年忘れ歴史閑話・追補編「一の谷はここじゃないか!」

昨日でブログ納めのつもりでしたが、1回だけ延長します。今日のお話は、

及びJSJ様とのコメ欄議論を踏まえてさせて頂いています。


消えた地名「一の谷」

一の谷は非常に有名な地名です。平家物語、吾妻鑑はもちろんの事、玉葉にもごく普通に出てくる地名です。場所は神戸市内、それも生田神社より西側、さらに言えば福原より西側にある事までわかっていても場所が不明です。伝承すら消えうせています。現在の須磨浦公園一の谷は兵庫歴史研究会が検証したように、江戸時代に比定され、比定されてから平家物語に基づいて伝承が作られただけとして良いと判断します。逆に言うと須磨浦公園一の谷が否定されれば、どこにあるかは伝承さえ存在しないことになります。

それでも一の谷は有名であったです。問題は誰に有名であったかです。福原は平家の首都です。福原に移り住んだ平家一門が名付けた地名であったと見るのが自然と考えます。そういう例は多々あって、「○○は地元では△△と呼ぶ」です。平家は武家ですが、一方で平安貴族の教養もしっかり備えており、福原近郊の地形を平家一門で別に呼んでいたです。

さらに福原は短期であっても遷都が行われ、平家一門以外の貴族も住んでいた時期があります。そういう貴族も平家一門が呼ぶ地名を使ったと見るのが自然です。だから有名であったです。しかし福原も平家一門も滅亡し、さらに神戸は大和田の泊(兵庫津)の一角ぐらいを残し寒村と化します。平家一門滅亡後の住民は、平家一門が使った地名よりも、それ以前の地名を使ったです。つうか平家一門が呼んだ地名すら知らなかったかもしれません。

一の谷は平家一門を始めとする貴族階級のみが短期間用い、消えてしまった地名と考えます。


やはり平家物語

一の谷の描写は平家物語に頼らざるを得ません。具体的には樋口被斬になり、とくに私は延慶本の記述を重視したいと思います。

山陽道七ヶ国、南海道六ヶ国、都合十三ヶ国の住人等ことごとく従え、軍兵十万余騎に及べり。木曽打たれぬと聞こえければ、平家は讃岐屋島を漕ぎ出でつつ、摂津国と播磨との堺なる、難波一の谷と云う所にぞ籠りける。去んぬる正月より、ここは屈強の城なりとて、城郭を構えて、先陣は生田の森、湊川、福原の都に陣を取り、後陣は室、高砂、明石まで続き、海上には数千艘の舟を浮かべて、浦々島々に充満したり、一の谷は口は狭くて奥広し。南は海、北は山、岸高くして屏風を立てたるが如し。馬も人も少しも通うべき様なかりけり。誠に由々しき城なり。

まずですが

    摂津国と播磨との堺なる、難波一の谷と云う所にぞ籠りける
摂津と播磨の境界が実は微妙で、六甲山を境にして南側が摂津、北側が播磨と分けたいところですが、実は裏六甲(六甲山の北側)も摂津です。丹生山や山田も摂津です。ただなんですが、そこまで厳密に平家物語の作者が地理を把握していたかは疑問です。やはり六甲山を境にしていた気がします。そう仮定すると一の谷は六甲山のどこかにある「谷」になります。
    去んぬる正月より、ここは屈強の城なりとて、城郭を構えて
前段の「難波一の谷と云う所にぞ籠りける」と合わせて、谷の地形を活かした城郭構成であったとして良さそうです。谷の形は、
    一の谷は口は狭くて奥広し。南は海、北は山、岸高くして屏風を立てたるが如し。馬も人も少しも通うべき様なかりけり。誠に由々しき城なり。
袋状の谷で、谷の入口は狭かったとなっています。また谷の周囲は絶壁である状態を描写していますから、城郭構造は谷の入口の防御施設が由々しいものであったぐらいの理解で宜しいかと存じます。ここで延慶本の記述ですが、私の見解として一の谷と平家陣地全体の描写が入り混じっている気がします。延慶本も一の谷合戦から100年後ぐらいの成立のはずですから、混同はあってもおかしくないはずです。もちろん物語ですから脚色も入っていると思います。

つうのも「南は海」をどう取るかが出てくるからです。一の谷が直接海に接するようなところとなれば、神戸の地形から須磨浦公園一の谷付近に限定されてしまうからです。ここは海が遠くない、もしくは「海 ≒ 大和田の泊」の連絡が良いぐらいの意味に私は取ります。

一番重要な点は一の谷の位置付けです。

    屈強の城なりとて、城郭を構えて、先陣は生田の森、湊川、福原の都に陣を取り、後陣は室、高砂、明石まで続き
一の谷を本営つうか本丸として、これを取り囲むように陣地が設置されているです。「生田の森、湊川、福原の都に陣を取り」は一の谷を守るように存在した、つまりは一の谷はこれらに隣接した場所に存在したと言う事です。一の谷は平家一門が名付けた地名としましたが、「一」にはどういう意味が込められるかです。私が思い浮かぶところでは、
  1. 自分の所在地から一番近い谷
  2. 近くで一番大きな谷
  3. 近くで一番美しい谷
所在地説をもし取れば、これは当然ですが福原を中心として近いところとなるはずです。これも福原に近い事を示唆している傍証ぐらいにはなると考えます。


そんな谷は存在する

ネット時代に感謝するしかないのですが、航空写真で確認できます。

私の推測も入っていますから厳密とは言えませんが、当時のアラアラの配置図を書き加えています。平家の東の防衛線は生田の森で議論のないところです。福原もほぼ間違いありません。西の木戸の防衛線は微妙ですが、基本は大和田の泊の防衛が主眼であり、湊川を利用して、大和田の泊を囲むように作られていただろう事は推測できます。

黄色で比定した地域は現在「丸山」と呼ばれるところですが、ここにも鵯越伝説は多々あります。鵯越の逆落としは鵯越道から行われたの説も有力なのは周知の通りです。ここでなんですが、一の谷は鵯越の麓であると平家物語にはなっています。義経率いる別働隊が駆け下りたところが一の谷であるです。そうならば私が推理した長柄越であれ、鵯越道からの逆落としであれ、下りたところが一の谷であるのが一番妥当です。

航空写真を見ればわかるように、丸山は明らかに谷になっています。あの近所に住んでいましたから良く知っていますが、谷の斜面は急です。今は住宅が密集していますが、正直なところあんなところによく家が建っていると感心するぐらいの急斜面です。

丸山の谷の出口は狭くなっています。中はそれなりの奥行きがあり、さらに位置的に福原に隣接するだけでなく、南の大和田の泊にも隣接する場所です。もう一つ傍証として、明泉寺の存在も挙げられます。福原は華麗な都ではありましたが、福原自体は平家都落ちに引き続く福原落ちの際に火をかけられて炎上しています。つまりは平家が再上陸した時には焼野原であったです。

平家は安徳天皇以下のVIPを抱えており、平家首脳陣が一の谷に再上陸した時にもVIPの住居が必要です。とは言え仮御所を建てるほどの時間も余裕も乏しいと考えて良く、焼け残っていた明泉寺を利用したのは十分に考えられます。当時の寺院は立派な御殿にもなりうるからです。


これで本当に千秋楽

丸山は考えれば考えるほど一の谷に思えてきます。実戦の一の谷では、VIPは一の谷から大和田の泊の船に移乗しています。ではなんのために一の谷が必要であったかですが、海は天候に左右されるです。冬場と言うだけでも航行に支障を来たします。平家は海のメリットもデメリットも知っており、船が使えない時には大和田の泊に近い一の谷の城塞に籠ろうと考えていたようにも思います。

私の主張も仮説に過ぎませんが、私があれこれ調べた範囲では丸山一の谷説がもっとも矛盾なく各種の鵯越伝説を説明できると思っています。今度こそ今年の終わりです。皆様、良い年をお迎え下さい。