信長公記で確認できる日程ですが、
月日 | 事柄 |
4/20 | 京都出発、和邇宿泊 |
4/21 | 高島田中城宿泊 |
4/22 | 熊川宿に泊る |
4/23 | 佐柿宿泊 |
4/24 | |
4/25 | 敦賀侵攻、手筒山城を落とす |
4/26 | 金ヶ崎開城 |
4/27 | 日付不明 |
4/28 | |
4/29 | |
4/30 | 京都に帰る |
それと開城は平和裏に行なわれたと見て良さそうです。もう少し4/26を推測すると前日に手筒山城を落とした信長軍は、隣接する金ヶ崎城への攻撃態勢を敷きます。ここで朝倉軍が開城の意思を示しての交渉が始まったはずです。朝倉軍の要求は開城する代わりに木の芽峠への安全な撤退の保証です。
この交渉は成立し朝倉の城兵が木の芽峠に消えるまで戦いはなかったはずです。ここはもう一歩踏み込んで4/26は停戦状態で信長軍も休養中であったと見ます。敦賀に攻め込んで二日で手筒山城、金ヶ崎城、疋壇城と手にしたのですから、明日からの戦いに備えて兵を休ませる判断は順当でしょう。
信長軍は木の芽峠への進軍の意図があったのは信長公記にも明らかですが、それは4/27朝から始まったのではないかと考えています。
さて浅井の離反へのトリガーは信長の敦賀侵攻のはずです。ここで敦賀と近江小谷の距離がおおよそ40kmですから伝達速度は1日です。ですがトリガーに即座に反応して情報が送られたとすると4/25夕に小谷に伝達されていた可能性はあります。
4/25夜に浅井が離反を決断して動員令がかかるのが4/26朝からと考えると、その動きが信長に伝わるのが4/27の午後から夕方ではないかと推測します。
ここでその夜に信長は佐柿に撤退したとする説があります。これは三河物語が根拠かと推測していますが、金ヶ崎から佐柿まで四里ぐらいです。つまりは四時間もあれば佐柿に着いてしまいます。
さらに言えば、浅井軍が敦賀に來るのも一日必要です。4/26動員をかけて、4/27朝に出陣しても敦賀到着は4/27の夕になります。ただそんなに早く動けるものかが出てきます。浅井の離反は入念に準備されて起こったものではないはずだからです。
当時の浅井軍のレスポンスを知る資料はありませんが、4/26朝に動員令が下されても、浅井軍が結集するのは4/27の夕までかかったのではないかと考えたいところです。というか、浅井の動きはそれぐらいだの知識が信長にあったと見たいところです。
信長の判断として浅井軍が敦賀に姿を現すにしても、早くて4/28の夕ぐらいになる計算です。つまりは4/28に浅井は撤退を阻害する要因にならないぐらいでしょうか。ですから信長は4/28未明に金ヶ崎を出たのじゃないかと考えています。
そこからですが、4/30に信長は朽木を越えて京都に戻っています。興味は4/29はどこに泊っていたかです。朽木より若狭よりは間違いないですが、最有力になるのが熊川宿です。
熊川宿を出てしまうと保坂まで集落さえなく、保坂は浅井の勢力圏である今津から九里半街道で二里ほどです。そんな危険なところに宿営するとは考えにくいので、熊川宿だったと考えています。
そうなると信長は4/28早朝に金ヶ崎を出て、九時ぐらいには佐柿に着き、そこで撤退してくる信長軍を出迎え、その日は佐柿に泊り、翌日は熊川に移動して泊まったスケジュールが出てきます。
ここはもう一つあって、木の芽峠は峻険な山道であり一本道です。朝倉軍の追撃も木の芽峠を下りて敦賀に入らないと展開が出来ません。つまり朝倉軍は信長軍の先鋒部隊を踏み潰さないと後続部隊を襲い様がありません。
情勢は緊迫はしていましたが信長本隊はかなり余裕を持って撤退していたと推測する次第です。