ツーリング日和14(第32話)あの歴史的エピソードは?

 京地鶏は美山ですき焼き食べて以来だけど美味しいな。亜美さんもパクついてるものね。

「足らんかったら、なんぼでも追加するから遠慮せんでエエからな」
「食べなきゃ、大きくならないよ」

 あれだけ食べても大きくならない見本がユッキーさんだけどね。今日は朽木も訪れたのだけど、朽木と言えば金ヶ崎の退き口でも有名なエピソードがあるじゃない。信長の通過を朽木氏が渋って、松永久秀まで説得にあたったとか。でもコトリさんはなぜか触れもしなかったのよね。

「あの話ね」
「なかったんちゃうやろか」

 はぁ、あれも金ヶ崎の退き口に欠かせない話じゃない。ちなみに信長公記には、

『四月晦日、朽木越をさせられ、朽木信濃守馳走申し、京都に致つて、御人数打納れられる』

 こうだけど、

「ほら見てみい、なんも書いてあらへんやんか」

 あのねぇ、信長公記の資料性は高いのは学んだけど、書いてなければ起こっていないの意味じゃないでしょ。そこまで言うなら根拠を出しなさいよ。

「日取りや。四月三十日で確認できるんは、朽木谷を通り抜けた事とその日に京都に戻った事と読むべきやと思う」

 まあそうだけど、

「そう考えた時に四月二十九日はどこに泊ったかになる」

 コトリさんの推測なら二十八日が佐柿だから、二十九日は熊川宿ぐらい。

「コトリもそれぐらいが可能性が高いと考えとるねんけど、熊川宿から京都まで一日で行くのは遠いんよ」

 だったら朽木谷。

「泊まれるぐらいやったら、あんなエピソードは出えへんやろ」

 そうだった。やはり朽木谷は通り抜けただけだと考えるべきだ。そうなると熊川宿になるよな。だって寒風峠とか、水坂峠に野宿したとするのは無理あるし、保坂なら民家もあっただろうからマシだけど、

「そういうこっちゃ、高島郡は浅井の勢力圏内や。あの状況で野宿はしたないわ。それやったら朽木に泊るで」

 新暦で六月の話だから日は長いとしても、熊川宿から京都まで行こうと思えば時間的に余裕がないのは確かだ。

「ノンビリ交渉なんかやっとったらタイムアウトや」

 だよな。行って五分や十分で済むものじゃないものね。使者の行き返りとかの時間とか考えると一時間や二時間ぐらいはすぐに経っちゃうよね。

「前提みたいな話になるんやけど・・・」

 信長も信長軍も西近江路から今津に行き、九里半街道で若狭に行ったのは間違いない。また補給路として琵琶湖の水運を活用していただろうもわかる。でもそれとは別に京都への連絡路として若狭街道も抑えていたはずだは十二分にありうると思う。

 若狭街道でポイントになるのはやはり朽木谷。それ以南の状況はわからないけど、六角氏が滅んだ時点で信長の勢力圏になっていてもおかしくなはず。ひょっとしたら若狭街道で最大の独立勢力だったかもしれないよね。

 ただ独立勢力と言っても、朽木氏の力は小さくて、浅井や信長と単独で戦えるようなものじゃない。位置的に両巨大勢力の中間だから、どちらかに付かないと滅ばされるぐらいのはず。

「浅井と朽木の関係が決裂したんも信長の工作ちゃうか」

 浅井氏が一五六六年に高島郡を勢力圏内にした時に、朽木氏は浅井氏に人質を出して、浅井に従属するって起請文まで交わしてるらしい、

「起請文を交わしたんが一五六八年やねんけど、まもなく破棄したとなってるねん。破棄するのは浅井に喧嘩売ってるようなもんやけど、喧嘩売っても問題があらへん状況になったと見るべきやと思う」

 つまりは浅井と手を切り、信長と結んだってことよね。なのにあのエピソードが生まれたのは、

「可能性としては浅井の謀略はある」

 あれだな、噂を流すってやつ。でも状況が状況だから信長だって信じそうじゃない。

「そやけどな、もう一つのタイムスケジュールが絡んで来る」

 これはコトリさんの仮説ではあるけど、四月二十八日に信長は金ヶ崎から佐柿に遅くても十時ぐらいには到着して、そこで撤退してくる信長軍を出迎えたのじゃないかとしてた。これは激励もあるだろうし、信長健在を見せる意味もありそうだ。

「ほいでやな。佐柿に泊って翌日に熊川宿に移動するにしても余裕があるやんか」

 うん、一刻を争って逃げるって感じじゃないよな。

「信長が先頭やないと思うんや」

 あっ、そっか。金ヶ崎から佐柿へは先頭で撤退したとしても、熊川宿から京都は必ずしも先頭を切る必要はないのか。つまりは信長に先行する露払い部隊がいてもおかしくないよな。露払い部隊は朽木谷に四月二十九日に到着していたとしても不自然とは言えないもの。

 朽木氏の当時の所領ははっきりしないそうだけど、秀吉時代に九千二百三石二斗てのがあるそう。つまりは一万石程度だから総動員しても五百人ぐらいしかいないだろうって。

「たとえばやが、朽木に来た信長の露払い部隊が二千もおったら震えあがるで。朽木信濃守は熊川宿は大げさでも保坂ぐらいに出迎えてても不思議あらへん」

 それだったら朽木谷は信長軍の占領状態みたいなものじゃない。

「そやからあんな話が広がって残ったんちゃうか。そうされたんは寝返りの噂があったからやって」

 そう言えば、その後の朽木氏冷遇話は、

「あれは朽木通過がネックになったの前提の話や。そやけど普通に通しただけやったら、褒美もない代わりに罰もあらへん。そやから潰しもしとらへんやんか。それから出世せんかったんは、朽木信濃守がその程度の人物やったぐらいでエエんちゃう」
「戦国時代の褒美は戦場の勝ち戦じゃないと原則的に無いのよ。負け戦でいくら頑張ってもなんにも貰えないってこと。だから負けだすと一挙に崩れることが多いのよ」

 なるほどね。命を懸けるからには御褒美が期待できないところでは働かないってことか。金ヶ崎の退き口の御褒美ってあんまり聞かないものね。

「秀吉に黄金数十枚を与えた話があるそうやけど、あれかって怪しいもんやし、秀吉以外になると話すら残ってへん」
「とにかく防衛戦は不利だったのよ。御褒美の原資は切り取った敵の領地だもの。守ってばかりじゃジリ貧になっちゃうの」

 なるほどね。戦国経済学みたいなものか。

「秀吉は忠実すぎて朝鮮まで攻めちゃったぐらいじゃない」
「信長かって攻めるとこがのうなったら、何やったかわからんで」

 そこまではともかく、そういう活躍が朽木元網にはなかったのかもしれない。それでも将来を信長に賭ける眼力ぐらいはあったのかも。