、この難波一の谷はその後の湊川の氾濫で失われ、やがて誰も覚えていない場所になってしまったです。無理やり推測すれば兵庫歴史研究会が唱える長田神社あたりから南北の伸びる防衛線の可能性は十分にあります。どうもなんですが、一の谷を中心とした平家西部防衛線はかなり東に寄っており、到底塩屋まで及ぶ広大なものではなかった可能性を考えています。

ここで平家物語熊谷直実らの抜け駆けの記述の後を傍証としてあげておくと、

平氏は最初は少数と侮って相手にしなかったが、やがて討ち取らんと兵を繰り出して直実らを取り囲む。直実らは奮戦するが、多勢に無勢で討ち取られかけた時に土肥実平率いる7000余騎が駆けつけて激戦となった。

ここは西の木戸がかなり東寄りとすれば解釈しやすくなります。搦手軍は義経が別働隊を率いていたとしても、熊谷直実らは西の木戸に抜け駆け出切る程度の位置に2月6日時点で進出していたです。だから抜け駆けが可能であったです。先駆けの応援に土肥実平が応援に駆けつけますが、もし塩屋口から来たのであれば「塩屋口は通過した」になります。

塩屋口が通過であれば須磨浦公園一の谷の存在意義は消滅します。既に戦線の後方になるわけです。ここはまだ一の谷合戦の序盤部分です。


平家の戦略、源氏の戦略、義経の戦術

一の谷の合戦の前哨戦は三草山ですが、なぜにこんなところに平家が進出していたかをもう一度考える必要がありそうです。意味なく進出するはずがないはずだからです。あくまでも推測ですが、源氏軍は東側からのみ来る、もしくは来て欲しいの戦略です。平家の一の谷陣地の構成は東側からの源氏軍の攻撃を縦深陣地で迎え撃とうではなかったかです。

逆に言えばその他の方面からの攻撃は避けたいです。とくに北側の山の手ルートは来て欲しくなかったがありそうな気がします。平家としては源氏が山の手に軍勢を回す気が起こらないように三草山に拠点を構えたです。ここに有力な平家軍がいれば、山の手方面攻撃を考えたとしても、これを踏み破る必要が出てきます。つまり存在するだけで源氏は兵を山の手に向けないであろうです。


源氏の戦略も微妙だった気配があります。源氏の西国遠征軍の主目的は義仲追討です。これは寿永3年1月20日に目的を果たすのですが、1月20日ユリウス暦で3月4日になります。どうも引き続いて対平家戦を行うかどうかについては、源氏首脳陣も意見は分かれていたようです。たぶん農繁期が近づくので関東に帰りたいの意見もあった気がします。これを後白河法皇がねじ伏せて寿永3年1月26日に平家追討の院宣が下っています。

ただ院宣が下ろうとも農繁期までには関東に帰りたいは源氏の諸将の一致した空気であったと考えます。現実に一の谷の合戦後に範頼は遠征軍主力を率いて関東に帰っています。当時の鎌倉と京都の交通時間は源氏軍でおおよそ20日ほどである記録が確認されています。一の谷合戦は2月7日ですが、これはユリウス暦で3月20日になります。

源氏軍に求められたのは速戦即決でトットと関東に帰りたいです。一の谷の戦いが長引くようなら、勝手に関東に帰る豪族が出てきても不思議ない状況であったとも推測されます。だからこそ2月4日に京都を出発し、2月7日に決戦の予定を立てたです。ひょっとしたら数日戦ってラチが空きそうになかったら、後白河法皇院宣は果たしたとして帰る腹積もりさえあったかもしれません。


さて義経ですが、そもそも源氏軍が大手と搦手の2方面軍に分かれた理由が不明です。そういう戦術を誰かが提唱し実行させた事になります。もう想像の世界になりますが、義経の目には三草山に平家が進出している事自体が平家の弱点に見えたのかもしれません。あんなところに平家が拠点を作っていると言う事は逆に言えばあそこが平家の弱点であるです。

三草山が弱点であるのであれば、三草山さえ踏み潰せば一の谷陣地の北方への進出は容易であり、そこに進出され攻撃を加えられると平家陣地は大いに困るです。2月4日京都出発で、2月7日決戦の予定から言えば、途中の三草山を落として一の谷に到着するのはかなりの綱渡りですが、この戦術は承認されています。承認された理由も憶測でしかないのですが、

  1. 義経の搦手軍が間に合わなくとも、範頼が大手でお茶を濁せば目的は果たせる(関東帰還の名目)ので許した
  2. 義経は三草山を落とすまでの気はなく、これを無視して一の谷北方に進出するプランであった
ここまで考えると見えてくるのですが、そもそも源氏搦手軍が明石を回って塩屋に攻め寄せるのさえ、三草山の存在があれば容易ではありません。背後に有力な敵軍を置いての攻撃はあまり楽しいとは言えません。義経鵯越無しで一の谷が行われていれば、時間切れで源氏軍は関東に帰った可能性があります。範頼の大手軍は京都に退却すれば良いのですが、塩屋を攻める搦手軍は退却の時にも三草山が邪魔です。下手すれば退路を絶たれます。


三草山の平家への影響

これも平家物語ですが、

大臣殿(宗盛)は、安芸右馬助能行を一門の人々への使者に立てて、「九郎義経が三草方面を打ち破ってすでに攻め入って来たという。山の手が大変なので、各々方、向かってくだされ。」と仰せ遣わされたが、みな辞退してしまわれる。能登殿(教経)の所へも「度々の事ですが、今度もまたそなたが向かって下さ
れ。」と仰せ遣わすと、能登殿の返事には、「戦は狩りなどのように、足元の良さそうな方へ向かおう、悪そうな所へは行かない等と言っていたのでは、勝てなくなってしまう。 何度でもお申し付け下され。危険な方へはこの教経が仰せの通りまかり出て、その一方を打ち破って差し上げましょうぞ。心安く思し召されよ。」と申されたので、大臣殿は殊の外喜ばれて、越中前司盛俊率いる一万余騎を能登殿に付けられる。能登殿は兄の越前三位通盛卿を伴って、山の手へと向かわれる。この山の手と言うのは、一の谷の後ろ、鵯越のふもとである。

これは後編につながるところなので今日のポイントは、宗盛が、

    九郎義経が三草方面を打ち破ってすでに攻め入って来たという。山の手が大変なので、各々方、向かってくだされ
三草山が落ちた事により、一の谷の北方の守りが必要になった事を示唆していると考えます。逆に言えば、三草山があるから北からの攻撃はない戦略であったのが、三草山を失う事により攻撃の可能性が生じてしまったです。さらに宗盛が「山の手」と言っているのは重視しておきたいと思います。平家側は源氏搦手軍が塩屋に回って脅威になるとはあんまり考えていないです。

三草山を落としからには北方の山岳ルートから一の谷を攻めてくると予想していると受け取れます。さらにその方面への平家軍の配備は手薄であるです。ここまで来れば推測に推測を重ねることになりますが、平家の当初の戦略では西側が戦場になる可能性は低いと踏んでいたかもしれません。決戦は東側の生田の森です。そういう状況で西側は木戸の西側から塩屋までの地域に警戒線ぐらいは置いていた可能性はあります。

当然塩屋にも関所めいたものがあり、出入のチェックぐらいはしていたです。ところが三草山陥落で軍勢の配置が山の手も重視、さらに西側も重視になったです。展開する兵力を木戸の内側に集結したんじゃないかです。この辺の様変わりが平家物語で塩屋口が登場する理由になっている様な気がしています。


とにもかくにも平家物語をどこまで信じるかになりますが、ここまで書いて後編の鵯越に進みます。