ツーリング日和14(第20話)撤退ルートの謎

 あそこみたいだな。バイクを置いて、そこから脇道に入って行くと、大きな置き行灯に熊川宿って書いてあるのがテンションを挙げてくれる感じ。カラー舗装なのがオシャレだ。

「土道のイメージやろうけど、アイデアや。ここまでしてるんは初めてやないか」

 熊川宿はは西から下ノ町、中ノ町、上ノ町なってるみたいで、ここは下ノ町か。歩いて楽しみながらおしゃべりならぬコトリさんの歴史講釈。

「あそこも不思議やな」
「マジで信じ込んでいたとか」

 尻啖え孫市では常楽寺から北国街道を北上して、刀根越から敦賀に雪崩れ込んだことにしてるんだよね。そこから浅井の離反が起こって退き口が始まるのだけど、

「それも含めてワザとだったとか」
「誤解の上の展開の気もしてきた」

 どっとちも言えないけど、

「誤解やったら不自然と思わんかったんやろうか」
「思い込みって怖い時があるからね」

 司馬遼太郎は信長の撤退戦を絶賛してるんだけど、

『信長自身の退却戦の指揮ぶりもみごとだったというほかない。日本戦史上、戦術家としての信長が高く評価されるのは、まずこの退却のうまさだったといっっていい』

 信長の撤退戦が大成功したのはコトリさんも認めてる。軍隊って進む時より退く時の方が十倍は軽く難しいから、あれだけ少ない被害で撤退できたのは余裕で称賛できるとか。

「そやけどな、最初の設定をいじったから難度を上げてもてるし、撤退ルートの選定も無茶に見えてまうやん」

 尻啖え孫市の設定では進撃路を退路として使えなくなったから、新たな退却ルートを信長が設定したみたいになってるけど、

「そんな曲芸やってへんねんよ。信長は来た道を引き返しただけやん。それが使えるんやったら誰でも選ぶルートや」

 そうなのよね。尻啖え孫市の設定なら北国街道を浅井の離反で退路を塞がれてしまって絶体絶命の窮地に陥ったイメージになるけど、実際は浅井の離反あろうとなかろうと信長は通る予定の無い道になるものね。

 それと退却となると進んで来た道を引き返すのを誰でも思いつくはずだけど、若狭ルートは塞がれた訳じゃない。それだったら他に考えようがないじゃない。当たり前に思いつく退却路を選んだだけの話だ。

 尻啖え孫市では攻め込んだルートが湖東で刀根越えだから、信長はあっと驚く京都への道を指し示したイメージになってるし、これに対して司馬遼太郎はさらなる賛辞も付け加えている。

『・・・さらに退却戦での損害を軽微にするために、退却路を二つ選んだ。主力は藤吉郎が後から追った佐柿・熊川・朽木谷・大原・京都という道をとり、別軍(徳川家康など)は、小浜から根来谷に入り、針畑を越え、鞍馬山を通って京都に入った』

 撤退にあたって若狭街道だけじゃなく針畑越も使ったとしてるよね。

「ここは当時はどうだったのだろう」
「なんとも言えんとこが多すぎる」

 針畑越は針畑峠を越えて下りてくるのだけど、その道は針畑川に沿っての道なんだって。これは今でもそれ以外に通りようがないぐらいの地形で良さそう。この針畑川は途中で久多川に合流するのだけど、そこには川合という集落があったそう。

 そこからが問題で、針畑川は東側に下って行って安曇川に合流するから、針畑川に沿って歩けば若狭街道に合流する事になるし、ここに今でも道は通ってるし、おにゅう峠を走りたいならこのルートだそう。

 問題は川合から久多川を遡る道もあるんだって。西側に進むことになるのだけど、やがて花脊峠を越え鞍馬街道で京都に行けるらしい。地図を素直に見ると遠回りだし険しそうだけど、こっちの方が京都から若狭に向かう針畑越えとしては古いそう。

「ホンマに針畑越で帰ったのがおった話はまたするけど、秀吉が若狭街道で、家康が針畑越は尻啖え孫市の設定として無理あらへんか」

 尻啖え孫市では金ヶ崎に居残った秀吉を除けば退却の最後尾を家康としている。さらに言えば家康が去ってからものの十分程度で朝倉軍が現れたとしてる。この辺は脚色として良いとして、家康はどこに行ったんだろうって。

 秀吉が国吉城にたどり着いたのを『陽のあるうち』にしてるから十九時ぐらいなのは良いとして、ここには家康はいないのよね。となると、

「わざわざ国吉城をパスして先に進み、なおかつ針畑越えを目指しとった事になるやんか」

 なんか無理あるよな。

「さらに問題なんは司馬遼太郎の筆者注の入れ方や。金ケ崎の時はそれでも本文の中のもんやったけど、この個所はガチの注釈やんか」

 字体まで変えてるものね。そうなるとこれが事実であると確信をもって書いた、ないしはそういう確固たる根拠を持っていたことになるのか。そうだそうだ。最初の設定を変えて難度が上がったのは信長が新たな撤退ルートを見つけ出した以外には、

「亜美さん。読んどって違和感あらへんかったか」
「違和感と言うか、どうかなんですが、浅井の離反で窮地に陥っているはずの信長軍に、国吉城の粟屋越中守がどうしてあそこまで協力したかの理由です」

 それはユリもあった。最後尾になった秀吉軍が逃げ込んで来た時には朝倉軍に包囲までされてるじゃない。さらに言えば包囲されたことにより熊川宿への道も塞がれている設定にもなっている。そうなれば朝倉軍は椿峠を突破して佐柿にまで進出している事になるのよね。

 その朝倉軍の包囲網を孫市の奇策で翻弄して、国吉城からの脱出するエピソードは痛快だったけど、秀吉軍が去った後の国吉城と粟屋越中守はどうしたかって疑問が出て来るよ。敦賀から佐柿って四里ほどしか離れてないのよ。それでも朝倉軍が一五六三年から攻め続けて若狭を支配下に置けなかったのは、国吉城と椿峠のセットをどうしても突破できなかったこと。

 椿峠を突破され、佐柿にまで侵入されて国吉城を包囲されたら状況的に完全に追い詰めれている。信長軍は撤退の真っ最中だし、京都まで無事に逃げ込めたとしても、国吉城の救援に来れるのなんか、いつの日になるかわからない状況だもの。

 簡単に言うと最後尾の秀吉軍が去った後は孤立無援で朝倉軍と戦うしかない絶体絶命の状況しか残されてない。こんな状況で秀吉とか、孫市の要求を聞いてるヒマはないし、むしろ踏ん捕まえられて、朝倉軍に和睦の材料として差し出されないのが不思議なぐらいなんだよね。

「そういうフィクションの攻防戦を描いたってかまへんねんけど、後始末をしてへんねんよ。適当に家康を登場させて、粟屋越中守をディスって、孫市を大活躍させて、国吉城のその後を全部放り投げて、司馬遼太郎も東大阪の自宅に逃げ込んだことになる」

 悪いけどそうなる。だったら、だったら、実際のところはどうなってたんだ。

「あれっ、街道の道が切れて車道に出ちゃうよ」
「ホンマや、まさかこれだけって事はないはずやけど」

 熊川宿の下ノ町を歩いていたはず。でもここまではちょっと期待外れだったかな。たしかに古い家と街並みは残ってるけど、もう住んで無さそうな家があったり、取り壊されて空地になってるところもあった。

 これだけでも残っているのはすごいとは思うけど、ちょっとこれじゃ、わざわざ立ち寄るだけの価値があるのか疑問なぐらいだもの。

「続きはこうなってたんだ」
「ここから中ノ町なんか」

 途切れたかと思った道だけど、またつながっていただけでなく、こ、これは、

「道も広くなってるし」
「並んでる家も立派じゃない」

 住んでるというか営業している店もちゃんとある。右側の小川というか用水路みたいなのが感じが良いじゃない。

「前川って言うらしいけど、当時の上水道みたいなもんみたいや」

 なにか小型の水車みたいなのがあるけど、

「いもぐるま言うて、里芋洗う機械らしいで」

 お土産屋さんみたいな店もあって、観光地ぽくて良い感じ。

「名物食べなあかんな」
「鯖寿司」

 いやいや、さっきお昼を食べたばっかりじゃない、

「熊川宿言うたら葛餅やろ」

 さっきへしこアイスも食べたでしょうが。とはいえ、こんなところで葛餅と思ったけど、ここは日本三大葛の一つだとか、

「京都では吉野の葛より珍重されたって話も残ってるらしいで」

 感じの良さそうな店で、

「葛餅パフェ」
「とち餅ぜんざい」

 葛餅と言いながらとち餅ざんざいかよ。立派そうな宿場町だけど、これって大きいの、小さいの。比較がないからわかりにくいな。

「宿場町の大きさは長さと軒数やろな」

 なるほど、今でも昔ながらの宿場町が残ってるところで、パッと思いつくのは馬籠と妻籠だ。いつかは行ってみたいところだけど、あそこよりは小さいのだろうな。

「馬籠で三百九十メートルで六十九軒、妻籠で二百七十メートルで五十一軒や」

 なんか大きいか小さいかわかりにくいけど熊川宿は、

「千メートルで二百軒あったとなっとる」

 それって大きいじゃない。

「今残っている宿場町なら奈良井宿と並んで最大級のはずよ」

 江戸時代だってかなり大きな方で良いみたい。ちょっと見直した。でもさぁ、考えようだけど、大きいと言ってもこれぐらいだったんだ。

「ああそうだよ。昔の町がとっても大きいの表現に『なんとか千軒』があるけど、一軒に五人住んでも五千人、十人詰め込んでも一万人だもの。それぐらいが大きな街の目安だったってこと」