ツーリング日和14(第15話)丹後街道

 朝食を頂いて、

「今回は距離走るツーリングやのうて、歴史フィールドワークツーリングや」

 亜美さんとタンデムでまず向かったのが敦賀市街。ここは小学校の前だけど、

「校門の左側に石碑があるやろ」

 なになに丹後街道の起点がここだとなってるけど。

「丹保街道は丹後の宮津から敦賀を結ぶ昔からある街道や。この先が敦賀湊や」

 ここから南に下っていく道が当時の丹後街道らしいけど、

「信長は金ヶ崎から撤退を決めたけど、とにかくこの道を目指して来たはずや。信長だけやない、信長軍全員がこの道を撤退して行ったんや」

 今はなんの変哲もない道だけど、その時は鎧兜の武者たちが駆け抜けて行ったんだろうな。そこから南下していき、

「次の信号を右に曲がるで」

 小学校前の石碑から南下した道だけど、曲がってからも南西方向に走ってるな。なにか遠回りしてる気もするけど、

「敦賀半島から続く山脈が越前と若狭の国境やってんよ。これが結構険しゅうて、ここまで迂回せんと越えられへんかったでエエやろ」

 今はトンネルが出来てそっちが国道になってるけど、ここが旧道で丹後街道だったってことね。道は国境らしく登り坂になって、上がり切ったあたりに地蔵堂があるけど、

「ここが関峠や。名前からして国境の関所があってんやろ」

 ここって金ヶ崎城からどれぐらい?

「ナビで二里半ぐらいや」

 二里半って十キロぐらいか。峠道になるのだけど、お世辞も険しいとか、厳しいとかって感じはないね。当時とは違うのだろうけど、山を越えると言うより丘を越えてる感じがする。ここも尻啖え孫市では、

『関峠を越えるとき、あれだけ敵味方がどかどかと鉄砲を撃つと、山の猪や鹿がとまどうてしもうて、血迷うたやつが街道までころがりおちてきた。それをポンポンと射ちとめた』

 これは孫市の言葉だけど、

「ないで。猪は百キロこえるで」
「いくら孫市が豪傑でも、その場で解体する余裕なんてないよ。百キロの猪を運ぼうと思ったら二人がかりでも大変すぎる」

 これは激戦の中でも猪を撃ちとめるぐらい余裕を見せるエピソードの創作としてたけど、

「やりすぎや」
「佐柿までまだ一里半以上あるのよ」

 関峠をゆるやかに下って行くのだけど、ここは越前じゃなくて若狭になるのか。あんまり国境を越えたって気にはならないけどね。道はシーサイドになってきたけど、ここも丹後街道らしいから信長も駆け抜けて行ったんだろうな。

「ちょっとストップ」

 コトリさんがバイクを停めたのは坂尻って書いてある交差点だけど、

「この先にトンネルあるけどその上ぐらいが椿峠や。そうやな山と山の一番低いとこぐらいのはずや」

 これまた低い峠だな。福井県の峠と名がつくところでも一番低いとかで、標高はわずか五十メートルだって。

「峠の左側が城山で、右側が天王山や」

 それで、

「トンネル潜って佐柿に行くで」

 椿峠はバイクも走れない道だとか、

「一九六四年にこの椿トンネルが出来て廃道になったらしいわ。今は登り口を見つけるのも大変って話や」

 そうなんだ、

「それとやけど、この峠は若狭で重要な峠やってんよ」

 敦賀から攻め寄せて来る敵への最前線になったとか。

「最前線でもあったけど、難攻不落の要害でもあったんよ」

 こんな峠が、

「よっぽど険しかったんやと思うで、その証拠に椿峠を抜けるのに三本もトンネル掘ってるやんか」

 そういう風に考えるのか。関峠もバイパスのためにトンネルを掘ってはいるけど、だいぶ北側だものね。あれは関峠を険しさを避けると言うより、どうせバイパスを作るなら距離のショートカットを狙った気がする。これに対して椿峠のトンネルは、椿峠をダイレクトに回避するために掘られているものね。

 コトリさんが言うには、越前と若狭の国境は関峠だけど、軍事的な意味での防衛線としての国境は椿峠のはずだって。そうなると椿峠を越えたところにある佐柿は国境の町だったとか。

「そんな趣はあった気がするねん。佐柿は江戸時代も宿場町として栄えとってん」
「だけど敦賀と微妙な距離関係なのよね」
「近すぎるやろ。四里半ほどやんか」

 えっとえっと、さっきから距離を里で言ってるけどピンと来ないよ。

「慣れたら便利やで。あれはな、人が一日に歩ける距離を十分割したもんなんや」
「日の出から日没までが歩いてる時間になるけど、だいたい十時間ぐらいとみたら良いと思うよ。だから一時間で一里ぐらいが目安だよ」

 江戸時代の一里は約四キロにはなってたそうだけど、全部がそうじゃなくて、険しい道だったら一里が短くなったり、逆に歩きやすいところだったら長かったりもあったそう。ここも言い切っちゃうと、そこの地形で人が一時間で歩ける距離が一里かな。

 だから東海道とか中山道の宿場町もそういう距離を目安に整備されたとか。それで敦賀と佐柿が四里半なら半日ぐらいの距離だから微妙過ぎる距離なのか。椿峠がいくら険しくとも標高で言えば五十メートル程度だし、関峠に至ってはタダのだらだら坂だものね。

「あくまでも想像に過ぎんけど、とくに若狭の人にとっては椿峠を越えるのに意味があったんやないかと思うねん。だから習慣みたいに佐柿に泊ったとか」
「それもあるかもしれないけど、小浜から十里弱だったからじゃない」

 丹後街道を西から来るとそうなるのか。でもそれも今は昔のお話で、今は佐柿と言う自治体は無くて、美浜町の一部らしい。これだって、若狭で有名な町は小浜、高浜だから美浜もそうかと思っていたら、美浜は後から大きくなって佐柿も吸収してしまった感じで良さそう。

「佐柿がなくなったのはもっと早いよ。明治二十二年に耳村になってるよ」
「美浜町になったんは昭和二十九年やからな」

 もっとも、

「町村合併やりすぎよ」
「あないデカなったら、どこかわからへんやんか」

 この辺で話は打ち切りでいざ椿トンネルに、