ツーリング日和26(第19話)篠山分岐

 いつものように脱線話を楽しんだのだけど、丹波三街道は丹波を走る時には便利だから使ってやろう。現実にも丹波の幹線道路みたいな道だものね。

「千草がそうしたいならそうするわ」

 古代山陰道はデカンショ街道を西に進んで丹波の森街道にぶち当たって北上するけど、これは江戸時代には篠山街道って呼ばれてるのよね。江戸時代の街道のルートは微妙に違うところも多いだろうけど、基本は近い地域を走ってるぐらいかな。

 篠山街道は古代山陰道が江戸時代には福知山を回る山陰街道になったからそう呼ばれてるで良いと思うけど、グルっと回って古代山陰道の本当の後継者みたいな道のはず。

「本当の後継者は山陰街道で篠山街道は旧街道みたいなもんやろ」

 そこはもう良い。ツーリングで走るのは古代山陰道だ。今ならデカンショ街道を西に進んできて、丹波の森街道とぶち当たって入るけど、当時もそうだったの?

「波々伯部神社の東ぐらい小野駅があって、八上城の麓を通ってから篠山城の北側ぐらいを通り抜けてたみたいやねん。今やったら県道一四〇号にどっかで入るぐらいのはずや。篠山産業高校の近くぐらいに長柄駅があったと推測されとるわ」

 そんなもの言われたって、わかるか! それでもデカンショ街道は篠山市街の南側を迂回するバイパスみたいなものなのはわかるかな。昔はバイパスで迂回したのじゃなく、篠山の街を目指していたはずぐらいなのは理解した。

 今より早めに篠山川を渡ったのだろうけど、そういうルートになったのは篠山の街を経由するのが目的だったはず。

「江戸時代の篠山街道やったらそうやけど、篠山の街かって江戸時代になってからやぞ」

 篠山盆地を支配していたのは波多野氏で、その波多野氏の根拠地が八上城だったのか。丹波攻略を担当した光秀も八上城攻略に大苦戦したそう。それぐらい堅固な城だったそうだけど山城だったのよね。

「ハイキングコースになるぐらいの山城や」

 この辺は時代のトレンドらしいけど、その頃には日常生活に不便な山城から、平地の平山城とか、平城に移行していたみたいで、

「城下町を抱えるスタイルや」

 大坂城の秀頼が健在だったからそれに対する包囲網の一環として、天下普請で大規模な築城が行われ今に至るぐらいの流れかな。それでもさぁ、篠山川の北側に築いた理由はなんなの?

「そこまでは知らん。あれこれ理由はあったんやろうけど、古代山陰道が通ってたんはあったと思うわ。もっともやが、その頃の篠山がどうやったかはさっぱりわからん」

 篠山城と言うか、篠山の街が形成される前にも、長柄駅の続きぐらいはあったんじゃないかとコータローは考えてるみたい。駅家はとっくの昔に無くなってるけど、多紀連山の峠を越える前の宿場的な街と言うか集落みたいなものだよ。場所的にあっても良さそうな気はするな。


 千草たちは三田から丹波の森街道を北上してるのだけど、この道は篠山口駅の西側を北上する。篠山口駅は篠山への鉄道の玄関口になるはずだけど、あれこれあって篠山市街ののはるか西側に位置している。

 この辺は地方都市ではよくあるバイパス沿いのロードサイド店が軒を並べる感じのところで、ここも時間帯によっては結構混むところなんだ。平たく言うと信号が多いのよね。

「とにかくすっと抜けにくい」

 とくに混みだしたらそうだ。どこでもそうなると言えばそれまでだけど、今朝はすんなり抜けられた。ところで古代山陰道の丹後支道への分岐路ってどの辺だったの。

「寄ってみよか。川を渡った信号を右に行くで」

 えっ、この道ってくりから分水界から春日に行ける道じゃないの。真っすぐに進めば京都の三和で国道九号にも出れるよ。あん時は三春峠を走らされて大変だったな。西紀郵便局のある信号を越えて、信号も無い交差点にコータローはバイクを停めたけど、

「ここでクロスしとるのが篠山街道のはずやねん」

 ここなの! 右手に井階百貨店って名前のヨロズ屋みたいなのがあるけど、

「ここをちょっと行ったところから佐仲ダムに行く道が分かれとるから、たぶんここやと思うねんけどホンマの分岐点はようわからんかった」

 左右に走ってるのが篠山街道ならそんな気がする。その目で見ればなんとなく旧街道の感じがするじゃない。そこから左に曲がって篠山街道を走ったのだけど、これは裏道も良いとこだ。舞鶴道を潜ったぐらいで二車線の県道に出られて、ちょっとした峠越え、

「木の部峠って言うそうや」

 その峠を下ると国道一七六号、丹波の森街道に合流だ。もちろん北上して鐘ヶ坂トンネルが見えてきた。

「この辺は追入ってところがあったみたいで・・・」

 鐘ヶ坂峠を臨むところになるから、江戸時代には宿場町が置かれて二十軒の宿屋があったとか。さすがに跡形もない感じで、どこにあったかのかもわかんないよ。ちなみに篠山藩は追入の他に福住と古市にも宿場を置いてたそう。

 追入は国境だし、鐘ヶ坂峠に臨む最後の休憩所ぐらいの位置付けのはずだけど、瓶割峠はどの辺から登ってたの。

「国領温泉に下るとはあるんやけど、どこから登ったのかはイマイチはっきりせえへんねん」

 現代の地図では鐘ヶ坂峠から瓶割峠に稜線伝いに行くルートと、鐘ヶ坂トンネルのちょっと東ぐらいから登るルートがあるそう。人が歩く山道だから、地形の制約もあって今も古代もあんまり変わらないはずだけど、

「地図のルートが昔からあんまり変わらんと仮定したら、先に成立したのは瓶割峠かもしれん」

 これは駅家の間も最短距離で結ぼうとしたはずだの前提の話だけど、長柄駅の次は星角駅なんだよね。江戸時代の篠山街道も、現代の道路もそうなんだけど、この二つの駅を最短で結ぶなら鐘ヶ坂峠だ。だから両方の峠が通行できたなら鐘ヶ坂峠になるはずなんだ。

 だけど峠道を新たに切り開くのは今だって大変だ。古代山陰道が官道として整備された時にはまだ鐘ヶ坂峠が存在してなくて、瓶割峠しかなかったから当初はそっちだんじゃないかって。

「そやけど実際に登ったことがあらへんからわからんけど、瓶割峠から鐘ヶ坂峠の方が見えたんちゃうか」

 そっちに道を作れば近いのがわかったから、新たに切り開いたぐらいか。そうでも考えないと文献に瓶割峠の名前が遺された理由が説明できないよね。

「こんなもん想像やけど・・・」

 現在は瓶割峠から鐘ヶ坂峠へのハイキングルートはあるらしいけど、古代はまずそっちが早かった可能性もあると見るのか。そこから鐘ヶ坂峠を下りれば柏原方面にも、星角駅にも近いものね。だからまず古代のショートカットルートとして出来たぐらいの考え方か。

「そやから最初の頃は瓶割峠からの脇道ぐらいの位置付けで、後になって瓶割峠に回らんと追入への下り道が成立したぐらいや」

 だから文献資料にも瓶割峠と鐘ヶ坂峠の混同があるとすれば説明としては合理的の気もする。とはいえコータローも言う通りあくまでも想像なのよね。

「そやねんよな。結果として瓶割峠は街道ではなくなり、鐘ヶ坂峠が街道になってるねん。交通ルートからしたら鐘ヶ坂峠が地理的にも妥当やから学者も説明に苦戦しとるぐらいやろ」

 とにかく古すぎて伝承さえ残っていないらしい。

「そやねんよ。丹波国風土記が残ってへんからな」

 風土記に収載された伝承だけど、殆ど消えて失くなってしまったみたいなんだ。紙が貴重品時代だし、文字を読み書きできる人だって限られてるから語り継ぐしかないのだけど、さすがに古すぎたぐらいだろ。