検察審査会の起訴と推定無罪

小沢氏問題があったのでこの話題を取り上げたのは否定しませんが、小沢氏自身への評価は相当微妙なのでその点は誤解無いようにお願いします。

訴訟なんて生まれて以来長い間、興味も関心も薄い事柄だったのですが、医療訴訟問題を調べだしてから無理やり断片的な知識がついてしまいました。色々学んだ事の中で一番重要と思うのは、

この原則を常に意識しておく必要があると感じています。刑事事件の被告であっても、あくまでも容疑者であり、訴訟によってその容疑が本当にそうであったかどうかを決めるわけです。判決が下るまでは「推定無罪」でなければならないと思います。

もっとも例外はあるわけで、現行犯逮捕であったり、容疑者が罪状を認めて刑の軽重のみを争うときには扱いは当然変わるとは思います。しかしそうでなく、容疑者が無罪を主張している時には「推定無罪」として扱うべきだとやはり思います。罪の有無を判断し、刑罰を下せるのは司法のみに許された権限であるからです。

この辺も微妙なところはあり、時と場合によって容疑者に対し同情的な立場にあるときもあり、逆に批判的な立場にある事もありえます。そこは個人としての意見の表明ですから、言論の自由もあり、その発言に制限はないのですが、第三者的な立場であるなら原則は「推定無罪」で可能な限りあるべきだと考えています。


刑事事件の起訴を決定するのは検察です。日本の検察は起訴に対し慎重な態度を取る事で有名であり、起訴からの有罪率が非常に高いものであるというのがあります。あまりにも有罪率が高いので、無罪になるだけでニュースになり、検察批判が巻き起こるみたいな現象まで起こります。有罪率を維持するために無理をする点は今日は置いておきます。

この検察批判もよく考えれば珍妙で、検察も有罪を確信して起訴は行っていますが、罪の有無を判定するのは裁判所であり、検察はあくまでも「非常に有罪の可能性が高い」と判断しているだけです。従って判決で無罪が出ることもあって不思議は無いわけで、検察が罪を決めているわけではありません。もちろん検察が起訴すると言うのは被告に対し「裁判に付き合わせる」苦痛を味合わせるわけですから、無闇やたらに起訴されても困りますが、100%有罪でなければならない事もないわけです。

どうもなんですがマスコミの検察批判は「起訴 = 有罪」の図式にもたれかかり、起訴時点で罪人として社会的制裁を嵐の様に浴びせかける責任の転嫁に見えて仕方ありません。たとえ起訴からの有罪率がいかに高くても「推定無罪」の立場を堅持していたら、無罪判決で動揺する必要はなくなります。罪人扱いの報道は判決が下ってから行われても遅すぎないはずです。


さて最近話題の検察審査会です。ここの役割を単純に説明すると、検察が起訴しなかった事案のうち、それでも起訴を行い裁判所の判断を問うべきかどうかを決める法の素人の決定機関です。検察が起訴しなかったぐらいですから、司法のプロの判断として有罪と出来る材料が乏しい事案であるのは当然です。有罪への高い確信があるのなら検察は言われなくとも起訴しています。

それでも裁判になれば有罪になる可能性もありますが有罪率は、

こうなるのは当然です。つまりより推定無罪の可能性が高い事になります。罪の有無は市民感情ではなく、証拠と法解釈によって争われます。少なくとも検察審査会の強制起訴では証拠と法解釈に弱点があるのだけは指摘しても良いと思います。


検察審査会の強制起訴が無かった時代であれば、検察が起訴しないと判断すれば容疑者はいわゆる「無罪」として天下御免になります。細かい解釈はあるにせよ事実上はそうです。検察審査会は、それでも念のために起訴する権限を与えられているわけですが、検察が起訴するよりもより推定無罪の可能性がより高い起訴として良いかと思います。

検察の起訴であっても推定無罪の原則は重要ですが、検察審査会の強制起訴ではさらに慎重に推定無罪の原則を確認すべきと思っています。どう考えても、そうでなければならないはずなんですが、とくにマスコミはそうは考えていない感触があります。検察であろうが、検察審査会であろうが起訴は起訴で変わらないとの姿勢です。

もちろん起訴に変わりはないのですが、もう一歩進んで市民感情で判断した検察審査会だから、検察判断よりさらに有罪みたいな論調さえ感じます。私の知る限り、強制起訴から判決に至ったものはまだ無かったと思います。ここで無罪判決がもし続出すれば、今度はマスコミはどう取り扱うのでしょうか。考えられるのは2つで、

  1. 一転して無駄な強制起訴を行った検察審査会叩き
  2. 検察審査会市民感情による「有罪判断」を覆した裁判所叩き
どっちかなぁ。無罪判決が出る可能性は、冷静に考えて検察起訴よりかなり高くなると考えるのが妥当ですから、同じ起訴であっても扱いに少し差があっても良いと思います。これでは誤解が生じますから、本来は検察であろうが、検察審査会であっても推定無罪の原則をしっかり踏まえる事が重要と思います。踏まえた上でも検察審査会による起訴はより慎重に取り扱うぐらいが望ましいと思っています。




これは余談と言うか、このフレーズを使おうとして保留にしたこぼれ話みたいなものです。

    罪を憎んで人を憎まず
〆のフレーズとして引用すれば格調が高そうだったので、元の意味を調べたのですが出典は孔子です(聖書にも類似の表現があるそうですが今日は置いておきます)。ただし孔子箴言の中でもマイナーな方のようで、有名な論語には収載されておらず、孔叢子なる書物にあるようです。原文は、
    その意を悪みてその罪を悪まざりしか
残念ながら漢語の原文までは見つかりませんでした。前後の文章から原意を解説してみると、元は裁判官(もっと広い意味の司法官かな?)になった弟子へのアドバイスのようです。弟子が孔子に裁判官の心得を聞いたところ、孔子は「犯した罪や罪人にばかり拘るのではなく、その罪を犯さざるを得なくなった動機や背景をよく考えよ」と答える中にあるようです。
    孔子の時代の司法制度に詳しくはないのですが、私の知っている範囲のイメージとして行政官が司法官を兼ねていたように思います。ここも判り難いのですが、司法の専門官もいましたが、判決を下すのはその地方の行政官の長みたいな感じです。ここもレベル(身分)によって差があるの様にも思われます。さらに多数の国々があったので一概に言い切りにくいとも思っています。

    少なくとも現在の様に行政と司法(ついでに言えば立法)の分離が不明瞭であったとするぐらいはしても良いと思っています。孔子に質問した弟子は司法に関する役人ではあったようですが、司法専属の司法官みたいな地位であったのか、それとも行政官と司法官を兼ね備える地位にいたのかは不明です。まあ、専属の司法官的な地位にあったとしても、この先に職務は変わる可能性も十分あり、それも含めてのアドバイスみたいに私は解釈しています。
どう言えば良いのでしょうか、裁判官の仕事として罪に対する罰が法として定められており、裁判官は法に従い、罪に対する罰をあてはめれば仕事は済むとは言えます。孔子はそこで罪名にのみに重きを置いたり、罪人に憎しの感情に流されるのを戒め、その罪がなぜ起こったのかをよく考えよと言っているような気がします。

孔子は学者の様に思われていますし、実際の活動も学者が主にはなってしまっていますが、本来は政治家である事を目指していました。結局のところ孔子に政治を任せる国がどこにもなかったから学者をやらざるを得ない状態としてよいでしょうか。

孔子の思想は周の政治を理想としていますが、基本は徳治主義です。これも皮肉な事に孔子の思想は、孔子の死後に延々と中国王朝の基本思想になり、徳治主義は中国歴代王朝の思想になりますが、とにかく徳治主義です。徳治主義は読んで字の通り、徳をもって治める政治ですが、刑罰に関しても徳によって起こらない様になるのを理想としていたと私は解釈しています。

それでも理想と現実は違いますから、現実には罪を犯す者があり、その者に対して罰も必要になります。私の個人的な解釈がかなり濃厚であるのはお断りしておきますが、孔子が言いたかったのは、罪を罰でもって無くそうと考えるのではなく、そもそも罪が起こる状況をなくす様に務めるのが政治であると言いたかった様な気がしています。

罪を作る状況が無くなれば、そもそも罪は発生せず、罪が発生しなければ罰も不要になるというわけです。ですから罪人が出たときに、その罪人や罪を憎むのではなく、罪人を作らざるを得ない社会を憎むべきであり、起こった背景や動機をよく調べ、その罪が起こらない様にすることが一番重要であると言いたかった様な気がしています。

これは孔子の言葉ではなく十八史略にあるエピソードですが、鼓腹撃壌と言う言葉があります。これは周の時代を遥かに遡る尭舜の神話時代になりますが、尭の政治が理想的に行き届き、国民は国に尭と言う王が居る事さえ意識せずに平和を楽しんでいた故事とされます。孔子の理想は鼓腹撃壌とは若干異なるような気もしないでもありませんが、目指したのは罪を犯そうとする気も起こらない政治だった様な気がしています。

ウダウダと解説を書きましたが、ここまで調べたら、今日のエントリーに使うのは少々違和感があり、エピソードの紹介程度に留めさせて頂きます。