ツーリング日和14(第33話)長秀と光秀

 部屋に戻って恒例の酒盛りの続き、

「おつまみにおばんざいとお味噌もらってきた」

 お味噌を舐めながらお酒を飲むみたい。まあイイけどね、

「そういうけど、もろきゅうってあるでしょ」

 ちょっと違う気もするけど、もう一つ聞いておきたいことがある。今日の話でビックリしたのは若狭でも合戦があったらしいこと。そんなものどこに証拠があるのだって話じゃない。

「あるで信長公記や」

 そんなものあったっけ、敦賀には攻め込んだ話はあったけど、若狭は通り抜けただけじゃない。そこでコトリさんが示した個所は、四月三十日の朽木越の続きで、

『是より、明智十兵衛、丹羽五郎座右衛門両人若州へ差遣はされ、武藤上野人質執り候て参るべきの旨御諚候。則ち武藤上野介母儀を人質として召し置き、その上、武藤の構破却すべし』

 なんだなんだ、敦賀からやっと逃げ帰ったばかりだと言うのに、長秀と光秀はまた若狭に派遣されたって言うの。これってブラック企業も良いところじゃない。信長ってムチャクチャな命令を出すこともあるらしいから、これもそれなのか。

「ここも取りようが二つあるんやが、一つはユリが思ったやっちゃ。その場合やけど、次のとこもセットで読んどかなあかん」

 次ってここか、

『五月六日、はりはた越にて罷上げ、右の様子言上候』

 えっとえっと、針畑越で長政も光秀も京都に戻って来て使命を果たしたと報告したぐらいになるけど、ちょっと待ってよ、京都に戻ったのが信長と一緒でも四月三十日の夕方か下手すりゃ夜じゃない。

 五月一日に京都から若狭に出発したとしても、片道十八里の往復三十六里なんだよ。針畑越だから馬で駆け抜けるなんて出来ないから、どんなに急いでも三日ぐらいかかるはず。それだったら若狭にいられるのは長くて二日ぐらいじゃない。

 その間に武藤上野介の母親を人質に取って、武藤の城を壊しちゃうなんて超人技じゃないの。長秀と光秀は空も飛べるスーパーマンだったとでも言うの!

「そういうこっちゃ、絶対に遂行不可能な命令や。だから読み方を変える必要がある。まずやけど、長秀と光秀に命令が出されたんは四月三十日とするやんか」

 だから京都で命令をもらっても実行なんか出来るはずないじゃない。

「この日やけど信長が朝までおったんは熊川宿の可能性が高いやんか」

 それはさっきやったけど、

「そこで下した命令と見るんよ」

 なるほど。それなら可能性が出てくる。でもあんな状況で、

「だから見栄張って逃げるためやろ。もともとの大義名分は武藤上野介の征伐やん。信長の別動隊が動いとったはずやけど、たぶんやけど、本隊が朝倉を追いつめて行ったら、自然に降伏するぐらいの目論見でゆるゆる動いとったんちゃうやろか」

 信長が熊川宿まで来たのが四月二十日だけど、先発隊はどうだろ、その何日か前に若狭に入って小浜方面に動いていたのかもしれない。でも信長が敦賀に攻め込んだたった三日後に事態は急変する。浅井の離反だ。

 信長は若狭に撤退して来てまだ武藤上野介のカタが付いていないことを気が付いたぐらいかもしれない。これを撤退戦の最中に遂行させるために選ばれたのが長秀と光秀だったのか。それにしてもキツイ条件だな。よくこんな状態の中で出来たものだ。

「そう見えるか。まず武藤上野介の力がどれぐらいかやったになるんやが・・・」

 若狭の四老の一人だから十万石ぐらい、

「あのな。若狭全部で八万五千石しかあらへんねんぞ」

 それぐらいの国だったのか。だったら一万石ぐらい。

「はっきりせえへんとこもあるけど三千石とか四千石ぐらいで良さそうや」

 たったの。だったら動員兵力は、

「どんなにかき集めても二百人ぐらいちゃうか。もっとも、自前だけやのうて周囲の国人衆とか、地侍の応援もあるかもしれんが、信長軍の脅威が迫る中でそんなに集まるとは思えへん」

 佐柿の粟屋越中守でも地侍二百人に百姓六百人って話もあったものね。そこに千人とか二千人で攻め寄せられたら、

「普通は勝てん。そやから信長が出したんは和睦条件や」

 信長にしてものんびり包囲戦はしたくないだろうし。でもさぁ、自分の母親を人質にして、城まで壊されちゃうんだよ。

「ここも読みようやが、武藤上野介は殺されてへんどころか、領地も取り上げられてへん。差し出す人質かって息子やのうて母親や」

 でも城は壊される。

「ここは壊す約束をすると見たいわ」

 そうなると実質の和睦条件は母親を人質に差し出すだけか。

「名を取って実は捨てるでエエと思うねん。言い出したらキリあらへんけど母親かって本物かどうかはわからん」

 これを四月三十日から五月四日ぐらいまでにまとめあげ、針畑越で京都に戻って来て信長に報告したって話なのか。この針畑越の話って、尻啖え孫市の話の筆者注にあった話のモトネタとか。

「わからん。そやけど司馬遼太郎が甫庵信長記をタネ本の一つににしてるのだけは間違いあらへん」

 秀吉が金ヶ崎に残るシーンは信長公記なら、

『金ヶ崎之城に木下藤吉郎残しをかせれ』

 たったのこれだけなのよね。だからあれこれコトリさんは想像の翼を広げたんだけど尻啖え孫市なら、

『・・・藤吉郎は末座から進み出た』

 要は秀吉が自ら進み出て金ヶ崎城に残った話にしている。これが甫庵信長記なら、

『木下藤吉郎秀吉進み出て申されけるは某残りべく申し候・・・』

 もちろん歴史小説ならこれぐらいの脚色は余裕でOKなんだけど、

「金ヶ崎に志願して残った秀吉に、自分の部隊の手練れを分けるシーンも甫庵信長記にあるねん」

 ホントだ。これってパクリとか、

「厳密にはそうなる。そりゃ、甫庵オリジナルみたいなとこやからな。そやけどちゃう気もするねん」
「そう言えば、秀吉が志願して残った点を司馬遼太郎は手放しどころでない大絶賛なのよね」

 そうだった。尻啖え孫市には、

『この言葉の重大さは、三百九十年を経て泰平の畳の上でこの本を読んでいる読者には、おそらく千万言を費やしてもわからぬであろう』

 甫庵信長記はその代わりに、義経記で佐藤忠信が奮戦する名場面を引用して褒め称えているかな。ここは読みようかもしれないけど甫庵が秀吉を絶賛したから司馬遼太郎も表現を変えて絶賛しているようにも見えるよね。

「まずやけど甫庵も信長公記をタネ本にしてるんよ。つまりやけど『金ヶ崎之城に木下藤吉郎残しをかせれ』からの甫庵の脚色や。そやけど司馬遼太郎は甫庵信長記を史実と思い込んどった気がするねん」

 全部推測に過ぎないけど、当時の歴史常識の限界だったかもしれないって。現在のように史実を推測するのに信長公記をベースにする考え方がポピュラーじゃなくて、甫庵信長記こそが史実であるとしてたぐらいかな。

「断っとくけど司馬遼太郎を責めてる訳やない。あの頃やったら、甫庵信長記を読んでタネ本にしてるだけでも十分やねん。歴史の見方は時代で変わるからな」

 だったらだったら常楽寺から刀根越で敦賀に攻め込む話も甫庵信長記がタネ本だったとか。

「あれはどこからかわからんかった。甫庵信長記でも熊川宿から佐柿やねん。強いて言うたら、三年後の越前攻めがそっちやったから、混同しとった可能性があるぐらいや」