ツーリング日和14(第26話)保坂

 朝食を頂いてから宿から駐車場に戻りながら、

「熊川宿の最盛期は江戸時代の前半やろな」
「もっと短いよ、河村瑞賢の西回り航路が確立したのは家綱の時代だよ」

 西回り航路の始まりは加賀藩が年貢米を瀬戸内海経由で大坂に運んだのが始まりだとか。この航路は年を経るほど栄えて、日本海沿岸の諸藩の米も海運で運ばれるようになってしまったらしい。

「そやから琵琶湖の水運も衰えたし、琵琶湖の水運をアテにしていた九里半街道も使われんようになってもたぐらいのはずやもんな」

 西回り航路は後に北前船の隆盛にもなっていくのだけど航海術も発達して、

「小浜どころか敦賀でさえ特急の停車駅から外されてもたからな」

 敦賀も西回り航路が成立する前の一六七一年には、年間二千六百艘も寄港していたみたいだけど百年後に五百艘まで激減したそう。

「塩鯖増やしたぐらいで穴埋め出来るとは思えんからな」

 バイクに乗って今日のツーリングがスタートだ。でも走りだして五分もしないうちにトンネルの前に停まり、

「これは寒風トンネルやねんけど、九里半街道はこの上の寒風峠を越えとってん。標高六百メートルぐらいやど、九里半街道最大の難所としてエエやろ」

 へぇ、トンネルの上の山を越えてたのか。まさか旧道を走るとか、

「無理みたいや。マウンテンバイクで挑んだ動画があったけど、コトリらのバイクじゃ無理そうやった」

 走るつもりで調べてたんかい。寒風トンネルを抜けて三分もしないうちに、

「ちょっとストップ」
「ストップって一本道じゃないの」
「そうやねんけど、寒風峠は無理でも気分ぐらい味わいたいやんか」

 ナビをしばらく確認してから引き返し、

「あそこや。右に入るで」

 ありゃ、センターラインの無い道だ。あんまり嬉しくないよ。それに結構なワインディングだし結構な登りじゃないの。

「これって旧道なの」
「たぶんそうや」

 すぐに登り切ってくれたみたいで、そこからは軽いワインディングある程度の道になてくれてホッとした。相変わらずセンターラインはないけど、すれ違うクルマなんか滅多にないからラッキー。

 それにしても山の中でなんにもないな。なんにもないからクルマも走ってないのはわかるけど、今でもこれだけ何もないのなら、江戸時代はなおさらだったんだろうな。

 そんな道を五分も走っていると前の方に民家が見えてきた。熊川宿を出てからずっと山の中を走って来たようなものだから、人家が見えるとホッとした気分だよ。道は突き当たって三叉路になるみたいだけど、道路案内に左が今津市街、右が朽木となってるな、

「ちょっと停めるで」

 三叉路のところにバイクを停め、コトリさんは興味深そうに周囲を見てるけど、

「ここってそうなの」
「バス停に保坂ってなっとるやんか」

 それから集落の方の道に入って行き、

「あった、あった」
「こっちが本当の旧道だったのか」

 そこには石の道標が立っていて、

『左わかさ道 右京道 左志ゅんれいみち 今津海道 保坂村 安永四年』

 こう刻まれてるじゃない。ここはかつては若狭、朽木、今津に向かう街道が交わるところで交通の要衝だったのか。

「ここには保坂関もあってんよ」
「そうなると越えて来たのは水坂峠ね」

 こうやって街道が交わるところは栄えていそうなものだけど、

「そやからこんなところにドライブインもどきもあるんちゃうか」

 よく経営が成り立つっていると思うような店があるものね。それでもかつて栄えたところとするには無理がありそうだ。

「ここは通過点やったと思うで。今津まで二里しかあらへんからな」
「熊川宿だって二里かせいぜい三里だし、朽木だって二里ぐらいじゃない」

 保坂で泊まるより他のところを目指して行ってしまうところぐらいだったのかな。

「そりゃ、ここになんか特産品でもあって買い付けに來る用事があったらともかくやけど、なんもなさそうやんか」
「三十三か所のお寺もないし」

 それにしても歴史的な謂れとか知らなかったら、何の変哲もない田舎の三叉路だ。

「歴史ウォッチも昔からのものが残ってる方が嬉しいのんは間違いあらへん。そういうことは立派な観光地になっとるとこが多い。そやけど由緒を知っとって、自分だけで楽しむのもおもろいで」
「それをオタクって言うのよ」
「オタクやない歴女や」
「同じでしょうが」

 コトリさんが筋金入りの歴女なのはわかるけど、ユッキーさんの歴史知識だって相当なものじゃない。

「同じにしないでよね」
「そうや、ユッキーは物知りなだけで、正体は温泉小娘や」

 保坂から信長が次に目指したのは朽木だよね

「思うねんけど敦賀からの撤退戦で信長が一番懸念しとったんはこの辺ちゃうか」
「そうだと思うよ。ここを塞がれたら若狭で立ち往生になっちゃうもの」

 そんな風にも考えられるのか。金ヶ崎の退き口は、尻啖え孫市だけじゃなく、金ヶ崎から若狭への撤退がもっとも困難だったとしてるのが多いはず。

「あれも難度は高いで」
「というか、撤退戦と言うだけで難度高いものね」

 だけど醒めて見れば、木の芽峠の先鋒部隊を除けば残りの部隊は悠々と佐柿に逃げ込めそうだものね。そこを整然とやってのけたのは手腕だけど。

「信長の計算やけど・・・」

 浅井離反が四月二十六日だから、二十八日には小谷城を出陣できるとしたぐらいか。浅井軍の動きとして考えられるのは、

 ・敦賀に攻め込む
 ・保坂に出て若狭街道を抑える
 ・動かず信長軍の動向を確認する

 敦賀に浅井軍が現れていない情報は四月三十日でも知っていた可能性はあるかもしれない。そうなるとこの時点の焦点は、信長の撤退路を塞ぐために今津から保坂に出て来ることか。

 だけど小谷と今津の移動にはどんなに急いでも一日はかかるはずと読むのか。二十八日に小谷を出たら三十日には間に合ってしまう計算も出て来るけど、

「浅井かってどこに動くの情報を集めていたはずや。たとえば金ヶ崎の信長が動くか動かへんかや。動かへんのなら朝倉と連合して敦賀決戦もある。そやけど信長はトットと佐柿に引いてもたぐらいは二十九日に知ったやろう」

 なら若狭街道封鎖が良いかと言えば、

「撤退戦の状況が欲しいやんか。期待としては信長が討ち取られるまであるからな」

 なるほど金ヶ崎から佐柿に逃げても、総崩れ状態なら引き続いて若狭で追撃戦の展開も考えられるわけか。信長軍が若狭で壊滅状態になれば敦賀じゃなくて南近江を取りに行くよね。そんな信長軍が壊滅状態になるかならないかの情報は、

「二十九日に手に入るかどうかや。こういうもんは朝倉が正直に報告するかどうか怪しいもんや」

 そこから保坂を目指しても三十日には間に合わない計算が出て来るのか。そんなことまで信長は計算して、

「信長やのうても計算するわ。当時の人間の時間感覚や。そやけど信長かって浅井の動きの情報は不十分やったはずや」
「たとえばね、信長が若狭に動いた時点でひそかに高島郡に兵を動かしとくとか」

 そんな手もありなのか。それを言いだせば全軍じゃなく快速の別動隊を回す可能性もあるはずよね。なら若狭の情報を集まるのを待って、

「そうはいかん。信長かって若狭でいつまでもウロウロしとられへん。戦場でいかに情報を集めるかは勝敗を分けるが、いくら頑張っても限界がある。そういう時には手持ちの情報だけで判断して行動する果断が必要なんや」

 なるほど、金ケ崎の失敗を取り戻すにはまず京都に戻ること。さらには本拠地の岐阜に戻る事がその時の課題になるのか。史実でもそう動いてるものね。

「コトリ、距離と時間もあるけど、浅井もあれを知ってたのかな」
「実戦の経験で学んどった可能性はあるけど・・・」

 なんの話だ。史実ではすんなり保坂を抜けて朽木に進んでるけど、もし浅井が立ち塞がっていたら、熊川宿まで後退してたとか。

「ないと思うわ。そんなんしたら付け込まれるわ」
「だよね。腹を決めて強行突破のみ」

 無謀じゃない。

「とも言えん。信長が率いとる部隊は無傷に近いはずや。そんな部隊が帰師やぞ」
「帰師は遏むること勿れってこと」
「そうや帰師は阻むものやのうて追うものやねん」

 孫子から出た言葉だって。帰師とは外国に戦争に遠征して母国に帰ろうとする軍隊ぐらいの意味で良いみたいだけど、そういう軍隊は母国に帰りたい一心で死に物狂いで戦うから無暗に強いはずだから、

「向こう傷も大きいって意味や」

 保坂で信長軍を迎え撃てばそういう形になるから、浅井も避けた可能性もあるぐらいって話か。

「単純に間に合わへんの判断やったと思うけど」
「浅井の戦略的には湖東を南下して、信長の南近江回廊を脅かしたかったみたいだし」

 それが史実だものね。浅井だって無限の戦力があるわけじゃないから、どこに主力を向けるかはあるだろうし、

「あれこれ集まってくる情報から信長軍の傷は浅うて、早期の反撃は必至と判断したんやろ。京都に戻るだけやったら、若狭街道使わんでも針畑越もあるさかいな」