ツーリング日和28(第5話)綾部街道

 この道は綾部街道とも呼ばれてたそうで、園部と綾部を結ぶ山陰街道の裏街道みたいなものらしい。綾部藩が参勤交代に使っていたとかで、江戸時代には栄えていたとか、なんとか。

 へぇ、こんなところにも道の駅があるのか。今日はパスだ。それにしてもホントに信号が少ないな。こういうコースって、

「もちろんツーリングコースとしても人気はあるはずやねんけど・・・」

 神戸や大阪、京都から遠いし、綾部に着いても後が困るぐらいか。それでもだぞ、京都縦貫道を利用したら帰れるじゃない。モンキーには無縁だけど。

「そやねんけど、京都縦貫道って大山崎ICで名神に合流するんよ」

 それって京都の人には都合が良さそうだけど、大阪や神戸からなら使いにくいかも。なんか久しぶりに信号で停まったけど、クロスしてるのは国道九号なのか。あれっ、国道九号は江戸時代の山陰街道のはずで綾部に行くよね。

「いや綾部はパスして福知山や。そやから綾部の殿様はこっちで参勤交代したんやろ」

 もっともここで綾部街道から山陰街道に乗り換えていたかどうかはわかんなかったって。千草の夫ならしっかりしてくれよな。なんのために夫婦になってると思ってるんだ。千草の体を好き放題に弄ぶだけが夫の役目じゃないんだぞ。

 それにしても谷間を縫うような道だな。でもアップダウンも緩やかだから、モンキーだって問題は・・・なんとかぐらいにはなる。前に山があるけど、あれを越えたぐらいに綾部があるはずだよな。ほぉ、こんなところに鍾乳洞があるのか。これはこれで行ってみたいな。

「これ見るだけにまた来よか。もっとも総延長は五十メートルぐらいで三百五十円やそうや」

 パスだパス。それってボッタくりだ。すぐにトンネルがあったけど、トンネルがあるって事は峠を越えたのかな。トンネルを越えたらドドーンと下り坂だ。結構下って綾部に着くかと思ったけど、また登りか。そうなるとあの山を越えたぐらいか。

 またトンネルがあったから峠は越えたみたいだけど、ついに綾部市内には入ったみたいだ。登ったら下るのが峠道だけど、結構な峠だ。だってだよ、あんなに長い登坂車線は珍しいのじゃないのかな。四速だけでは無理があった。

「あの橋を渡って突き当りを左やからな」

 ここか。渡ったのが由良川なのか。この川は河口まで見たものね。綾部はさすがに街だ。農家じゃなくて家とかビルが建ってるし、ロードサイド店まであるもの。それでも北に上がって行くとまたもやカントリーロードに。

 この道って走って言ったら田辺城に着くはずだから、えっと、えっと、細川藤孝が宮津から田辺に本拠地を移した時からあった道だよね。

「そのはずや。藤孝の頃は山陰街道やのうて古代山陰道やったはずやから、福住まで下って行っとったんちゃうかな」

 ただこの辺は、光秀が丹波経営のために福知山開発に力を入れていて、既に江戸時代の山陰街道の原型は出来ていたはずじゃないかって。そっか、そっか、福知山が光秀時代から大きな街に育って行ったから、江戸時代の山陰街道は篠山じゃなく福知山経由で西に進むようになったはずよね。

 光秀時代にも本拠地である亀岡と福知山の連絡は重視していたはずだから軍用道路を整備していたはず。そう言えば本能寺がもしなかったら、

「福知山から夜久野高原を抜ける道が、その頃にどうなってたかまで知らんわ」

 しっかりしてくれ。光秀が出来て来たから本能寺の話なってしまったのだけど、あれだけ有名な歴史的な事件なのに真相はそれこその闇の中みたいなんだ。これも最近の歴史論議の特徴みたいなんだけど、これまでの通説は根こそぎみたいに次々と否定されてるとか。

「光秀が中国出陣を命じられたんは間違いあらへんけど、どこに出撃を命じられたからわからん」

 光秀は山陰方面への出撃のはず。

「確実にわかっとるのは・・・」

 信長研究の一級資料に信長公記ってのがあるそうだけど、そこには秀吉から毛利との決戦になりそうだから援軍要請の書状があったのは確認されるそう。時期は家康が安土で接待されてる時期なんだけど、

「そこで信長が自ら出陣する事と、光秀にも先陣として出陣するのを命じたとも書かれとる」

 先陣ってあれこれ取りようがあるにしろ、あの場で言えば信長が率いる援軍の先陣と取るべきじゃないかって言うのよね。つまりは信長が本隊を率い、光秀が先遣部隊を率いる格好かな。そう解釈すると、

「行くのは山陰方面やのうて、備中高松城になるはずや」

 山陽方面でも播磨はまだ前哨戦段階だから秀吉に任せていたけど、備中高松城では毛利の主力が援軍に現れたから、これに決戦を挑んで勝つのが信長の戦略なんだって。なるほど桶狭間とか、姉川とか、長篠はそんな感じだ。

 それと決戦と言うぐらいだから勝てば良いけど、負けたら大変な事になるじゃない。だから決戦になっても必勝の戦略で臨むって言うけど、そんな戦略ってこの世にあるの?

「あるで。敵より多かったらエエねん」

 なんちゅう単純で身も蓋もない。だけど単純なだけに難しい面もあって、決戦は相手を圧倒できる戦力の動員が可能になるまで、卑屈な外交戦略まで平然と展開していたそう。

「それで信玄も謙信も騙されたぐらいや」

 この頃の信長は五大軍団を抱えていたのだけど、柴田勝家は北陸で対上杉戦、滝川一益は関東で対北条戦をやってたから中国の対毛利戦に動員は無理だったのか。そりゃ、遠いものね。そうなると残りは光秀と、対四国戦の準備を大坂でしていた丹羽長秀になるそう。

「そんな状況で光秀を山陰方面に進ませても決戦兵力が減るだけや」

 これは史実が本能寺で終ってしまったから推測になるとしたけど、毛利との決戦に光秀軍団と長秀軍団を動員するつもりだったかもって。でも長秀は対四国戦の準備中じゃないの。

「準備中や言うてもまだ大坂におるやんか。それぐらいは決戦のために平気で引っこ抜くのが信長や」

 部下は大変だ。でもなるほどだ。秀吉への援軍は決戦での必勝を期した大軍である必要があるから、光秀軍団を決戦場から離れた山陰方面に進ませるのは愚策に見えて来た。つまりって程じゃないけど、光秀軍団を先発させて、信長はそれこそ長秀軍団からも引き抜きをやって本隊を作るぐらいの戦略か。

「秀吉軍団、光秀軍団、長秀軍団で毛利に決戦に臨むと考えてるねん。そやから信長が陣頭指揮を執る必要性が出て来るやんか」

 ここもわかりにくかったんだけど、軍団長は信長には忠誠心はあったけど、軍団長同士の仲は必ずしも良くなくて、これまでも喧嘩した事があるそう。如才なさそうな秀吉も勝家と大喧嘩して戦場を放棄して帰ってしまったとか、なんとか。

 なんとなく光秀は先陣として備中高松城に進むのは理解したけど、そうなってしまうと通説はひっくり返ってしまう。通説では本拠地の亀岡、当時は亀山だけど今の亀岡にしとくけど、そこからまず西に進もうとしてたはずなんだ。

 具体的には古代山陰道を西に進もうとしたけど、本能寺のために東に進み老の坂を越えたとなってるはず。だけどもともと備中高松城に進む予定だったのなら、古代山陰道を東に進み、山陽道に入ろうとしたはずよね。

「そうなったら老の坂で敵は本能寺にありと叫ぶ必要がなくなるわ」

 単なる順路だものね。それと、これもたぶんの部分は残るけど、江戸時代の山陰街道はほぼ国道九号で桂川を越えて京都の五条通に入ることになる。本能寺の時もそうなっていた可能性が高いのは同意だ。さらに言えば堀川通のところで南に進めば山陽道で、

「北に向かえば本能寺や。あの名セリフを叫ぶんやったらそこちゃうか」

 この光秀軍の進路だけど、これはこれで本能寺の謎の一つの説明にもなるって。信長は光秀に完全包囲され自害するのだけど、これは包囲されるまで気づかれなかった事にもなるのか。京都は信長にとって安全圏みたいなところだけど、それでもが起こるのが戦国時代だものね。

 本能寺は信長の宿舎としてそれなりの防御施設を整えていたらしいけど、それ以外にも監視所みたいなものがあったはずだって。これは信長護衛のためもあるけど、江戸時代なら番屋、現在なら交番みたいなもの。

 そういうところは京都市内の治安のために必要だし、あの夜は信長が本能寺にいるから警戒態勢を高めていたはずよね。

「桂川を越え五条通を進んで来る光秀軍は絶対に見つかるはずや」

 見つかれば本能寺に急報が送られるし、送られれば信長は一目散に逃げたはず。そっか、そっか、見つかっても不審に思われない理由が必要になるのか。

「亀岡から西に進むはずやったら不審に思われるやんか」

 そうじゃなくて京都で山陰道から山陽道に進む予定だったし、光秀軍がそうやって進むの通告が出てもおかしくない。だからあれだけやすやすと信長のいた本能寺に接近出来てしまったのか。そうなってしまえば信長でも逃げ道はなくなるよ。

「こんぐらいにしとこ。本能寺って聞いただけで歴史マニアの血が騒ぎすぎるわ」

 それぐらいにしてくれ。やってるのはツーリングだ。